古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

『長崎奉行』~10

2013-06-30 06:55:59 | ホームページ更新
~任務~3

長崎に詰めている奉行を長崎在勤奉行、

江戸にいる方を江戸在府奉行と呼んだ。

在府奉行は江戸の役宅で、

江戸幕府当局と長崎在勤奉行の間に立ち、

両者の連絡その他にあたった。

在勤奉行の手にあまる重要問題や、

先例のない事項は、

江戸幕府老中に伺い決裁を求めたが、

これは在勤奉行から在府奉行を通して行なわれ、

その回答や指示も在府奉行を通して行なわれた。

オランダ商館長の将軍拝謁の際に

先導を務めたのも在府奉行であった。

  

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『長崎奉行』~9

2013-06-28 05:15:11 | 長崎の歴史
~任務~2

17世紀頃までは、

キリシタン対策や西国大名の監視が

主な任務であったが、

海舶互市新例が発布された頃は

貿易により利潤を得ることが

長崎奉行の重要な職務となってきた。

江戸時代も下ると、


レザノフ来航、フェートン号事件、

シーボルト事件、プチャーチン来航など、

長崎近海は騒がしくなり、

奉行の手腕がますます重要視されるようになる。



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『長崎奉行』~8

2013-06-26 05:15:34 | 長崎の歴史
~任務~1

奉行は天領長崎の最高責任者として、

長崎の行政・司法に加え、

長崎会所を監督し、

清国、オランダとの通商、

収益の幕府への上納、

勝手方勘定奉行との連絡、

諸国との外交接遇、

唐人屋敷や出島を所管し、

九州大名を始めとする諸国の動静探索、

日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、

西国キリシタンの禁圧、

長崎港警備を統括した。

長崎港で事件が起これば

佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、

指揮する権限も有していた。



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『長崎奉行』~7

2013-06-24 05:05:27 | ホームページ更新


奉行の配下には、支配組頭、支配下役、

支配調役、支配定役下役、与力(10騎)、

同心(15人)、清国通詞、オランダ通詞がいたが、

これら以外にも、地役人、町方役人、

長崎町年寄なども長崎行政に関与しており、

総計1000名にのぼる行政組織が成立した。

奉行やその部下、奉行所付の与力・同心は、

一部の例外を除いて単身赴任であった。

近隣大名が長崎に来た際は、

長崎奉行に拝謁して挨拶を行なったが、

大村氏のみは親戚格の扱いで、

他の大名とは違い挨拶もそこそこに中座敷へ通し、

酒肴を振舞うという慣例だった。




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『長崎奉行』~6

2013-06-22 05:25:20 | 長崎の歴史
しかし、川口宗恒が元禄3年(1690)に

従五位下摂津守に叙爵された後、

長崎奉行は同等の格に叙されるようになり、

元禄12年(1699)には京都町奉行よりも上席とされ、

遠国奉行の中では首座となった。

奉行の役所は本博多町(現、万才町)にあったが、

寛文3年(1663)の大火で焼失したため、


江戸町(現、長崎市江戸町・長崎県庁所在地)に

西役所(総坪数1679坪)と東役所が建てられた。

寛文11年(1671)に東役所が


立山(現、長崎市立山・長崎歴史文化博物館在地)に移され、

立山役所(総坪数3278坪)と改称された。

この両所を総称して長崎奉行所と呼んだ。



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『長崎奉行』~5

2013-06-20 05:55:17 | 長崎の歴史


その理由は、

「従来長崎奉行職は

 外国商人を支配する役職であって、

 外国人を重要視しないためにも、

 あえて低い地位の人を長崎奉行に任じてきた。

 しかし、ここで長崎奉行の位階を上昇させれば、

 当然位階の高い人をその職に充てなければならなくなる。

 これまで外国人を地位の低い役人が

 支配していることにより、

 それだけ外国において幕府の威光も高くなる

 との考えから遠国奉行の中でも

 長崎奉行の地位を低くし、

 しかも芙蓉の間末席にしてきた。

 そのため、長崎奉行の地位を上げるような願いは

 聞き届けられない」

というものであった。


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『長崎奉行』~4

2013-06-18 07:25:12 | 長崎の歴史
奉行は老中支配、

江戸城内の詰席は芙蓉の間で、

元禄3年(1690)には諸大夫格(従五位下)とされた。

その就任に際しては江戸城に登城し、

将軍に拝謁の上、これに任ずる旨の命を受ける。


当初は、芙蓉の間詰めの他の構成員は

全員諸大夫だったが、

長崎奉行のみが布衣の身分で、

しかも芙蓉の間末席であった。

牛込重忝が長崎奉行を務めていた時期、

当時の老中久世広之に対し

長崎奉行が他の構成員と同様に諸大夫になれるように

という請願がなされたが、

大老酒井忠清に拒否された。



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『長崎奉行』~3

2013-06-16 06:05:15 | 長崎の歴史
当初定員は1名で、南蛮船が入港し

現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、

南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ

帰府するという慣習であった。

しかし、島原の乱後は

有事の際に九州の諸大名の指揮を執るため

寛永15年(1638)以降は

必ず1人は常駐する事になった。

寛永10年(1633)2月に2人制となり、

貞享3年(1686)には3人制、

ついで元禄12年(1699)には4人制、

正徳3年(1713)には3人制と定員が変遷し、

享保期(1716~1736)以降は概ね2人制で定着する。

天保14年(1843)には1人制となったが、

弘化2年(1845)からは2人制に戻った。

定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、

毎年8月から9月頃、交替した。

また、延享3年(1746)以降の一時期は

勘定奉行が兼任した。


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『長崎奉行』~2

2013-06-14 05:15:32 | 長崎の歴史
秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は

豊臣氏の蔵入地を収公し

長崎行政は江戸幕府に移管された。

初期は竹中重義など

徳川秀忠側近の大名が任ぜられたが、

やがて小禄の旗本が、

のちには1000~2000石程度の上級旗本が

任ぜられるようになった。

長崎奉行職は幕末まで常置された。



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『長崎奉行』~1

2013-06-12 05:55:03 | 長崎の歴史
戦国時代大村氏の所領であった長崎は、

天正8年(1580)以来イエズス会に寄進されていたが

九州を平定した豊臣秀吉は

天正16年(1588)4月2日に長崎を直轄地とし

ついで鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。

文禄元年(1592)には奉行として

寺沢広高(肥前唐津城主)が任命された。

これが長崎奉行の前身である。


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