古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎の歴史~天領時代の長崎~4

2013-03-29 05:45:35 | ホームページ更新
『長崎代官』~4


~代官の職務~1


天正16年(1588)に長崎の代官となった鍋島直茂の職務は

物成などの収納・秀吉の御用物の購入・

長崎およびその近隣地域の警備と

海外貿易の取り締まりであった。

一方、村山等安は長崎の外町の統治を任されていた。

秀吉に納める地子25貫以外は己の収入とし

貿易で得た利益を加えて莫大な資産を貯えた。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~3

2013-03-26 07:35:51 | 長崎の歴史


『長崎代官』~3


徳川家康の直轄領となった慶長9年(1604)に

等安は家康に謁見し

改めて長崎の代官を勤める事を許された。

その後も等安は貿易により財を蓄えたが

末次平蔵の訴えにより

キリシタンの擁護と大坂の豊臣方に内通した嫌疑で

元和5年(1619)江戸で斬首。

彼の一族も長崎において処刑された。


村山に代わって末次平蔵政直が長崎代官となり

以後4代に渡って代官職を務めるが

延宝4年(1676)に密貿易が発覚し

4代茂朝とその一族や関係者は処罰される。

末次家の処罰後、代官職は長崎の町年寄が代行する。

元文4年(1739)長崎町年寄の高木作右衛門忠与(忠與)が

長崎の近郊の幕府領3000石の代官に任命され

以後は高木家の世襲となった。




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長崎の歴史~天領時代の長崎~2

2013-03-24 07:15:59 | 長崎の歴史
『長崎代官』~2


豊臣秀吉は、天正16年(1588)4月2日に

鍋島直茂を長崎の代官に任命した。

同年6月には寺沢広高と藤堂高虎が奉行に任命され

長崎へ派遣された。

代官の鍋島が長崎の地を常時監視する役目を負い

寺沢と藤堂は海外貿易での秀吉のための買物係と

貿易の監視のために派遣され

取り引きが終わった後は大坂へ帰還した。

文禄元年(1592)には、

朝鮮へ出兵した鍋島に代わり

寺沢広高を代官に任命する。

ただし、寺沢は多忙のため

家老など配下の者を派遣し

長崎の統治を代行させていた。

この頃は長崎に派遣された奉行は

海外の品の購入が主な職務で

長崎の統治は長崎代官が担っていた。

ただし、長崎の地誌類の多くは

初代長崎奉行は文禄元年に代官に就任した寺沢としている。

御免地以外を支配した代官村山等安は

その出自は不明であるが

長崎で朱印船貿易により財をなした商人である。

文禄元年(1592)秀吉に謁見した等安は

長崎の地子銀25貫を納入させる代わりに

御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地の支配を任された。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~1

2013-03-22 05:25:20 | 長崎の歴史
『長崎代官』~1


豊臣政権時代の長崎の代官には

豊臣秀吉により任命された代官と

地租を免除された町以外を支配した

長崎地下人の代官とがいた。

近世初期には秀吉が派遣した代官を

長崎奉行と呼ぶ事もあった。

江戸時代になってから

長崎代官は引き続き御免地以外の地を支配し

御免地を長崎奉行が支配した。

江戸時代初期も長崎奉行を長崎代官と呼ぶことがあったが

寛永年代に入ってからは「長崎奉行」と呼称される事が多くなり、

島原の乱後に就任した馬場利重の頃から

長崎奉行という呼び方に統一され

寛永18年(1641)以降は

奉行が長崎代官と呼ばれることは無くなる。



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長崎の歴史~開港前後~5

2013-03-20 06:25:13 | 長崎の歴史
『長崎村』~5


長崎村が慶長10年(1605)

長崎代官村山等安の献言によって天領となり

大村純忠の子喜前は、所領を失った純景に

時津村その他700石を与えようとしたが受けず

純景は筑後に出奔して田中吉政(33万石)に仕えた。

しかし、田中家が断絶したために

大村に帰り横瀬浦で100石の扶持を与えられた。

その後時津に移り住み、

甥で養子の長崎内匠のもとで余生を送った。

長崎甚左衛門純景夫妻の墓碑は

長崎県時津町小島田郷にある。



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長崎の歴史~開港前後~4

2013-03-18 05:05:07 | 長崎の歴史
『長崎村』~4


長崎開港後、豊臣秀吉は天正15年(1587)に

長崎(六町および新町)を公領とし

公領以外の長崎村を大村領として残した。

そして徳川家康は慶長10年(1605)に

長崎村を天領とし、

浦上村(北村・西村)を大村領として交換

長崎代官の支配下に置き

同時に庄屋(森田氏)を置いた。

その管轄地は長崎村13郷であった。

(十善寺郷・小島郷・高野平郷・伊良林郷・

 本河内郷・中川郷・馬場郷・夫婦川郷・

 片渕郷・木場郷・西山郷・岩原郷・船津郷)

そして江戸時代長崎村は上長崎村と下長崎村に分けられた。



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長崎の歴史~開港前後~3

2013-03-16 05:25:27 | ホームページ更新
『長崎村』~3


ルイス・アルメイダは永禄10年(1567)に長崎に来

翌、永禄11年まで滞在。

 「この地の名誉ある人と

  約500人の住民とが信徒になった。

  この付近に数か村の小村がある。

  ここに多数のキリシタンが居て長崎会堂に来る。」

とあり、この小村というのは

本河内・中川・伊良林・片渕・夫婦川・

西山・木場あたりを指すものと考えられている。

その後、ガスパル・ヴィレラが永禄12年(1569)に

長崎にて布教活動をし、1500人のキリシタンを数え

仏寺を改造して館のかたわらに

“小さいながら美しい教会”

トードス・オス・サントス教会を建てた。

長崎最初の教会である。



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長崎の歴史~開港前後~2

2013-03-14 04:45:41 | ホームページ更新
『長崎村』~2


初代長崎小太郎重綱は

鎌倉初期ごろの肥前国長崎出身の御家人で

鎌倉時代は長崎浦の地頭職で知行していた。

その頃の長崎の範囲は

後年の長崎氏の居城があった鶴城(桜馬場城)付近から

現県庁付近までを指していたようである。

石高は970石

鶴城(城の古址)という山城を拠城としたが

日常の生活に不便だったので、

平地に館(現桜馬場中学校)を構え

城と館を中心に素朴な城下町があった。

館の前付近では二日市という市がたち

そしてその直ぐ下辺りは海が広がっていたという。



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長崎の歴史~開港前後~1

2013-03-12 05:05:29 | 長崎の歴史
『長崎村』~1


開港されるころ長崎を治めていたのは

長崎氏14代目にあたる『長崎甚左衛門純景』である。

 天文17年(1548)~元和7年(1621)

 戦国末~近世初頭の土豪。

 長崎に生まれ、通称甚左衛門、

 教名ベルナルド。

 長崎左馬太夫純方の子。


純景は大村純忠の息女・とらを妻とし

大村氏に属した。

祖父は有馬貴純の三男・康純で

有馬家とも近い縁でもあった。



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    軸のページ   伊藤博文扁額 

    ウブニページ 

            H-1 瓢箪掛花入

            H-2 瓢茶入

            H-3 高麗井戸茶碗

            H-4唐物雲龍螺鈿香合

            H-5 唐物染付花瓶

            H-6 対洲三島花瓶