古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-10-30 12:03:32 | 長崎の歴史
(40)

厳密には隊士ではないが

海援隊を物資面から支えた

「小曽根英四郎」




小曽根英四郎(1841年~1890年)

長崎の書家小曽根六郎左衛門の四男。

小曽根乾堂の末弟。

高島秋帆に高島流西洋砲術を学び鉄砲術に秀でる

龍馬と一緒に楢崎龍へピストルの射撃法を教えたという。

慶応三年春頃、

小曽根家の別邸に海援隊が本部を設けている

社中・海援隊を資金面で援助し、

自らも海援隊に参加

なお太極丸の購入の「請人」となっている。

慶応二年八月大坂町奉行から托された書簡を

長崎奉行へ届ける途中、

長州で幕府の間者ではないかとの嫌疑をうけ抑留された

龍馬の依頼で伊藤九三がこれをとりなし事なきをえた。

慶応三年四月いろは丸に簿籌官として乗り込み事件に遭遇。

龍馬のはからいで紀州の明光丸に乗り込み、

長崎へ事件の第一報を伝えている。
 
維新後は長崎で花街通いをつづけ、

明治二十三年に愛宕町の別邸にて死去。

享年五十歳



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幕末の長崎~龍馬関連~海援隊

2009-10-29 12:33:09 | 長崎の歴史
写真は顕彰に建てられた銅像


(39)

海援隊メンバーではないが

天満屋事件に参加している


「加納宗七」

紀州人 実業家

宮本助七の次男。

紀伊国和歌山城下分銅町の出身。

紀州藩の御用商人として酒造業や廻船業を営む家業を手伝い、

安政4年岸善兵衛の次女・梅乃との結婚にあたって独立

有本屋を興します。

紀州藩においては、伊達五郎(宗興)らの引き手

慶応3年11月末京都に上り、

伊達の弟・陸奥源二郎(陸奥宗光)を訪ね

龍馬殺害を示唆したという噂のある

紀州藩の三浦休太郎襲撃計画に参画する

実行役のひとりに選ばれ、

この企てにあたっての支度金各4両ずつの出処は、

加納が国元から持参した100余両のなかからでした。

事件後、同志・竹中与三郎を神戸に頼り西之町に居住

材木屋を営み繁盛し事業を拡大。

生田川の治水に力を注ぎます

現在の神戸市街地の礎を築いた。

開発された土地に加納町の町名が残る。




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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-10-28 12:00:17 | 長崎の歴史
(38)

海援隊メンバー

「小谷耕蔵」



小谷 耕蔵(おだに こうぞう、生没年不詳)

志士、海援隊隊士。

越前国の出身

慶応初頭までに海援隊の前身である亀山社中に加盟

慶応2年(1867)大洲藩船いろは丸を隊が借り受けた際、

その船長として長崎を出航

しかしいろは丸は紀州藩船明光丸と衝突

耕蔵は事態の収拾に奔走している。

坂本龍馬らとともに紀州藩との交渉に出向いている。

やや粗暴な性格で、

また対内で佐幕論を唱えていたため

他の隊士からは煙たがられた事もあったという。

その際に龍馬が

「佐幕論者の一人も認められない事もないだろう」

と擁護したために、龍馬に一層心酔

竜馬は紀州藩との交渉が成立し、

そのことを隊士一同に知らせるよう依頼する手紙を

小谷に送っている(慶応三年5月29日)。

ただ、この後の記録はなく、

消息は不明になっている

竜馬が暗殺された後も海援隊として活躍したのではないか

ただ、佐幕派だったために、

維新後政府の役人などにはなれなかったのではないか。
 
また、一般的には「こたに」と読まれているが

土佐藩士池道之助の日記には

「尾谷孝蔵」と書かれている




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展覧会の案内を更新しました

2009-10-27 11:10:56 | HPの更新情報
久しぶりにHPを更新しました。

少し雑用に追われHPの更新が遅れていますが

何卒、ご容赦を…



今回の展覧会の案内は

長崎歴史文化博物館で10/31~始まります

「阿蘭陀とNIPPON」という展覧会です。

日本の鎖国政策の中、唯一の貿易港という特異な状況の下

繁栄を見た長崎には

諸外国の文化が凝縮されています。

今年は阿蘭陀通商400年を迎え

いろんなイベントが盛り込まれています。

是非、当時の文化に触れてみてください。



    展覧会の案内のページ  

    古美術 崎陽 HP 

幕末の長崎~龍馬関連~海援隊

2009-10-26 11:05:53 | 長崎の歴史
(37)

海援隊メンバー

「黒木小太郎」


黒木小太郎(生年不詳~1866年) 鳥取藩士

別名 黒木半兵衛

変名 高泉重太郎・早川二郎

正式な海援隊隊士ではない

剣術を鳥取藩の指南役だった北辰一刀流千葉重太郎に学ぶ。

龍馬との交友が史料上から確認できるのは

『海舟日記』の文久三年二月からで、

これは重太郎の紹介によるものと思われる。

よく剣術に長じ、

龍馬は家族にあてた書簡中

「千葉重太郎の門人にて真剣勝負之時、

平日之稽古と違わず、人是をおどろく」

と感心したさまを伝えている。

勝塾の閉鎖後、すぐに白峰駿馬と共に

龍馬らに合流したらしいが、

この事から「早川二郎」なる変名は黒木小太郎と判断される


慶応元年に発足した亀山社中に参加し、

中堅幹部として活躍

ワイルウェフ号に船長として乗り込み、

ユニオン号に曳航され鹿児島へ向かったが

途中暴風雨に見舞われ、

船や同志らと海中に没した。

此の事を悲しんだ坂本龍馬は

遭難現場に赴き遭難者を弔っている。

詳細が「龍馬手帳摘要」に記されている。



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幕末の長崎~龍馬関連~海援隊

2009-10-24 14:31:24 | 長崎の歴史
(36)

海援隊メンバー

「坂本清次郎」


坂本清次郎(1842年~没年不祥)海援隊士

別名 鎌田清次郎・三好賜・三好清明

土佐藩陪臣鎌田常吉の二男

坂本権平の娘(つまり龍馬の姪)春猪の夫

龍馬が権平の養子に入らなかったことから

郷士坂本家の養子となった

五十人組にも参加

春猪との間には二人の女子をもうけたが

慶応三年に脱藩し龍馬のもとへと走り、海援隊に参加

龍馬の評価は甚だ低く、

坂本乙女にあてて「何もをもわくのなき人」と評している

だが、真意はどうだろう

龍馬にしてみれば自分が原因で坂本家に入った養子が、

また自分を頼って出奔して来たのだから

そのため龍馬は坂本家に迷惑がおよばないよう

後藤象二郎に相談してみたり、

土佐へ帰国するよう促すなどしている。

明治三年、土佐へ帰国し、

脱藩の罪を問われ禁足。

赦免後、実家の兄が病死のため

坂本家を離退し、

鎌田家の跡目を継いた。

以後、自由民権運動に参加し

坂本直寛宅に同居

明治二十三年に広島市へ移住。

その地で没した。



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-10-23 11:11:33 | 長崎の歴史
(35)

海援隊メンバー

「竹中与三郎」



竹中与三郎(生没年不詳) 海援隊士 

別名 鳴尾屋与三郎

神戸に隣接する小村二茶屋村の出身

「鳴尾屋」という薬種業(茶商とも)をいとなむ

神戸海軍勝海舟塾時代から龍馬との交流が生まれ、

その閉鎖後も交友をつづけた。

慶応二年龍馬が薩長提携運動のため上京した時、

幕府の間者として龍馬に近づき、

買収した橋本久太夫からえた情報を幕府へと報告、

寺田屋襲撃後も龍馬の動静を報知するため

薩摩まで同行しようとした。

その後、龍馬に感化され

金銭面で社中・海援隊を援助

太極丸の購入時には買主として名をつらねている。

龍馬没後、その仇討のため

自ら天満屋への斬り込みを志願、参加。

手首を斬り落とされ、股部にも傷をおうなど

満身創痍になりながらも奮戦

のちの消息について詳らかでない

維新後、ともに天満屋へ斬り込んだ加納宗七の事業を

後援した旨が伝わっている。



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-10-21 11:21:35 | 長崎の歴史
(34)

海援隊メンバー

「宮地彦三郎」

宮地彦三郎 天保10年(1839)~大正5年(1916)

土佐藩士・海援隊士  

諱 真雄  号 梅庭・梅邱・如水

別名 宮地亀吉・八木彦三郎

変名 省兵衛・松原沖之進・佐々木三樹之進・神田淳次郎


土佐藩御用人宮地六丞真景の二男。

学問については徳永千規や細川潤次郎等に学び、

俊才であった。

書画をよくし、河田小龍等と親交があった。

普請方から下横目、監察役で京都詰となる

勤王派の志士たちと交流。

自らも強くこれに感化され勤王の志を抱くようになった。

龍馬とは文久三年二月に知りあい、

脱藩罪赦免のため謹慎する龍馬を

大坂から京都へ警護する。

同年十月、藩邸を脱走。

亡命を続けながら北添佶摩らと志士活動をし、

絵師や医師、公卿侍をつとめながら国事に奔走。

佐々木三樹進と変名し梅園家末勤侍と化していたが、

慶応3年6月後藤象二郎を旅宿を訪ね、

竜馬から海援隊に入ることを許された。

以来長岡謙吉配下として八木彦三郎を名乗る

ちなみに龍馬・中岡慎太郎暗殺の当日、

大坂出張から帰った彦三郎は

近江屋の一階から二階の龍馬・中岡と会話を交わし、

上がれと勧められたが辞退して、

大橋慎三と同宿していた新町の蕎麦屋に帰ったが、

竜馬の遭難を知り、現場に駆け付けた一人

龍馬没後

「以後、才谷位のごふけつハ土州には生じ不申」と嘆き、

天満屋への斬り込みに参加。

慶応四年一月に長岡謙吉を中心に新海援隊を結成し、

幹部として活躍

鳥羽伏見の戦いに加わって以後、

長岡謙吉と四国平定活動に奔走。

塩飽諸島でおきた人名と問人の階級闘争を解決し

現在でも島の「神様」として祭られている。

以来塩飽鎮撫所長や倉敷支所御用などを任じたが、

金毘羅出張所御預り所長を命ぜられ、

四国会議の推進、

金倉川の改修、

金毘羅宮の石段工事など事蹟を上げた。

その渡会県の県属などもしたが、

明治7年妹の病気を機に土佐へ帰国。

以後郷士の教育者として情熱を注いだ。

大正5年(1901)78歳没。




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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-10-20 15:43:11 | 長崎の歴史
(33)

海援隊メンバー

「島村要」


島村要(1844年~1922年)

別名 島本虎豹・土岐真金

土佐藩足軽島本信平の長男。

慶応二年、藩命にて京都藩邸詰となり

翌年龍馬らの海援隊に参加したと伝わる。

おそらく宮地彦三郎とほぼ同時期に

入隊したものと思われるが

後年の「土岐真金履歴書」によると

龍馬・中岡慎太郎暗殺のさい、

福岡藤次から事件を知らされた島村は

岡本健三郎と共に近江屋へ駆けつけ、

絶命前の慎太郎から遺言を聞き、

これを田中顕助に伝えたという

慶応四年、海援隊の長岡謙吉らと

讃岐塩飽諸島の鎮撫に活躍し、

島民たちから称えられ、

島村要の「島」の字と

八木彦三郎(宮地彦三郎)の「八」の字を

取り命名された「八島神社」が現存する。

維新後、軍務局に出仕し土佐へ帰国。

高知県において陶工業をいとなみ、

陶工振興に尽力した。



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-10-19 13:04:25 | 長崎の歴史
(32)

海援隊メンバー


「白峰駿馬」


白峰駿馬(1847年~1909年)

別名 鵜殿捨三郎・鵜殿鉄馬・鵜殿豊之進


越後長岡藩士鵜殿瀬左衛門の三男。

文久二年、長岡藩を脱して

江戸の兄 鵜殿団次郎をたより、

勝海舟が頭取をつとめる築地軍艦操練所に学ぶ。

元治元年ごろ入門した勝海舟塾で

龍馬と知りあい閉塾後も龍馬ら社中に合流

社中・海援隊では、

野村辰太郎とともに太極丸の船将をつとめ、

慶応三年の龍馬・中岡慎太郎の暗殺時は

数少ない海援隊士の一人として陸奥陽之助と滞京中


明治初年、千屋寅之助とともに

米国ラトガース大学に留学。

ニューヨーク海軍造船所で造船技術を学び

「造船術修行優等証」を贈られる。

帰国後、洋式造船の嚆矢「白峰丸」二百トンを造船し、

白峯造船所を建設。

岩崎弥太郎の三菱商会とも提携したが

明治十八年に倒産。

のち再建したものの金融恐慌の煽りうけ再び倒産

晩年は発明と研究に没頭、

政府から「勲六等瑞寳章」を賜った。



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