古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎の歴史~天領時代の長崎~30

2013-05-30 05:15:07 | 長崎の歴史
『町年寄』~20


~長崎奉行との関わり~8


長崎の町の由緒ある家柄の後藤惣左衛門を

会所の最高責任者とする事で、

長崎の地下人の不満を抑え、

それまでたびたび町年寄達が願っていた帯刀を許可する事で、

他の町年寄達にも

自分達がいずれは同じように帯刀を許されるのではないか

という希望を持たせるという、

長崎地下人達との宥和を図る一方、

倹約を旨として奉行による統制を強化する事で

石谷は海外貿易業務と町政の改革を図ったのである。



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     長崎の歴史

長崎の歴史~天領時代の長崎~29

2013-05-28 04:55:10 | 長崎の歴史
『町年寄』~19


~長崎奉行との関わり~7


石谷備前守清昌は、

後藤惣左衛門貞栄を

町年寄の上席の長崎会所調役に任命し、

一代限りの帯刀を許可した。

その理由は、後藤惣左衛門は

他の長崎の地下人と違い金銀の海外への流出を禁止し

国益を守る事を心がけているからだと述べている。

その一方で、宝暦13年(1763)3月には、

長崎地下人達に対してその生活に関する触書を通達した。

これは主に倹約について述べられており、

役人同士の談合などの際の酒食の量にまで言及している他、

役人同士の贈答の禁止、

親戚以外の結納の祝儀の禁止、

衣服の制限や冠婚葬祭・仏事の簡素化など、

非常に厳しいものであった。

これは町年寄も例外ではなく、

町年寄から奉行への贈答や、

役人から町年寄への贈答を禁止し、

町年寄の衣服は絹紬羽二重までといったことが定められた。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~28

2013-05-26 06:35:07 | 長崎の歴史
『町年寄』~18


~長崎奉行との関わり~6


このように松浦信正の改革は

町年寄を含めた地下役人全てを統制し、

会所に権力を集中させて貿易業務を管理するものであった。

この改革において、

彼は会所役人の村山庄左衛門・森弥次郎達を

改革に必要な協力者として取立てたのだが、

用行組と呼ばれる彼らは

松浦が長崎奉行を退いた後も権勢を振るい、

長崎奉行・町年寄の支配を無視した振る舞いが多く、

長崎奉行を辞した後も

勘定奉行の加役として長崎掛を命じられた松浦との癒着が続いた。

しかし、宝暦3年(1753)に松浦が失脚すると、

寛延元年(1748)に「商売方会所取締り」を

任ぜられた村山庄左衛門を始め

用行組の面々は厳罰に処せられる事となり(用行組事件)

松浦により様々な制限をされた町年寄の権限は復活した。




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長崎の歴史~天領時代の長崎~27

2013-05-23 06:05:26 | 長崎の歴史
『町年寄』~17


~長崎奉行との関わり~5


これは、町年寄を頂点とした地下人たちの組織と

長崎会所による組織の二重構造となっていた長崎を、

年番町年寄を長崎会所上席に据える事で会所に取り込み、

その下で諸事を全てにわたり掌握する組織を

再構築する事を目的としていた。

これ以後、町年寄が担当していた勘定関係業務は

長崎会所に移管され、

貿易に関するさまざまな帳面の作成は会所で担当し、

町年寄が裁決する事となった。

この他にも本興善町の糸蔵に保管されていた

江戸への御調進薬種の扱いを会所に移す等、

貿易業務を会所を中心としたシステムに変えていった。

そして、先述のように町年寄末席を廃止し、

怠慢な役人の数を減らし、

地下役人の受容する銀の額を減らす等、

経費の削減にも着手した。

奢侈の厳禁・禁令の遵守などを命じ、

町年寄には地下人に対する十分な世話と教育をするように命じた。

その上、町年寄から筆者・小役・

女性に至るまでの衣服の規定をし、

町年寄に対しては婚姻・結納における接待の簡素化まで命じた。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~26

2013-05-21 05:45:41 | 長崎の歴史
『町年寄』~16


~長崎奉行との関わり~4


松浦河内守信正は、貿易利益銀の確保と

長崎町年寄を始めとする長崎地下役人の

人員削減による経費節減を老中より命ぜられ、

大幅な改革を実施した。

松浦の地下への申渡しは、

年番町年寄は長崎会所で業務を遂行し、

商人・役人とは会所で接見し

自宅で業務を行うことを禁止。

地下役人の申請・願書等は、

年番町年寄の出勤時間に合わせて提出し、

それを町年寄が受理。

町年寄の家来が長崎地下に関することを処理する事を厳禁

長崎会所役人が吟味して町年寄が裁断する。

町年寄が月番で取扱っている業務や

金銀勘定は会所に移譲し、

自宅へ会所役人を呼ぶ事を禁じ、

問題があれば町年寄が会所へ出向く。

年番町年寄やその他の町年寄が取扱っていた控諸帳面は、

今後は会所が引き継ぐ事。

他にも町年寄の会所への出勤・退出時間の規定や、

職務に怠慢な者への処罰等、多岐にわたった。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~25

2013-05-19 06:45:07 | 長崎の歴史
『町年寄』~15


~長崎奉行との関わり~3


しかし、長崎における海外貿易の重要性が増すにつれ、

長崎の町の行政に不可欠な町年寄以下の町役人を

幕府の機構に組み入れるための様々な改革が行われた。

長崎における地下人の司法権が、

町年寄から長崎奉行に移管されたのは、

海舶互市新例が発布された正徳5年(1715)から。


萩原伯耆守美雅は、

長崎会所の中で素行が悪い者や怠慢な者は

免職にして役人を削減し、

また経費の削減や役人の不正を防止するよう指示を出した。

町年寄の統率力を強化し、

地下役人の腐敗・怠慢を無くして貿易業務を円滑化し、

不正な資金が地下人達へ流れることを食い止め

利益の確保、運上金や貿易の資金を捻出するため。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~24

2013-05-16 06:45:13 | 長崎の歴史
『町年寄』~14


~長崎奉行との関わり~2


随筆『翁草』には、

長崎奉行は交易のことのみで、

その他のことは枝葉の如く考え、

町方の行政は町年寄に全てを任せた為、

町年寄の専横が多かったと書かれている。

しかし、貿易業務や行政だけでなく、

長崎を見舞う問題にも奉行と町年寄は連携して対処。

島原の乱が勃発した時、

長崎の警固を大村藩に要請したのは町年寄であった。

また、享保17年(1732)の蝗害による西国の大飢饉に際して、

当時の長崎奉行大森山城守時長は、

商人が買い占めている米を調べてそれを確保し、

また大坂や下関等の諸国に飛脚を送り

長崎に米穀を廻送するように町年寄に命じた。

この時の大森山城守の措置により、

長崎は十分な食料の確保が出来、

餓死者は1人も出なかったという。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~23

2013-05-14 07:35:12 | 長崎の歴史


『町年寄』~13


~長崎奉行との関わり~1


長崎奉行は在任期間はその多くは数年で、

長崎在勤期間は隔年で1年ずつ。

しかも奉行の配下として働く与力・同心などは

数十人にすぎないため、

奉行が単独で長崎の町の現状や

貿易の仕組みを理解して

任務を遂行するのは甚だ困難であった。

そのため、長崎土着の役人であり

貿易業務を知り尽くしている町年寄達の協力は不可欠。

町年寄の専断は許されず、

その職務には奉行所の許可が必要だったが、

許可が下りないという事はほとんど無かった。

また、長崎に新任の奉行が着任する際には、

年番町年寄が地役人の代表として日見峠に出向き、

奉行の一行が峠で小憩を取る時にその到着を祝う。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~22

2013-05-12 05:15:08 | 長崎の歴史
『町年寄』~12


~町年寄末席~

町年寄末席は、

海舶互市新例以後に設けられた役職である。

享保20年(1735)に薬師寺与三右衛門が初めて任命されたが、

元文5年(1740)に薬師寺が病死した後は、

空席のままであった。

それが、延享3年(1746)に町年寄の高島作兵衛が死去した際に

その子である高島八郎兵衛が、

寛延元年(1748)に町年寄の福田六左衛門が死去した後に

倅の福田六之丞がそれぞれ町年寄末席に補任された。

しかし、役人の人員削減のため、

長崎奉行の松浦信正によりこの役職は廃止される。

ただし、両人の父親が本家の後見役を勤めたこともあるので、

一代限りにおいて町年寄末席を許可し、

その子孫は出島乙名・唐人屋敷乙名になるようにと命じられた。



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     長崎の歴

長崎の歴史~天領時代の長崎~21

2013-05-10 05:15:06 | 長崎の歴史
『町年寄』~11


~町年寄の職務~4


出島のオランダ商館にも公用で出入りし、

長崎ではオランダ正月と呼ばれた西暦の1月1日には、

通詞や出島乙名などと共に商館に招かれた。

他にも、他所の人間が長崎で罪を犯した等の場合に、

その吟味のため盗賊方懸りの乙名や

その手付が他領へ赴く際には、町年寄の印鑑を貰い、

相手の村役人にもあらかじめそれを見せて、

身分を明らかにしておく仕来りがあった。

また、皮屋町のを指導監督する組頭の任免の際には、

その度ごとに牢守役に当る者が

年番町年寄に届けて了解を得る事になっていた。



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