古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

五代 友厚-93

2016-07-30 07:25:42 | 長崎の歴史



市立大阪商業学校となる朝陽館の跡
1876年(明治9年)、
五代友厚はインド藍の圧迫に対抗する
国産事業の育成を図り、
藍製造所である朝陽館を経営する。
五代の死去により朝陽館事業は挫折したが、
跡地は官有となり、後に活躍する。

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五代 友厚-92

2016-07-28 06:35:04 | 長崎の歴史



「明治天皇聖躅碑」は
市の大正天皇御成婚25年奉祝事業として建立されたもので、
1928年(昭和3年)から3年間かけて
大阪市内の30か所に建てられている。
テレパーク敷地内の碑は、
明治天皇が西朝陽館を天覧した記念の碑として、
建てられた。
ここ以外にも、リーガロイヤルホテルや大阪城などにも建てられている。

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五代 友厚-91

2016-07-26 06:05:59 | 長崎の歴史




その横には「明治天皇聖躅」と刻まれた石碑がある。

その意味は「足跡」というらしく「明治天皇が残した足跡」という意味になる。

明治天皇は度々大阪に行幸をされていて、
この「明治天皇聖躅」なる碑は大阪の至る所に点在しているらしい。
そして、その殆どが明治天皇が崩御した後の、
大正時代に建てられたものだという。

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五代 友厚-90

2016-07-24 07:25:04 | 長崎の歴史



友厚が明治政府から資金の融通を受け精藍事業に手をそめたのは、
明治9年(1876年)のことである。
国産藍が舶来インジゴーに圧倒されるのを憂えたからで、
計画はかなり大がかりなものであった。
藍葉の買入地は関西一円にまたがり、
中国や朝鮮にも支店を設けて海外市場に雄飛しようとの
構想も秘められていた。
西朝陽館は明治9年9月、
堂島の地に従業員300名つたえられる規模で創業を開始した。

舶来の蒸気機関が唸りを上げ、
屹立する煙突から吐き出される煙は

桜ノ宮の造幣局のそれと好一対であったという。
しかし明治11年頃を最盛期に業績は下降し、
明治16年には閉鎖されている。

五代友厚像は、中央区本町橋2-8、

大阪商工会議所ビル(マイドームおおさか)の
南側と北浜の証券取引所の前にある。
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五代 友厚-87

2016-07-15 06:15:06 | 長崎の歴史



朝陽館

精藍所 西朝陽館跡田蓑橋から阪神高速1号線との間、

堂島川右岸のNTTテレパーク堂島第二ビルの前に

「五代友厚精藍所西朝陽館跡」の石碑が立つ。
朝陽館とは、
大阪の発展と深い関わりのある五代友厚が、
国産の藍がインド産のものに圧されるのを憂い、
明治9年(1876年)に、

蒸気機関を動力とする最新設備を導入し、
従業員300人で操業を始める。

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五代 友厚-86

2016-07-05 06:35:44 | 長崎の歴史



この不一致を穏便にまとめた人物の一人が五代だ。
五代の斡旋があり、五代邸は

大阪会議の準備会談として使われ、

大久保や伊藤らが何度も往復したという。
大久保は下準備のためにおよそ一か月間もの間

五代邸(現在の日銀)に入り、
年末年始を五代邸で過ごした。
他方、
木戸も来阪すると五代邸に大久保を訪ね、
碁を囲んだ。
このことからも、両者は五代邸で

囲碁を楽しんだことがわかる。
五代は大久保のためには労を惜しまなかったため、
大久保から五代に宛てた
「松陰(友厚の号)君へは近々勅丈にても
御差立御模様に候間為御心得申上置候」との手紙は、
五代が単なるお膳立・斡旋だけでなく、
会議の内容に相当立ち入った
積極的な役割を果たしたことを想像させる。

大久保・木戸・板垣の三者の思惑は
全く別のものであったが、
このように大久保の相談役そして、

板垣退助との仲介役としてこの不一致を
穏便にまとめた五代友厚らによって、

大阪会議を成功へと導いた。

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五代 友厚-85

2016-07-03 06:05:08 | 長崎の歴史



しかし、三者の思惑はまったく別のもので
大久保 → 木戸を政府に戻して政権を強化したい
木戸 → 政府に戻る代わりに政府改革要望

板垣 → 木戸を通して立憲制を強く要望
という考えで、なおかつ、
大久保は木戸のみと組みたいのに対し、
木戸は板垣がいないと政府には戻らない意向だった。

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五代 友厚-84

2016-07-01 06:55:04 | 長崎の歴史



この情勢を憂い、混迷する政局を打開すべく、
五代と同じように官界を去って実業界入りしていた

井上馨が「大久保・木戸・板垣」による
連携の必要性を説き、

伊藤博文や五代友厚らとともに

仲介役として大阪会議を開くのだった。

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