平戸焼唐子乗象型香炉
江戸後期
作品としては後にも先にも見たことがない秀品でした。
将軍に献上の為に象が来たのは長崎からで、
江戸までの道中それはそれは大騒ぎに!!
う~ん珍しかったんでしょうね(笑)
瀬戸の陶工も見習い、今の言葉で言う瀬戸物と全国に
知れるところとなったのは、平戸焼の素地があったからだと思います。
追伸 瀬戸に残っている文政元年(1818)に書かれた「染付焼起原」
二宮守恒撰によれば、瀬戸皿山加藤藤吉左衛門の二男である民吉は、
文化元年(1804)二月二十二日に瀬戸を出発して、まず肥後の国天草にある
東光寺(曹洞宗)の天中和尚を訪問している。この地の高浜焼の窯でしばらく
働くなかで、天草陶石をつかって焼いた平戸焼きを見たか聞いたのか?
それから同年九月に諏訪祭礼の見物に長崎に来る、その後は、折尾瀬村
(現在の佐世保市三河内地区)薬王寺の雄山和尚の世話で三河内の窯場で働く
十二月に三河内の窯から分かれた佐々の市ノ瀬焼の窯場に行く
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「亀山窯」
文化九年から天草陶石を使っての白磁政策の為に窯の改造をし、十一年(1814)から焼き始める。
天草陶石を一手に扱っていた高濱村庄屋上田宜珍の文化十一年二月七日の日記に、
世話役は馬町の大黒屋で、陶工には豊前上野焼で修行した加六や茂一という人がいる。
この時大神甚五平は八幡町組頭で、皿山世話方であった。
これから唐呉須を使って格調高いものができ上がるのです。
文化九年から天草陶石を使っての白磁政策の為に窯の改造をし、十一年(1814)から焼き始める。
天草陶石を一手に扱っていた高濱村庄屋上田宜珍の文化十一年二月七日の日記に、
世話役は馬町の大黒屋で、陶工には豊前上野焼で修行した加六や茂一という人がいる。
この時大神甚五平は八幡町組頭で、皿山世話方であった。
これから唐呉須を使って格調高いものができ上がるのです。
亀山焼
大型の急須の型で水指として作られたものである。亀山焼きはもとは渡来船が積荷を降ろして帰る時の船の水瓶を作り始めたと聞きます。天草陶石を使い、すばらしい焼き物を焼くようになっていくのです、絵付けも長崎の逸雲、鉄翁、梧門、他有名な竹田之絵付けもあります。特にこの作品は亀山でも秀品に入り、絵付けは数少ない唐人の名になっています。それも珍品のうちでしょう。
大型の急須の型で水指として作られたものである。亀山焼きはもとは渡来船が積荷を降ろして帰る時の船の水瓶を作り始めたと聞きます。天草陶石を使い、すばらしい焼き物を焼くようになっていくのです、絵付けも長崎の逸雲、鉄翁、梧門、他有名な竹田之絵付けもあります。特にこの作品は亀山でも秀品に入り、絵付けは数少ない唐人の名になっています。それも珍品のうちでしょう。
対州 狂言袴茶碗
お茶の風習は古く中国から鎌倉時代初期頃に日本に伝わり。
千利休は、お茶の心に侘びと寂びをもって精神の向上を図ったのではなかろうかと筆者は思う
豊臣秀吉が朝鮮に二度(1536~1598)侵略して陶工までも連れてきたのである。
秀吉が唐津に名護屋城を築いた目的のひとつだったのかな?!?!? 皆さんもご存知のように
朝鮮の陶工は唐津、有田、中野窯、薩摩、萩など等である。それから徳川の時代になり
家光が宗義成(1604~1651)に国交を命じ、見本(御手本、御本)を見せて
釜山で焼かせたのである、享保3年(1718)までとされるが!?!?それから対州窯
の時代が来るのである。喉から手の出るような焼き物があります!?!
お茶の風習は古く中国から鎌倉時代初期頃に日本に伝わり。
千利休は、お茶の心に侘びと寂びをもって精神の向上を図ったのではなかろうかと筆者は思う
豊臣秀吉が朝鮮に二度(1536~1598)侵略して陶工までも連れてきたのである。
秀吉が唐津に名護屋城を築いた目的のひとつだったのかな?!?!? 皆さんもご存知のように
朝鮮の陶工は唐津、有田、中野窯、薩摩、萩など等である。それから徳川の時代になり
家光が宗義成(1604~1651)に国交を命じ、見本(御手本、御本)を見せて
釜山で焼かせたのである、享保3年(1718)までとされるが!?!?それから対州窯
の時代が来るのである。喉から手の出るような焼き物があります!?!
禮賓三島
慶長の没後、渡来した韓国南部地方の陶工達によって伝えられた物に三島唐津がある。
三島唐津には象嵌、刷毛目、型紙刷毛目などあるが、
いずれも白土を使用する点が共通している。
なお韓国では三島の事を紛青とよんでいる。
象嵌は胎土のやわらかいうちに、刻印を押したり、
線彫りしてその文様に白土を嵌め込むものである。
茶碗、水指、鉢などが小峠、庭木、小田志、大草野の諸窯でつくられている。
慶長の没後、渡来した韓国南部地方の陶工達によって伝えられた物に三島唐津がある。
三島唐津には象嵌、刷毛目、型紙刷毛目などあるが、
いずれも白土を使用する点が共通している。
なお韓国では三島の事を紛青とよんでいる。
象嵌は胎土のやわらかいうちに、刻印を押したり、
線彫りしてその文様に白土を嵌め込むものである。
茶碗、水指、鉢などが小峠、庭木、小田志、大草野の諸窯でつくられている。
孫文は(1895年)日本に亡命
1905年に東京で、興中会・華興会・光復会の革命団体を統合して
中国革命同盟会を組織。
三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)を唱えて革命の指導理念とした。
当時日本に多くいた亡命や留学した中国知識人が活動に参加したほか、
海外の華僑や日本の進歩的資本家層の支持を受けた。
長崎には9回訪れ最初の頃は革命家の書であったのがだんだん書家の字になった。
「孫文」只今連載中
1905年に東京で、興中会・華興会・光復会の革命団体を統合して
中国革命同盟会を組織。
三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)を唱えて革命の指導理念とした。
当時日本に多くいた亡命や留学した中国知識人が活動に参加したほか、
海外の華僑や日本の進歩的資本家層の支持を受けた。
長崎には9回訪れ最初の頃は革命家の書であったのがだんだん書家の字になった。
「孫文」只今連載中