古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

五代 友厚-71

2016-05-30 06:55:50 | 長崎の歴史



そこで才助はまず、
大阪西成郡今宮村の「紀の圧別邸」を購入し、
一部を改築して金銀分析工場とした。
明治2年10月のことである。
「紀の圧」とはこの事業を
全面的に支援してくれた九里正三郎のことで、
中クラスの両替商だったといわれる。
造幣寮の落成は3年末、
稼働開始は翌4年2月で、
この動きに金銀分析所の活動は
照準を当てていたはずである。

造幣寮に時金局が置かれ、

金銀の買い入れに当るようになるのは
同年6月のことで、
これと前後して造幣寮舎密家久世喜弘
(治作)の子息、義之介を招聘した。

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五代 友厚-70

2016-05-28 07:15:18 | 長崎の歴史



金銀分析所の設立
明治初期の大阪は衰退していました。
その頃に新政府の方針で
一時期形式的に金本位制となり、
大阪や西国の公用通貨であった
銀が使用禁止となる。
その影響によって各藩が大阪に

出していた蔵屋敷は全てなくなると、
「天下の台所」として全国の富の
大半を集めていた大阪に
財貨が集まらなくなる。

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五代 友厚-68

2016-05-24 06:05:40 | 長崎の歴史


邦文活字の鋳造には成功したものの、
開業するだけの資力を
持ち合わせていなかった本木に、
才助は五千円の融資を申し出、
これによって大阪活版所が設立された。
小幡が経営にあたり、
予定通り英和辞典の印刷に着手したが
組版がはかばかしくいかず、
結局、明治4年に上海で刊行された。

これが五代編「薩摩辞書」と呼ばれるものである。
同じ頃、才助は同郷の高橋新吉(良昭)、

前田献吉(正穀)らの努力で出版された
「和訳英辞書」(通称「薩摩辞書」)
五百部の販売斡旋も引き受けている。

小松清廉(帯刀)が
依頼されていたのを引き継いだもので、

後に高橋は欧米留学、大蔵省大書記官、
ニューヨーク領事、九州鉄道社長、
勧業銀行総裁を歴任し、男爵になっている。

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五代 友厚-67

2016-05-21 06:55:27 | 長崎の歴史



大阪活版所才助が思い立ったのは
英和辞典の刊行である。
元通詞で今や才助の片腕ともなっている

堀孝之をその編纂に当たらせ、
この構想を我が国
印刷界の祖として著名な人物である

本木昌造に伝えるとともに、
活版業を開くよう勧めた。
才助の要請を容れた本木は、
自分が病弱だったため小幡正蔵、

酒井正三(薩英戦争後、
一時才助を自宅にかくまった)の二人を
才助のもとに遣り、交渉に当らせた。

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五代 友厚-66

2016-05-19 06:15:24 | 長崎の歴史


政府庇護下の為替会社は明治4年(1871年)
に通商司が廃止されると衰退し、

横浜為替会社が

第二国立銀行に転じた以外は解散してしまった。
通商会社は国内外の交易管理、商社統括、
商品取引の斡旋などを業務としたが、
外国貿易を独占することに対して諸外国から強力な
反対を受けたことを主因に解散を余儀なくされた。

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五代 友厚-65

2016-05-17 06:45:48 | 長崎の歴史



明治2年当時、会計官権判事だった五代は、
大阪発展のため、豪商らに大阪為替会社及び
大阪通商会社の設立を強く働きかけ、
五代が官を辞した後、

同年8月に両会社が設立された。
為替会社は、預金・貸付・為替・
為替札(金券・銀券・銭券・洋銀券)
発行など当時の銀行の役割を果たし、
通商会社が必要とする資金も供給した。

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五代 友厚-62

2016-05-09 05:15:03 | 長崎の歴史


夕刻、近隣住民の苦情を受けた土佐藩の警備隊は、
仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、
土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとした。
仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪った挙句、
逃亡しようとしたため、
土佐藩兵側は発砲し、
11人を射殺あるいは海に突き落とし溺死させてしまった。
この事件によって、
フランスなどの諸外国から謝罪と賠償を要求され、
発砲した土佐藩兵29人の処刑を要求された。

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