古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

(稲佐お栄)-38

2015-04-30 07:35:08 | 長崎の歴史




     (オロシャ お栄)

日露戦争が始まると彼女の一家は、
露探・ラシャメン・非国民などと罵られ、
家に投石され迫害された。

1905年(明治三十八)ロシアと講和が成立。
彼女は県当局から捕虜となったステッセル将軍の宿舎をとの
申し入れを受け、延べ九千四百八名のロシア軍捕虜を
稲佐全域八十軒で収容し、世話をした。
戦争の翌年、彼女は茂木に

純洋館建てのビーチホテルを開業する。
お栄は幕末に生まれ明治・大正を生き、
昭和ニ年五月数え年六十八才で生涯を終えた。

長崎の歴史






(稲佐お栄)-37

2015-04-28 06:25:06 | 長崎の歴史



     (オロシャ お栄)

1893年(明治二十六)ロシア軍艦で上海に渡る。帰ると、
長崎港を見晴らす稲佐台地に三百坪を借地し、

ホテル・ヴェスナー(春)をつくる。
客室二十、ロビー、宴会場、遊技場も備えたホテルでは連日連夜、

海軍士官達によりカルタ遊びや酒宴が繰り広げられた。
1900年頃、健康を損ね、ヴェスナーの経営はまつに任せ、
平戸小屋(現在の大鳥町)の小高い丘の上に土地を買い、

ロシア高官だけを顧客とする小ホテルと住居を建てる。

1903年(明治三十六)ロシアの陸軍大臣クロパトキン
(日露戦争では満州軍司令官)が軍事視察に来日し、
彼女のホテルに二十日間滞在する。

長崎の歴史

(稲佐お栄)-35

2015-04-24 07:25:11 | 長崎の歴史




     (オロシャ お栄)

稲佐お栄は、天草四郎の出生地・大矢野島に生まれ十二才の時、
両親を相次いで失う。
遠縁を頼って二十才まで茂木の旅館で女中奉公をする。

その後、料亭・ボルガの女将・諸岡まつの世話で
稲佐のロシア将校集会所で家政婦として働く。

稲佐はロシアマタロス休憩所が開かれて二十年を経た頃で、
ロシアは地元の庄屋、志賀家から千坪近い
土地を租借し病院や艇庫や小工場を建て、
水兵たちの休養の場としていた。お栄はここでロシア語を修得する。
二十一才の時、バルト号の船長付のボーイとして

ウラジオストークに渡る。十年後帰国し、流暢なロシア語と社交術で、
再びボルガで働く。

長崎の歴史

(稲佐お栄)-34

2015-04-22 05:25:44 | 長崎の歴史



     (オロシャ お栄)

勿論、稲佐にもおしのび、若き日のお栄さんについては
語るべきことはたくさんある。

露国皇太子の長崎来遊中、
その枕席に侍って寵愛をうけたことは天下周知のことである。

明治三十六年六月ロシアの陸相クロパトキンが、

明治三十八年一月旅順要塞地区司令官であったステッセルが
捕虜として来崎し、お栄さんのホテルに宿泊している。

長崎の歴史




(稲佐お栄)-33

2015-04-20 06:15:43 | 長崎の歴史




     (オロシャ お栄)
「稲佐風土記」によると:

ロシアのニコラス皇太子が長崎に来遊したのは
明治二十四年四月二十七日。
五月六日鹿児島へ出発するまで十日くらい滞在しているが、

その間に榎津町にいた野村幸三郎と又三郎の二人の刺青師を呼んで
両腕に龍の入れ墨をしている。


長崎の歴史

(稲佐お栄)-31

2015-04-16 08:05:30 | 長崎の歴史





     (オロシャ お栄)

開業後、たった一カ月で増築するほど、このホテルは成功を収めたのである。

「日露戦争のおかげでお栄さんの視野はロシアから世界へ広がり、
真の国際親善に活躍した」と松竹さんは言う。

稲佐には、ボルガ、ヴェスナ、そして「お栄さんの道」を上った所に平戸小屋の
ホテルと、ゆかりの跡地がいくつもある。茂木ホテルだけは離れているが、
結局彼女が息を引き取ったのは、
平戸小屋のホテルに隣り合った隠居所だった。
昭和二年(一九二七年)の五月十二日。稲佐のお栄は、
やはり稲佐に眠ったのである。

長崎の歴史




(稲佐お栄)-30

2015-04-14 06:25:19 | 長崎の歴史





     (オロシャ お栄)
■成功した再出発

ロシア艦隊が再び長崎に入港する日はない。
お栄は、ロシア以外の外国人を相手にもう一度ホテルをやろうと決心し、

若いころに働いていた茂木に二階建ての瀟洒な純洋館「茂木ホテル」

を建てた。長崎駅前に集まる二百人もの人力車夫に毎月金一封を
贈ったり、市内に和英両文のポスターを張り巡らすなどの彼女らしい
思い切りのいい宣伝方法で客を誘った結果、

長崎の歴史






(稲佐お栄)-29

2015-04-12 07:25:14 | 長崎の歴史






     (オロシャ お栄)
一年後、敗れたロシアの捕虜が長崎に送られてきた。
旅順要塞の司令官、ステッセル将軍とその妻もふくまれている。
敵とはいえ日本と激戦を繰り広げた名将である。
ロシアと縁の深いお栄の自宅が宿舎にあてられ、
彼女は紋付きの礼装で極上の紅茶を出して心からもてなしている。
このとき、将校以外の下級兵たちも稲佐のあちこちに分宿させられた。
外出する捕虜たちを引率したお栄は、
彼らが騒ぐと肝っ玉母さんのようにロシア語で一喝して黙らせたという。


長崎の歴史