古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(15)

2010-11-26 11:05:04 | 長崎の歴史
佐賀藩士「山口 尚芳」補足8

~岩倉使節団(8)~

* エピソード

使節団のほとんどは断髪・洋装であったが

岩倉は髷と和服という姿で渡航した。

この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。

日本の文化に対して誇りを持っていたためであったが

アメリカに留学していた子の岩倉具定らに

「未開の国と侮りを受ける」と説得され、

シカゴで断髪。後は洋装に改めた。


* ステレオ写真とステレオビュー

ステレオ写真とは、

レンズでのぞくことで立体的に見える写真のことで、

ステレオビューはこれを見るための器具です。

山口尚芳が欧州土産に持ち帰ったものと考えられ、

フランス、プロシア、イタリア、スイスなどの写真があります。



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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(14)

2010-11-17 12:25:07 | 長崎の歴史
                                 横浜港出航図




佐賀藩士「山口 尚芳」補足7

~岩倉使節団(7)~

主な使節団メンバー

「特命全権大使」 岩倉具視

「副使」木戸孝允(桂小五郎) 大久保利通

    伊藤博文  山口尚芳

「一等書記官」 田辺太一  何礼之  福地源一郎

「二等書記官」 渡辺洪基  小松済治  林董三郎

    長野桂次郎(立石斧次郎)

「三等書記官」 川路寛堂

「四等書記官」 安藤太郎  池田政懋

「大使随行」  久米邦武  中山信彬  内海忠勝
     
    野村靖  五辻安仲

「理事官」 田中光顕  東久世通禧  山田顕義

    佐佐木高行  田中不二麿  肥田為良

「随行」 村田新八  原田一道  長與專齋

    安場保和  若山儀一  阿部潜  沖守固

    富田命保  杉山一成  吉雄永昌  中島永元

    近藤鎮三  今村和郎  内村公平  大島高任

    瓜生震  岡内重俊  中野健明  平賀義質

    長野文炳

「イギリス留学」  中江兆民  鍋島直大  前田利嗣

    毛利元敏

「イギリス・フランス留学」  前田利同

「アメリカ留学」  金子堅太郎  團琢磨  牧野伸顕

    黒田長知  鳥居忠文  津田梅子  山川捨松

    永井繁子  吉川重吉  木戸孝正  日下義雄

    山脇正勝  高木貞作

「ドイツ留学」  平田東助

「ロシア留学」  清水谷公考  万里小路正秀

「留学」  大村純熈  朝永甚次郎  長岡治三郎

    大鳥圭介  坊城俊章  武者小路実世

    錦小路頼言

「随員」  新島襄(通訳)  岩倉具綱

    大久保利和  牧野伸顕  山縣伊三郎

    山口俊太郎  吉井幸輔  富田鐵之助

    畠山義成(杉浦弘蔵)



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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(13)

2010-11-15 10:35:01 | 長崎の歴史


佐賀藩士「山口 尚芳」補足6

~岩倉使節団(6)~

帰国直後の彼らを迎えたのは征韓論政変であった。

欧米先進諸国の実情を実地に回覧、検分した彼らは

内治優先を主張、政府内部は分裂し

特権的地位を追われた全国各地の不平士族の暴動へと拡大した。

山口の郷里で勃発した明治7年の佐賀の乱では

政府側として鎮圧に向かった山口は

武雄の出兵の抑止や赦免に奔走した。

留学生も帰国後は政治、経済、教育、文化など

様々な分野で活躍し

日本の文明開化に大きく貢献した。

しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたこと

そのことでの留守政府との摩擦

外遊期間の大幅な延長

木戸と大久保の不仲などの政治的な問題をも引き起こした。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(12)

2010-11-11 10:35:05 | 長崎の歴史
>佐賀藩士「山口 尚芳」補足5

~岩倉使節団(5)~

早稲田大学中央図書館所蔵「大隈文書 山口尚芳書簡」中に

欧米回覧中に山口が大隈重信に宛てて書き送った書簡が

全部で16通確認されている。


山口には、副使である自身の「従者」としての同行者がいた。

山口俊太郎、川村勇、相良猪吉の3名である。

山口俊太郎は、出航当時数え年10歳の山口尚芳の長男である。

前掲書簡中に幼い俊太郎が自ら通訳をかって出るなど

その語学習熟の速さに驚嘆した様が記述されている。

この時、留学生として使節団に同行した少年は多く

なかでも俊太郎は、鹿児島の岩下長十郎とともに

「一行中の二神童」と呼ばれるほどの怜悧さを持ち合わせていた。

俊太郎は、そのままイギリスに滞在、

9年後に帰国したが、彼の英語は

イギリス人と寸分変わらぬほどであったという。

川村勇については、

出航当時数え年14歳・静岡出身とわかるのみで、

山口の従者となった経緯等は不明である。

しかし、この旅を最後に18歳で短い生涯を終えた。

もう一人の相良猪吉は、

従来の研究では素性不明の人物であった。

しかし「大隈文書山口尚芳書簡」にはたびたび「相良君」の名が登場。

おそらくは相良猪吉と同一人と推測される。

彼は眼病を患っていたようで

その病状についても書簡中に触れられている。

また、大隈の甥(大隈の姉妙子の子か)であることも確認。

しかし「相良君」のその後については判然としない。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(11)

2010-11-09 11:15:29 | 長崎の歴史
  鹿鳴館


佐賀藩士「山口 尚芳」補足4

~岩倉使節団(4)~

岩倉使節団についての評価はその後もわかれる。

派遣の目的のひとつでもあった条約改正への交渉は

実質的には失敗に終わり、

以降は極端な欧化政策へと方向を転換し、

明治を象徴する鹿鳴館での交渉へと移っていく。


新国家建設のモデルを欧米に求め、

各先進国の中に新しい日本の

進むべき道を探ろうとしたという意味では

まさに近代日本の船出を象徴する事業として

見ることができる。

そして、山口のみならず使節団各員にとっても

世界という目で、

東洋の果てに浮かぶ日本を見る

という視点を培った旅であったようだ。
 
また多くのメンバーがそれぞれの任務を負って分散したため

必ずしも全員が常に行動をともにし

同時に帰国したわけではなかった。

そのような中、山口は最後まで使節団の中にあった。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(10)

2010-11-07 10:25:19 | 長崎の歴史

佐賀藩士「山口 尚芳」補足3

~岩倉使節団(3)~
 
この岩倉使節団派遣は、

* 江戸幕府が条約を締結した各国への国書の奉呈

* 条約改正のための交渉

* 欧米近代国家の制度・文物の調査・研究

を目的とした。


しかし、最初の訪問地アメリカで

条約交渉が長引いたことに端を発して、

当初予定の10ケ月半の予定をはるかに超え

1年10ケ月にもおよぶ長旅となり、

欧米12ケ国の訪問を終えて帰国したのは明治6年9月。

また、この旅が若さで補っても補いきれぬほどに

困苦に満ちたものであり

久米邦武の『特命全権大使米欧回覧実記』からも

彼らの強烈な熱意と使命感なしには

到底成し遂げえない旅であったようだ。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(9)

2010-11-04 13:55:06 | 長崎の歴史



佐賀藩士「山口 尚芳」補足2

~岩倉使節団(2)~

明治4年(1871)11月12日

総勢46名の使節団一行は

18名の随従、43名の留学生らとともに横浜を出航した。

出航時の岩倉使節団団員の平均年齢はおよそ32歳。

最年長の岩倉ですら48歳、

副使の木戸が39歳、

大久保が42歳、

山口が33歳、伊藤は31歳。

使節団そのものが若き獅子たちの一行であった。

元来、この計画は前掲フルベッキが

明治2年に大隈に手渡した遣外使節派遣の建言書

「ブリーフ・スケッチ」がもとになっている。

当初は大隈が発議し、

彼自身が使節の任に当たる企てであった。

しかし、結果的に彼は日本に留まり

「留守政府」の大任を負わされた。 

岩倉大使のもと、

薩摩出身の大久保、

長州出身の木戸・伊藤という陣容の中で、

山口は、大隈に代わる肥前という藩閥の代表であった

という見方もある。


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