古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎奉行補足~11

2013-09-29 04:55:03 | 長崎の歴史
『牛込忠左衛門勝登』~1


牛込 重忝(うしごめ しげのり)

元和7年(1621)~貞享4年(1688)

江戸時代の旗本。

通称、忠左衛門。

長崎では勝登(かつなり)と称した。

父は牛込俊重。妻は川勝重氏の娘。


牛込氏は藤姓足利氏を称していたが、

上野国大胡(現在の群馬県前橋市)を領したことから、

姓を大胡氏に改め、

のち小田原北条氏に仕え

武蔵国牛込(現在の東京都新宿区)を領したことから、

牛込氏に改めた。


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     長崎の歴史

長崎奉行補足~10

2013-09-27 05:35:37 | 長崎の歴史
『遠山左衛門尉景晋』~10


~エピソード~2
長崎奉行として遠山左衛門尉景晋が着任したのは

1812~1816年のわずか4年。

この頃の長崎はオランダ船があまり入港せず、

財政が困難な時期でもあり、

景晋は役所の雑費を節約させ

二割減を成功させるという功績も残しています。

長崎奉行所立山役所跡で

当時の池や石燈籠が発掘されていますが、

その中に「遠山左衛門尉家中」の文字が

刻まれている石燈籠が見つかっています。


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長崎奉行補足~9

2013-09-25 04:45:29 | 長崎の歴史
『遠山左衛門尉景晋』~9


~エピソード~1

息子同様、人情派の名奉行だったようです。

出島のカピタン部屋で

帰国を目前に控えたオランダ商館長ドゥーフが

丸山遊女・瓜生野の間にできた息子・丈吉を

オランダへ連れて帰りたいと

幕府へ願い出たものの、却下されます。

当時、混血児に対する偏見の強かった日本、

息子の将来を案じ、養育費を託し、

息子が成人したら出島で仕事ができるようにと

長崎奉行所に前代未聞の嘆願書を提出。

前例がないこの難しい願いを

快く引き受けたのが、

ときの長崎奉行「遠山左衛門尉景晋」。

自らも息子を持つ親として

ドゥーフの心情を他人事には思えなかったのでしょう。

奉行は約束を守り異例の取り計らいで

14才の丈吉を地役人に任じました。

さらに「ドゥーフ」とも読めるように

「道富」という名字までも与えましたが

残念なことに17才の若さで亡くなります。


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長崎奉行補足~8

2013-09-23 06:55:25 | 長崎の歴史
『遠山左衛門尉景晋』~8


天保8年(1837)に死去。

法名は静定院殿従五位下前金吾校尉光善楽土大居士。

墓所は遠山家の菩提寺である本妙寺。

学問を通じた交流があり、

墓碑銘を撰した林述斎は、

その碑文で景晋の功績を讃えた最後に、

「急流勇退」の人物だと高く評価している。



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長崎奉行補足~7

2013-09-20 05:55:26 | 長崎の歴史
『遠山左衛門尉景晋』~7


文化元年(1804)ロシア船来航につき長崎へ

文化4年(1807)異国船来航により蝦夷地へ

従五位下に叙し左衛門少尉に任官。

文化9年(1812)目付から長崎奉行に異動。

文化13年(1816)長崎奉行から作事奉行に異動。

文政2年(1819)作事奉行から勘定奉行・公事方に異動。

文政3年(1820)公事方から勝手方に異動。

文政12年(1829)勘定奉行を辞す。


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長崎奉行補足~6

2013-09-18 05:15:45 | 長崎の歴史
『遠山左衛門尉景晋』~6


寛政11年(1799)西丸小姓組のまま蝦夷地御用を命じられ

蝦夷地・幌泉まで検分。

同年冬、蝦夷地御用を離れる。

この時の紀行『未曾有之記』を著わす。

寛政12年(1800)西丸小姓組番頭松平図書頭忠命組衆から

十三番徒頭に異動。

時に金四郎を称す。

享和2年(1802)徒頭から目付に異動。

在職中、金四郎から左衛門に改称する。


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長崎奉行補足~5

2013-09-16 06:15:28 | ホームページ更新
『遠山左衛門尉景晋』~5


天明7年(1787)小姓組番

寛政4年(1792)第1回昌平坂学問所の

学問吟味に上役の薦めで参加。


将軍徳川家斉が上覧するため

答案を清書するよう命じられており、

実質最高成績かそれに近かったと考えられる。


寛政6年(1794)昌平坂学問所の学問吟味に

甲科筆頭で及第。

同じ甲科には大田南畝がおり、

漢詩のやり取りなどの交流があった。


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長崎奉行補足~4

2013-09-14 05:15:07 | 長崎の歴史



『遠山左衛門尉景晋』~4


もともと景晋の養子入りした遠山家は、

明知遠山氏庶流の出で、

あまり昇進とは縁のない家であったが、

景晋は実家永井家がたどって来た出世ルートに乗り、

後の景元が活躍する基礎を築いた。

景晋は蝦夷地でロシア人との交渉の記録を

松前奉行村垣定行とともに

「西蝦夷日記」にまとめた。

「国書総目録」には、

他にも景晋の著作が14冊も挙げられている。


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長崎奉行補足~3

2013-09-12 05:05:44 | 長崎の歴史
『遠山左衛門尉景晋』~3


文化元年(1804)のロシア船来航の際

幕府の代表としてニコライ・レザノフと会談

レザノフ事件のきっかけを作った。

後に長崎奉行となり、

江戸に戻った後は勘定奉行などを勤めた。

文政年間の能吏として知られ、

中川忠英、石川忠房と共に三傑と呼ばれた。

最も名を馳せているのは

町奉行・遠山景元の父親としてである。


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長崎奉行補足~2

2013-09-10 04:45:10 | ホームページ更新
『遠山左衛門尉景晋』~2


明和4年(1767)遠山家と養子縁組

天明6年(1786)遠山家を養子相続する。

寛政元年(1789)榊原忠寛の娘と婚姻。

寛政6年(1794)昌平坂学問所の学問吟味に甲科筆頭で及第、

同年、養父の実子(義弟)景善を養子に迎えた。

景善は後に景晋の実子景元を自らの養子としました。


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