五代 友厚-107 2016-08-31 05:25:34 | 長崎の歴史 大阪株式取引所の設立 大阪証券取引所の前身、 大阪株式取引所もまた、友厚の尽力によって設立された。 政府は明治7年10月、株式取引所条例を発布し、 東京、大阪に各一か所の取引所を置くこととした。 長崎の歴史
五代 友厚-106 2016-08-29 05:05:07 | 長崎の歴史 大阪証券取引所設立 大阪証券取引所 大阪は江戸期の金相場会所以来、 金融取引の活発な地であり、 今日まで大阪経済の発展を担ってきた。 薩摩出身の五代友厚は明治11年、 大阪株式取引所の設立に尽力し、 大阪の発展に多大なる功績を残した。 長崎の歴史
五代 友厚-105 2016-08-27 08:05:46 | 長崎の歴史 江戸時代、 日本の為替・手形システムは大坂の両替商による 信用制度に基づいて 高度な仕組が確立されていたが、 明治政府は為替・手形に対する理解が不十分で、 銀目廃止や国立銀行以外での持参人払式の約束手形・ 小切手振出の禁止(国立銀行条例)などを行ったため 両替商の破綻や信用制度の混乱が発生した。 しかしながら、為替・手形に対する需要が高かったこと、 欧米でも同様の制度が存在していることから、 西南戦争以後に為替・手形制度の法制化が進められた。 そこで、ヘルマン・ロエスレルを中心に編纂が進められていた 商法草案のうちの「為替」の部分のみを独自の 法令「為替手形約束手形条例」として先行して実施したものである。 1895年の旧商法(第一編第十二章「手形及ヒ小切手」)の 一部先行実施に伴って廃止され、 その後1899年の商法(第四編「手形」)に継承された。 長崎の歴史
五代 友厚-104 2016-08-25 05:55:12 | 長崎の歴史 為替手形約束手形条例 為替手形約束手形条例 明治15年12月11日太政官布告第57号)は、 1883年12月11日に制定・公布された太政官布告。 近代手形・小切手法の先駆となる法令である。 長崎の歴史
五代 友厚-103 2016-08-23 06:15:29 | 長崎の歴史 五代はわざと頭取や副頭取にならず、 隅っこから初代会頭として生みの子の育ち行く姿を見て 「大阪が日本の産業と金融機関の 中枢になるのもすぐだ」と呟いたようだ。 創立委員の豪華な顔ぶれを見てもわかるように 五代がなぜ他に比べあまり有名でないかは 財閥を作らなかったことが影響していると言われている。 長崎の歴史
五代 友厚-102 2016-08-20 07:25:53 | 長崎の歴史 そして創立委員は五代を初め、 鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、 広瀬宰平(後の初代、住友総理人)らが150株、 を筆頭に計11人が創立委員となった。 長崎の歴史
五代 友厚-101 2016-08-18 05:35:40 | 長崎の歴史 五代が大阪商法会議所を 設立した目的は、 大阪の実業家が相互扶助によって、 新時代の潮流にさおさし 大阪商人の伝統である 信用第一主義に則り以て 自己の利益を増すと同時に、 大阪の繁栄を軸に国富の 増強に資するといった教育勅語のような 趣旨に基づく遠大な意図をもつのだった。 長崎の歴史
五代 友厚-100 2016-08-15 05:15:38 | 長崎の歴史 初代会頭は五代友厚で、 国内に事件が起こるといつもどさくさに紛れて 悪辣な金儲けをするやつが増えるのを防ぐため、 またお互いを助け合うためには実業家たちの 一致団結による協力と意見交換の場が必要と考え、 「もし、あとで加盟を申し込んでも 拒絶するかまたは巨額の入会費を徴収する」 といった半ば強引な形で大阪商人を 勧誘したちまち60人の同士を獲得した。 長崎の歴史
五代 友厚-99 2016-08-13 07:35:25 | 長崎の歴史 この事態を打開し、 大阪経済の復活を願って、 財界指導者の有志15名が 明治11年(1878年)7月、 大阪商法会議所設立の願書を 大阪府知事に提出した。 今日の大阪商工会議所の礎である。 長崎の歴史
五代 友厚-98 2016-08-10 06:55:43 | 長崎の歴史 大阪商法会議所設立 大阪商工会議所明治初期、 維新変動の波を受け、 大坂経済は低迷期に入っていた。 銀主体の商取引の廃止と、 藩債の整理による富豪や両替商の 資産消失が主な原因だった。 長崎の歴史