古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~11

2012-09-30 07:05:11 | ホームページ更新
~補足~1


幕末から大正まで生きた鉄斎は、

生活の糧は主に画業で得ていたようだが

「自分は儒者だ、画家ではない」と言いつづけ、

いわゆる文人画を描き沢山の絵を残した。

文人画というのは、

本来、学者や文化人が、

自らの思想や人生観を画面に表す絵であり、

専門の画家が描いた絵と区別している。

万巻の書を読み、万里の路を行き、

老いるほどに輝きを増していく。 

文人の嗜みとして、若い頃から描いているが、

60歳までの若描きは3割ほど。

大半は70歳以降で、それも年取るごとに増え

最後の89歳の作品が一番多い。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~10

2012-09-28 05:15:03 | 長崎の歴史
出版物

画集『鉄斎画賸』(1913年)

画集『百東坡図』(1922年)

画帖『米寿墨戯』(1923年)

印譜『無量壽佛堂印譜』(河井章石の印による自用印印譜)

文集『富岡鉄斎、大田垣蓮月』

近代浪漫派文庫2.新学社 (2007年) 

『富岡鉄斎 図録編.資料編』 京都新聞社 (1991年)



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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~9

2012-09-26 05:25:07 | ホームページ更新
兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺の「鉄斎美術館」と


西宮市の「辰馬考古資料館」に多くの作品が収蔵されている。


代表作品

「阿倍仲麻呂明州望月図」

「円通大師呉門隠栖図」(1914年)

 (国の重要文化財)辰馬考古資料館蔵

「二神会舞図」東京国立博物館蔵

「旧蝦夷風俗図」(1896年)

 東京国立博物館蔵

「富士山図屏風」(1896年)

 清荒神清澄寺蔵 紙本著色 六曲一双

「妙義山・瀞八丁図屏風」(1906年)

 布施美術館蔵 絹本著色 六曲一双

「不尽山頂全図」

「蓬莱仙境図」

「弘法大師像図」

「蘇東坡図」

「河内千早城図」湊川神社蔵

「武陵桃源図」(1923年)

「瀛洲遷境図」(1923年)

「阿倍仲麻呂在唐詠和歌図」足立美術館蔵


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~8

2012-09-24 05:45:08 | 長崎の歴史
「最後の文人」と謳われた鉄斎は、

学者(儒者)が本職であると自認し、

絵画は余技であると考えていた。

また「自分は意味のない絵は描かない」

「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」

というのが口癖だったという。

その画風は博学な知識に裏打ちされ、

主に中国古典を題材にしているが、

文人画を基本に、

大和絵、狩野派、琳派、大津絵など

様々な絵画様式を加え、

極めて創造的な独自性を持っている。

彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。

80歳を過ぎてますます隆盛で、

色彩感覚の溢れる傑作を描いた。

生涯を文人として貫き、

その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、

梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。

日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~7

2012-09-22 05:05:25 | 長崎の歴史
鉄斎は多くの展覧会の審査員となったが、

自らは一般の展覧会に出品することはあまりなかった。

明治30年(1897)以降では

自らが評議員である日本南画協会に定期出品している。

賛助出品という形で、

大正9年(1920)聖徳太子御忌千三百年記念美術展に

「蘇東坡図」を出している。

また大正11年(1922)大阪高島屋で個展を開催している。



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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~6

2012-09-20 04:25:05 | ホームページ更新
作画業は歳を重ねるごとに次第に認められ、

京都青年絵画研究会展示会の評議員(1886年)

京都美術協会委員(1890年)

京都市立日本青年絵画共進会顧問(1891年)

帝室技芸員(1917年)

帝国美術院会員(1919年)と順風満帆だった。

この間の明治29年(1897)に

田能村直入・谷口藹山らと

日本南画協会を発足させ

南画の発展にも寄与しようとした。

また今尾景年を通して橋本雅邦と知己となり、

明治関東画壇との交流も深まった。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~5

2012-09-18 05:45:11 | ホームページ更新
30歳で中島華陽の娘と結婚。

長女が生まれるが妻とは死別。

のちに再婚し長男を授かる。

明治14年(1881年)兄伝兵衛の死に伴い

京都薬屋町に転居し終の住処とする。

教育者としても活躍し、


明治2年(1869)私塾立命館で教員になる。

明治26年(1893)京都市美術学校で教員に就任し、

明治37年(1904)まで修身を教える。


大正13年(1924)大晦日、

持病であった胆石症が悪化。

京都の自宅にて没する。

享年90。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~4

2012-09-16 06:35:37 | ホームページ更新
維新後の30歳から40代半まで

大和国石上神宮や和泉国大鳥神社の神官(宮司)を勤めた。

この頃、大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興している。

座右の銘である

「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、

日本各地を旅した。

明治7年(1874)には、

松浦武四郎との交流から北海道を旅し、

アイヌの風俗を題材にした代表作

「旧蝦夷風俗図」を描いている。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~3

2012-09-14 04:55:12 | ホームページ更新
安政2年(1855)18歳頃に、

女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。

翌年、南北合派の窪田雪鷹、

大角南耕に絵の手ほどきを受け、

南画を小田海僊に、

大和絵を浮田一に学んだ。

文久元年(1861)には長崎に遊学し、

長崎南画派の祖門鉄翁、

木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。

翌文久2年、山中静逸と出会いをきっかけに、

画業で生計を立て始めた。

この頃私塾を開設。

藤本鉄石・板倉槐堂・江馬天江・

松本奎堂・平野国臣らと交遊した。

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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~2

2012-09-12 17:45:14 | ホームページ更新
天保7年(1837)京都三条通新町の

法衣商十一屋伝兵衛・富岡維叙の次男として生まれる。

幼名は不明。猷輔を通称とし、

のちに道昴・道節と称し、

明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、

しばらくのち百錬に改名。

字を無倦、号を鉄斎。

別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。

耳が少し不自由であったが、

幼少の頃から勉学に励み、

はじめ富岡家の家学である石門心学を、

15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、

岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。


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