古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(7)

2010-10-30 16:35:11 | 長崎の歴史


佐賀藩士「山口 尚芳」

明治27年5月、重病に当たり正三位に叙せられる。、

6月12日、死去。56歳。

勲一等瑞宝章を受章。

なお、山口尚芳の屋敷跡は武雄市の花島にあり、

現在は公民館の敷地となっている。

また、公民館の横には、

昭和5年(1930)に地元の有志により建設された記念碑が立っている。

毎年1月、山口尚芳をしのぶ

「範蔵祭(はんぞうさい)」

というのが顕彰碑のそばで行われています。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(6)

2010-10-27 17:45:16 | 長崎の歴史


佐賀藩士「山口 尚芳」

明治8年(1875)元老院議官。

明治13年(1880)には元老院幹事となり、

会社並組合条例審査総裁となる。

明治14年(1881)

前年に設置された会計検査院の初代院長に就任し、

勲二等に叙せられる。

しかしながら、

大隈重信が新政府から追放された明治14年の政変の影響で、

同年10月に会計検査院長の職を辞し、

参事院(内閣法制局の前身)の議官となり

外務部長兼軍事部長に任ぜられる。

明治15年(1882)から明治16年(1883)にかけては、

戒厳令、清韓両国在留ノ御国人取締規則、

徴兵令改正案が元老院審議に付されるに当たり

内閣委員に命ぜられる。

明治18年(1885)正四位に叙され、

参事院が廃された後は再び元老院議官となる。

明治19年(1886)従三位に叙され、

明治20年(1887)高等法院陪席裁判官となる。

明治23年(1890)貴族院議員に勅撰される。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(5)

2010-10-25 12:55:07 | 長崎の歴史


佐賀藩士「山口 尚芳」

帰国後に起きた征韓論争においては、

大久保・木戸らとともに遣韓使節反対の立場を取る。

このため、明治7年(1874)2月に

征韓論を唱えた江藤新平らが起こした佐賀の乱においては、

政府軍の側に立って鎮圧に尽力した。

まず、故郷・武雄の元領主鍋島茂昌や

その家臣であった士族を説諭し、

反乱への呼応を抑止。

自らも長崎に入り海軍警備兵を率いて

佐賀に入城、乱の鎮圧に当たった。

尚、佐賀の乱の際、武雄は反乱軍の脅迫に屈し

64名の兵士をやむなく乱に派遣していたため問題となったが、

鍋島茂昌が新政府軍に提出する謝罪文を添削するなど

武雄の罪を免ずるために努力している。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(4)

2010-10-21 12:05:13 | 長崎の歴史



佐賀藩士「山口 尚芳」

明治3年(1870)北海道開拓御用掛を命ぜられ、

明治4年(1871)外務少輔に転じた。

同年従四位に叙された上で、

欧米の視察および条約改正の下準備として

岩倉を全権大使とした遣欧使節が派遣されるにおよび

大久保利通・木戸孝允・伊藤博文とならぶ副使に任命され

明治6年(1873)9月まで各国を歴訪した。

その際、子息俊太郎を同行させ

英国に留学させたまま帰国する。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(3)

2010-10-19 15:35:12 | 長崎の歴史
佐賀藩士「山口 尚芳」

明治新政府においては、

明治元年(1868)3月に外国事務局御用掛、

4月に外国官、

5月に大阪府判事試補、

9月に越後府判事続いて東京府判事兼外国掛、

11月には外国官判事になるとともに箱館府在勤を命ぜられ、

従五位下に叙せられる。

明治2年(1869)1月、

長崎に出向きフルベッキに対し

東京に新たな大学を作るために招聘、受諾をうける。

4月に外国官判事兼東京府判事となり通商司総括を命じられる。

5月、会計官判事を命ぜられ、

6月には会計官判事をもって大阪府在勤を命ぜられる。

7月、大蔵大輔と民部大輔を兼務した同郷の大隈重信を補佐して、

大蔵大丞兼民部大丞となる。


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幕末の長崎で活躍した人~山口 尚芳(1)

2010-10-13 12:05:50 | 長崎の歴史
佐賀藩士「山口 尚芳」(やまぐち ますか/なおよし)

天保10年(1839) ~明治27年(1894)

明治時代の官僚、政治家、もと佐賀藩士(武雄領出身)。

父は山口尚澄。

通称は範蔵(はんぞう)。


天保10年(1839)山口形左衛門尚澄の子として

武雄に生まれた。幼名は範蔵。

幼少のころから佐賀藩武雄領主鍋島茂義に将来性を見込まれ、

佐賀藩主鍋島閑叟(直正)の命により、

他の藩士子弟らとともに長崎に遊学し、

オランダ語や蘭学を学んだ。

また、同藩の大隈重信・副島種臣らと共に、

長崎に設立された英語伝習所(後の済美館)で、

当時ちょうど来日していたグイド・フルベッキに英語を学んでいる。

他藩の俊才と肩をならべ英語の習得に励み、

帰藩後は、翻訳方兼練兵掛として勤務する。


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