古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-28 11:45:35 | 長崎の歴史

「本木昌造」

(9)

エピソード

本木家は通詞の家系だが

養父昌左衛門も語学の才能があり、

英語、オランダ語、ロシア語が達者で、

通訳としてひっぱりだこ。

また門人を集めて外国語塾を開き、盛況であった。

幕府に頼まれ砲術の書物を翻訳、

ほかに日常会話の手引書なども刊行している。

昌造は養父から語学を習うが

暗記力抜群、単語を覚えるスピードの速さは、

養父も舌を巻くほど。

青年時代ロシアの外交官プチヤーチンが

長崎に来たとき通訳を務めるが

会話にロシアの古い格言や言い伝えを織り込み、

盛んに機知に富んだジョークを連発したため、

気難し屋のプチヤーチンも感嘆し、

「なんじはわがはいの国に何年住んでいたのか」

と尋ねたといわれる。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-27 11:55:29 | 長崎の歴史
「本木昌造」

(8)

明治5年(1872)『学制』が施行されるが、それに従わず、

県からの圧力で明治7年(1874)ごろに

新街新塾を閉鎖させられる。

明治8年(1875)から病床につき9月3日死去。51歳。

墓碑は大光寺後山の本木家墓域にある。

彼には一子小太郎があったが、

彼の没後平野が後見。

本木のほかにも、大鳥圭介や島霞谷、

日本初の電胎母型による活字を製造した三代目木村嘉平など、

さまざまな人が自身での日本語の活字開発に取り組み、

ある者は一定の成果を得、

ある者は中途に挫折するが、

結局は、本木らにより

ウィリアム・ギャンブルから伝来された

西洋式活版術が市場を覇していくことになる。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-25 12:35:52 | 長崎の歴史
「本木昌造」

(7)

ギャンブルの活字にはひらがなはなく

新たに開発する必要があった。

その版下は池田香稚に依頼された

同年、小幡正蔵、酒井三蔵を送って大阪に支所を作り

(後の大阪活版所)

明治5年(1872)小幡と平野を東京に派遣し

長崎新塾出張活版製造所を設立させた

(後の築地活版)

本木は新塾の経営が苦しくなると、

製鉄所での業績回復の実績のあった平野に

活版製造所の経営を任せ、

平野は経営手腕にたけ業績を回復した。

また、陽を神奈川に送り、横浜毎日新聞を創刊させたり、

池田らとともに長崎新聞を創刊したりした。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-24 14:05:31 | 長崎の歴史

「本木昌造」

(6)

明治2年(1869)長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立

同年フルベッキの斡旋で

美華書館のウィリアム・ギャンブルから

活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。

このとき5種程度の活字も持ち込まれた。

明治3年(1870)同所を辞し、

吉村家宅地若しくは長州藩屋敷に

武士への授産施設や普通教育の施設として

新街新塾を設立する

この塾の経営で負債が溜まり、

解消の一助に新街活版製造所を設立した。


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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-21 11:55:12 | 長崎の歴史
写真は出島オランダ印刷所発行の本


「本木昌造」

(5)

長崎町版と呼ばれる

安政6年(1859)の『和英商賈対話集』、

翌万延元年の『蕃語小引』を

名義を藉りて印行している。

前者は欧文が鋳造活字、和文を整版で併せたもの

後者は和文欧文ともに鋳造されたものであった。

それ以前の嘉永4年(1851)に流し込み活字を作り、

「蘭和通辯の事を記せし一書」を印刷したと伝えられるが、

これは、『蘭和通辯(弁)』を印刷したものともされ、

あるいは訛伝で長崎町版の一書を指すとも云われる。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-20 11:25:01 | 長崎の歴史
「本木昌造」


(4)

万延元年(1860)11月、

飽浦の長崎製鉄所の御用係に任命され、

イギリスより蒸気船を買い入れ、

自ら船長となり江戸などへ航海をした。

後年の弟子平野富二は機関士として同船

寸暇を見ては活版印刷を考え、

また、長崎版の印行に関係した。

明治元年(1868)に

浜町と築町間の中島川に

日本最初の鉄橋を架設した。




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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-19 10:45:11 | 長崎の歴史
「本木昌造」

(3)

知識欲旺盛で西洋の諸文献を読みあさり

オランダ船の船長から通訳のお礼だと

古い活字式印刷機を譲り受け、

文明文化の進歩の根源は文字印刷にあると

漢字やかなの印刷ができないかと

印刷機を解体し研究を始める。

安政元年(1854)投獄される。

嫌疑は蘭通弁書の印行の咎、

英和辞書を印行しようとした咎、

他人の罪の身代わりなど定まらない。

出獄して謹慎となった本木は、

パンチ父型の製造などに取り組むが、

技術の未熟や材料の不足もあって成功しなかった。




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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-18 11:45:16 | 長崎の歴史
「本木昌造」

(2)

本木家は平戸のポルトガル通詞に始まるオランダ通詞の家系

本木の二代前の正栄は英和や仏和の辞典を作成

オランダ語を学び、舶来の書物によく接して

西洋の技術に強い関心を寄せた。

養父昌左衛門も語学の才能があり、

英語、オランダ語、ロシア語が達者で、

通訳として優秀。

外国語塾を開き幕府に頼まれ砲術の書物を翻訳、

日常会話の手引書なども刊行している。

昌造も暗記力抜群で父の職を継ぎ通詞となり、

嘉永6年(1853)にロシアの使節

エフィム・プチャーチンが長崎へ来航した折は通訳を務め

翌安政元年(1854)に下田に向かった折、

下田での条約交渉の通詞を担当

11月に彼らの船が地震により破損すると、

ロシア側との交渉を取り持ち、

わが国最初の洋式蒸気船を

無事に建造せしめるなど、

通訳以外の仕事へも強い関心と

実績を上げる。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-11-17 14:35:34 | 長崎の歴史

「本木昌造」


(1)

本木 昌造(もとぎ しょうぞう または もとき しょうぞう)

文政7年(1824)~明治8年(1875)

江戸幕府の通詞、教育者

諱 永久  幼名 作之助または元吉

異表記に昌三、笑三、咲三

号 永久

活版印刷の祖と言われる


文政7年(1824)長崎新大工町の世話人

北島三彌太の四男として生まれる。

11歳、天保5年(1843)に

母の兄、本木昌左衛門の養子に入る。



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