古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「佐野常民」(1)

2011-03-31 22:55:05 | 長崎の歴史


「佐野 常民」(さの つねたみ)

文政5年(1823)~明治35年(1902)

日本の武士・佐賀藩士。

明治期には元老院議員となる。

日本赤十字社の創始者。

官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿。

勲等は勲一等。

爵位は伯爵。

称号は日本赤十字社名誉社員。

佐賀の七賢人に挙げられている。

名は栄寿、栄寿左衛門。

子は佐野常羽。



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幕末の長崎で活躍した人~「香月経五郎」(4)

2011-03-27 18:45:28 | 長崎の歴史
明治初期の海外留学生

明治4年(1871)までに全国で281人が海外に留学しています。

うち佐賀県出身者は34人。


(官)=官費留学生、(県)=県費留学生、(自)=自費留学生です。


英国(イギリス)へ

 丹羽龍之助(官) 横尾弾九郎(県) 執行鎌九郎(県)

 八戸欣三郎(県) 高木報造(県)  古川常一郎(県)
 
 古川研二郎(県) 倉永猪三郎(県) 鶴田探一(県)

 志波虎二郎(県) 木下周一(県)  袋久平(県)
 
 円城寺権一(県) 辻小伝太(県)  横尾平太(県)

 石橋宗九郎(自)


米国(アメリカ)へ

 香月経五郎(官) 大塚綏二郎(官) 村地才一郎(官)


仏国(フランス)へ

 大塚琢蔵(県)  山口賢五郎(賢) 福地鷹次(県)

 浅田逸次(県)  


孛国へ

 大石良二(官)  相良元貞(官)  辻春十郎(県)

 長尾俊次郎(県) 吉武桂山(県)  石川助三郎(県)
 
 諫早千吉郎(自) 峠源次(自)   


白耳義国へ

 古賀護太郎(官)


清国(中国)へ

 福島禮介(官)  成富忠蔵(官)



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2011-03-26 09:35:09 | 長崎の歴史



ポンペの教え子「長與 專齋」

 肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)

に代々仕える漢方医の家系に生まれる。

 大村藩の藩校である五教館

(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後

 安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門

 やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。

のち大村藩の侍医となった。

 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて

 オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。



  !?!?「長與 專齋」の資料が近く入ります。!?!?strong>

幕末の長崎で活躍した人~「香月経五郎」(3)

2011-03-21 15:55:11 | 長崎の歴史
佐賀の乱

佐賀の乱

明治6年(1873)に帰国してからは

征韓論に伴う明治6年政変により

江藤新平が職を辞したためこれに同行し

佐賀県中属に任官した。

佐賀の乱では

はじめ佐賀県参事の森長義と連絡を取り

出兵の猶予を働きかけたが失敗し

江藤と共に本陣に備えた。

戦闘に敗れてからも佐賀を脱出する江藤に同行し

鹿児島、四国へと向かったが土佐にて捕えられた。

乱後の裁判にて斬首。

享年26で、中島鼎蔵と共に最年少であった。


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幕末の長崎で活躍した人~「香月経五郎」(2)

2011-03-17 13:15:07 | 長崎の歴史
               岩倉使節団

明治維新後は江藤新平の元、東京に遊学し、

山中一郎と共に「藤門の双璧」と謳われた。

明治2年(1869)大学南校(東京大学の前身の一つ)に入学

翌年には文部省により選抜されアメリカに留学した。

さらに明治4年(1871)の岩倉使節団の際には

旧藩主鍋島直大の通訳を務め

さらに直大と共にイギリスにわたり

オックスフォード大学で経済学を学んでいる。


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三無事件

2011-03-14 09:45:08 | 長崎の歴史

          川南豊作
三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)は、
日本で発生したクーデター未遂事件である。

(1)
概要 [編集]1961年12月12日に起きた、
旧日本軍の元将校らが画策したクーデター未遂で、
破壊活動防止法の適用により、初めて有罪判決が下された。



        三無事件

幕末の長崎で活躍した人~「香月経五郎」(1)

2011-03-09 17:45:04 | 長崎の歴史

香月 経五郎(かつき けいごろう)

嘉永2年(1849)~明治7年(1874)

江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士。

佐賀の乱の首謀者の一人。



嘉永2年(1849)佐賀城下早津江に

香月三之允の長男として生まれる。

幼少時は愚鈍とみられていたが

発奮し藩校弘道館で勉学に励んだ。

その甲斐あって慶応3年(1867)には

佐賀藩が長崎に設立した英学校致遠館に進んで頭角を現した。



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幕末の長崎で活躍した人~副島種臣(15)

2011-03-08 07:45:12 | 長崎の歴史
                  
佐賀藩士「副島種臣」補足11


代表的な書

~荘厳の金堂に我輩は座す~

これは、願正寺の本堂にかかげられたもの

願正寺は慶長5年(1600)に

鍋島藩初代藩主によって建てられたお寺。

幕末には勤王の志士たちをかくまい

岩倉具視の子どもたちの寄宿舎ともなったお寺です。


~神非守人 人実守神~

明治初期・40代後半

武者小路実篤、志賀直哉たちを魅了した蒼海書を代表する名品。

この作も専門家には深い意味がわかるのだろうが

佐賀県立美術館でも

「副島がどういう気持ちで書いたかはわからない」と言う。

読みは、「神 人を守るに非ず 人 実に神を守る」。



~帰雲飛雨~

佐賀県立美術館蔵
 
「○」の字を重ねるように筆を走らせ、

躍動感があふれている。



~春日其四句~

実相院蔵
 
幾何学的な字をテンポ良く連ねた書は

明治16年(1883)頃の作。

「野富烟霞色天縦花柳春」と書かれており

読みは

「野は烟霞(えんか)の色に富み

 天は花柳の春を縦(ほしいまま)にす」。



彼は征韓論に破れて下野し

盟友の江藤や西郷を失い

私生活では家族に次々と先立たれる

という苦難に見舞われます。

にも関わらず書き続けたその書のスケールの大きさと力強さは

高村光太郎や北大路魯山人も絶賛し

100年後の人々をも感嘆させています。


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幕末の長崎で活躍した人~副島種臣(14)

2011-03-05 17:05:17 | 長崎の歴史


副島は書家としても有名。

決まった文字の型はない。

自由奔放、独創の気分があふれている。

 「全心の書」

副島が習字をしていた使用人に次のように語った逸話に基づく。

「まず全心をこめ、

 これより遅くは書けないというくらい遅く最初の線を書く。

 その後も気をこめて出来るだけ遅く書く。

 構成や間隔は考えるな。

 そうやって修業を積めば、曲がっても筋の通った書になる」

五島美術館の名児耶明・学芸部長は

「これほどバラエティーあふれる書を残した人は少ない。

 現代の書の開拓者たちが挑戦したさまざまな表現を

 一人でやったと言っていいかもしれません」

と解説している。


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