大映の俳優陣は、東京撮影所・京都撮影所に所属の俳優さんがいて、とても充実し
ていたと思いますが、それでも大作・異色作の製作になりますと劇団やフリーの俳優
さんを呼んで出演してもらうことが結構ありました。
今回の三津田健さんもその中の一人です。三津田さんは明治35年(1902)に東京は
牛込で生れ、早稲田大学を中退して演劇の道を志しますが、これが中々思うように行
かず、一度は投身自殺、二度目は服毒自殺を図ったそうですがどちらも未遂に終わっ
ています。
昭和5年に尾上菊五郎が創った日本俳優学校で勉強をし直しすることになりますが、
同期に山形勲・植村謙二郎がいます。
芸名を三津田健にしたのは昭和12年に杉村春子らと文学座を創立した時からで、こ
こからが本格的な舞台と映画の仕事を始めることになるのです。
映画には早くから多くの作品に出演、渋谷実・今井正・溝口健二・木下恵介らの監督
が彼を贔屓にしています。
大映では「続・十代の性典」「銭形平次捕物控 金色の狼」「山椒大夫」「柳生連也斎 秘
伝月影抄」「四十八歳の抵抗」「夜の蝶」「流転の王妃」「からっ風野郎」「女の勲章」「秦
・始皇帝」「卍」などの作品で、どの作品も主役ではありませんが、奥行きを感じさせる
大事な脇役だったと思います。
三津田さんは高齢になっても演劇への情熱は衰えることを知らず、最後まで演劇界の
長老俳優として平成7年(1955)まで舞台に立たれましたが、平成9年(1997)脳梗塞のた
め95歳の生涯を閉じられました。
多くの作品に出られていたと記憶してます。
最近はこんな味がある俳優さんがいなくなりましたね。
先日はお疲れさまでした。
この大映関連のブログも、そろそろネタが切れてきました。
年末まで持つか持たないかです。(笑)
三津田さんはいい俳優さんでしたね。
三津田さん、素晴らしい俳優さんですね。
ネタ切れとおっしゃっているので、昭和三十二年の所謂”日映事件”について教えていただけないでしょうか?
当時の社内の雰囲気や影響などを、”発端編”と”顛末編”の2回に分けて詳しく書いていただければと思います。
曽我正史専務についてのひととなりや個人的な評価もお聞かせいただければと思います。
こちらこそご無沙汰ですみません。
曽我専務は中々のやり手だし、温厚な方で人望がありました。
日映のことには全社的に衝撃が走り、まさかの雰囲気でしたが、
社長の会社経営に対する考え方で相反する長年のもやもやが
あったのだろうと社員もある程度納得する雰囲気でした。
その後も永田社長との個人的な付き合いは保たれていたようですが、
復帰はとうとうされませんでした。
あの方が残っていて、経営を任せることになっていたら、
大映の悲劇は起こらなかったかもしれません。