映画が中心のブログです!

中島けんです。新しい映画や舞台の感想を中心に、大映の思い出、海外旅行・地元の話題などを写真付きで書かせていただきます。

続・大映宣伝部 (45) 思い出の年賀状は、阿部脩さん

2020年04月27日 | 日記

       

  一寸したことがキッカケで仲良くなった阿部脩さんですが、プロレスの選手時代もレフ

  リー時代もヒゲの阿部として人気があったし、その後も大映俳優として楽しく付き合った

  一人です。あの体格でいかつい表情ですから、いかにも怖そうですが日常はとても優しい

  人情家でした。福岡でのプロレス興行の時には必ず招待され、ジャイアント馬場やアント

  ニオ猪木の猪木の試合をリング下で何度も見せてもらいましたが、当時彼は本当に一番強

  いのは猪木だ・・・と言ってましたよ。

  大映倒産後は色々と事情があって福岡に住み、レストランを開くことになったのですが、

  私は彼の福岡入りとは逆に東京で仕事をすることになりすれ違い。数か月後に阿部ちゃん

  は急病で亡くなりました。大映では、九州各地で行なった「本郷功次郎まつり」で司会を

  買って出てくれて、一緒に過ごした思い出が残っています。

   

   

   

 

 

 

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続・大映宣伝部 (44) 思い出の年賀状は、長谷川待子さん

2020年04月20日 | 日記

       

  今回は去年の年末、私のブログの長いお付き合い・・・にも登場したもと大映・長谷川待子

  さんです。サザエさんの漫画家・長谷川町子さんと同じ発音なのでよく間違われますが、

  こちらの長谷川待子さんはSKDで活躍後、昭和38年(1963)に大映へきました。彼女の容姿

  からして時代劇は勿論、現代劇でもかなり個性的な役を演じていましたが、人柄が優しい

  ことと、あまりにも会社から便利使いをされて主演を張ることが少なかった彼女でした。

  大映時代、彼女のボーリングの腕前はプロ級で、女子プロポーラーの映画を作ろうと、本

  社や撮影所の仲間に待子さん、それに中山律子さんや野村美恵子選手らを加えて銀座で語

  り明かしたこともあります。

  大映が倒産産後も東京や大阪で何度もお会いしましたし、福岡にも度々来てくれて昔話を

  したりしたものです。私とのお付き合いが今でも続いているのは若松和子さんと長谷川待

  子さんくらいでしょうか。いつまでも元気な待子さん・和子さんであって欲しいと心から

  願う私です。

   

   

   

 

 

 

 

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近況報告です。

2020年04月17日 | 日記

   

  緊急事態宣言で映画館に行けないのが残念ですが、じぃーっと我慢、外出自粛していま

  す。ただぼんやりしているだけでは仕方がないので、未見のDVDが1000本以上あります

  から計画的に観ています。友人や子供とはパソコンや携帯で連絡を取り合っているので、

  5月6日までは何とか問題なく過ごせそうです。

  加えて2月下旬から同じマンションの中にあるデイサービスセンターでリハビリをしてい

  るのも強みの一つです。トップの写真の私と一緒に収まっている女性が、ここのサービス

  センター長(まだ独身ですよ!)で、実に計画的で親切丁寧な実施指導が見事です。ガチガチ

  になっていた私の足腰が、段々ほぐれて行くような感じがしています。

   

   

 

 

  

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続・大映宣伝部 (43) 思い出の年賀状は、安田道代(現・大楠)さん

2020年04月13日 | 日記

       

  大映当時に私達宣伝部は、安田道代(現・大楠道代)さんを山本富士子に次ぐ美人女優と

  して育てようと大童でした。入社したころに某の彼女だとか色々言われましたが、いつ

  もあっけらかんとしていたし、私はとても正直で逞しく人の好い女性という印象を持ち

  ました。

  「氷点」(監督・山本薩夫)の完成試写会で来福した時は、私のリクエストで原作者の三

  浦綾子さん(故人)も一緒に来ていただいたことがあります。三浦さんは、「自作の映画

  化の場合、映画会社にお渡ししたら私は一切口を出しません。結果がどうであろうと、

  映画会社は原作の味を出そうと一生懸命努力してくださるのですから…」と仰言ってい

  て、今でもその言葉が頭から離れません。その夜ですよ、安田くんは"宇宙・UFO"に興

  味があって、深夜まで話し込んだことを思い出します。

  大映が倒産し、消えて行った俳優さんも居りますが、彼女はそれからも女優賞を獲るく

  らい精進しているし、陰ながら拍手を送っていた私です。

  ラストの写真は、昭和41年(1966)に、福岡で九州の映画館館主を招待したパーティでの

  スナップです。私や松山英夫常務も一緒でした。

   

        

   

 

 

 

 

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続・大映宣伝部 (42) 思い出の年賀状は、坪内ミキ子さん

2020年04月06日 | 日記

       

  最近は外出自粛/自粛で映画館に行く気が萎えているのが一番悲しいことで、暫くは辛抱

  辛抱です。

  さて今回の年賀状の思い出は坪内ミキ子さん。お父さんである坪内士行さんは坪内逍遥の

  お兄さんの子ですので逍遙とは血が繋がっています。またお母さんは宝塚一期生のトップ

  娘役だった雲井浪子ですから、坪内ミキ子さんは毛並が抜群のお嬢さんです。彼女の希望

  は宝塚に入ることでしたが、お母さんが大反対したこともあって断念。早稲田大学を卒業、

  縁があって大映に入社、市川雷蔵の「陽気な殿様」(1962)がデビュー作品で時代劇を中心

  に活躍しました。

  私は撮影所で会ったり、キャンペーンなどで何度か一緒に仕事をしましたが、人柄がいいこ

  とに加えて明るくお茶目でさえあったな~が当時の私の印象です。彼女の結婚相手は我々と

  同じ宣伝部出身で、後に大映レコード室長をやった桜井正伍氏でお二人の新婚旅行は九州で

  した。(ツーショットは新婚旅行中、長崎にて)

  大映倒産後もテレビを中心に活動、更に総務庁の青少年問題審議会委員や更生保護事業振興

  財団の評議員など、幅広い活動されていました。私は「宇津井健を偲ぶ会」で久しぶりお会

  いしましたが、藤村志保や雷蔵夫人と仲良しで、今でも三人は毎日のように電話をしたりし

  ているそうです。

    

    

    

 

 

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