行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「信仰」を語る社会と回避する社会

2016-06-18 22:33:49 | 日記
国際善隣協会での講演で伝えたもう一つのテーマが中国で社会問題となっている「信仰の不在」だった。日本での「信仰」は主として宗教を意味するが、中国では宗教のほか、イデオロギーを含む幅広い概念で、精神的な支えと言うべき内容を意味する。儒教・道教・仏教の伝統を持つが、文化大革命期の宗教破壊。その反省に立つ改革開放後は、道徳の荒廃の上に築かれた拝金主義、社会主義イデオロギーの敗北などが重なり信仰の荒廃、信仰の不在とも言うべき事態を迎えている。

共産党は「社会主義核心価値観」なるものを掲げ信仰の中心に据えようとしている。町中のいたるところにポスターや横断幕を置いているが、いつものように庶民は全く関心がない。



共産党はマルクス主義宗教観によって無神論の立場に立つが、党員も人の子である以上、宗教にすがりたくなる。そうした信仰の危機を受け、2011年12月には党中央委員会機関誌『求是』が「共産党員が宗教を信仰してならないのは、党の一貫した基本原則」との論文を掲載した。2012年の党創設91周年記念フィルムのタイトルは『信仰』だった。習近平は信仰の不在への危機感がことに強く、信仰は「主電源」「精神のカルシウム」であると熱弁をふるっている。

今の日本では「信仰」を公然と語ることが幅ったいように見えるが、以前はどうでなかった。岩波書店から出た『日中の120年文芸・評論作品選』第1巻を読んでいたら、日本人が当たり前のように「信仰」を語っているのに気付いた。



勝海舟『氷川清話』は、日清戦争の講和問題に触れる中でこう書いてある。

「支那人頑愚なりといえども、公明なる道理と東洋の将来とを説くに誠意と信仰とをもってせば、あに一旦貫通して覚らざるところなしとせんや」

話し合いによって早急に戦争を幕引きし、中国との関係改善を求めたのだが、信仰によって話し合いをすべきと言っている。信念、主義、理想といった大局的な立場を指しているのだろう。

また、泉鏡花の『海城発電』には、愛国よりも赤十字社の博愛を信ずる看護員を軍人が責め立てる場面で、あくまでも節を曲げない看護員について、「其信仰や極めて確乎たるものにてありしなり」と評している。

北一輝の『支那革命外史』はより鮮明だ。孫文率いる辛亥革命によって清朝が滅び、共和政府が生まれたのは、文弱な官僚のよりどころであった儒教の終焉であって、軍国主義によって列強に対する「国民的信念」を生んだという。儒教の教義それ自身が「已に国民的信念より消滅」したことを示すのだと断言したうえで、こう語る。

「東洋的共和政は仏人(フランス人)が為せし如く黄人自らの有する政体と信仰の回顧より始めざるべからず。同一なる革命前に至るまでの暗黒時代に於て日本が武士制度を採りて今日興隆の因を播き、支那が文士制度に誤られて今尚衰弱の果を拾いつつある根本を洞察せよ。実に非戦無抵抗の政談と慈悲折伏(しゃくぶく)の大乗仏との心的傾向に淵源す」

中国に「信仰の回顧」を説く北一輝は、力が支配する国際社会の中にあって、口だけの平和主義は通用せず、愛国心に支えられた軍備が必要だと説く。信仰は、中国人に巣くった思想とでも言えよう。

ではどうして現代の日本は信仰を語らなくなったのか。平和になったからなのか。信仰の不在を通り越し、存在自体を問わなくなったからなのか。人間が精神を持った存在である以上、そのこと自体、不自然なことではないのか。日中の認識ギャップにも、「信仰」への理解が横たわっているような気がする。

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1 コメント

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思索と観照 (孫景文)
2016-06-19 14:48:00
神と精霊の思想を失くすには数字的打算とその評価を普遍化します。
深層の情緒性が衰えると 、思索は欲望の本性に覆われ、個別の実利に向かいます。
道教神仙の利福や長寿もその姿でしょう。

孔子や釈迦、国のスローガンも、「あれはハナシ」と考える鷹揚さがあります。
まさに、天下思想です。

諦観と生きること、まさにたどり着いた独得の智慧ということでしょう。
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