行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【2019古都取材ツアー⑲】冷泉家の雛飾りに驚き

2019-06-16 19:44:09 | 日記
京都・城南宮でタイミングよく曲水の宴の取材が実現したが、和歌の伝統行事を現代社会と結び付け、どのように中国の人々に伝えればよいか。これが取材計画を練る段階で大きな課題となった。単なる物珍しい観光イベントではない。復古ではあっても、現代との接点が必ずある。和歌の伝統継承と同時に、若者の間に広まっている短歌ブームを対照させて探求してはどうか。こうして取材対象探しが始まった。

若者についてはすでに紹介した通り、ネットで京大短歌会と連絡を取り、幸運にも定例の短歌会に参加することができた。
【2019古都取材ツアー⑩】京大短歌会に中国語で参加https://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/03d6d6ff7f1ff239805185aedd4532e5

では、伝統的な和歌の伝承についてふさわしい対象は・・・言うまでもなく平安時代の藤原俊成・定家父子を祖とする冷泉家である。冷泉家時雨亭文庫は定期的に歌会を開く一方、毎年、上加茂神社で行われる曲水の宴にも歌人を送っている。これ以上望むべくもない取材対象だが、敷居は極めて高い。ここで救ってくれたのは、またもや同級生の正定院住職、木村純香さんだ。彼女の縁を通じて第25代当主夫人の冷泉貴実子さんへの取材が実現した。超多忙な折、実に得難い機会だった。



5月25日の学内報告では、担当の蒋楚珊(ジャーナリズム専攻3年)が取材内容を紹介した。





冷泉家時雨亭文庫は御所の北側の向かいにある。冷泉家は1000年近く続く歌道の祖であり、200年の歴史を有する建物は、完全な形で現存する唯一の公家屋敷だ。明治期、天皇とともに旧華族が東京に移ったが、貴重な書籍資料を保存する冷泉家は残り、戦火を免れた。

時間が止まったような和室の中に足を踏み入れ、学生たちはさすがに息をひそめた。体全体で歴史の重さを感じようとしているようだった。みんなの目の前に現れた冷泉貴実子さんは、その重さを体現した存在だったが、物腰は柔らかく、8人の学生たちに気さくにお茶とお茶菓子をすすめてくれた。質問を担当する学生も緊張がほぐれ、ゆったりとした気持ちで取材ができた。

冷泉家時雨亭文庫の庭には、国風化以降の「右近の橘、左近の桜」ではなく、中国の影響を残した「右に橘、左に梅」が植えてある。冷泉さんから、中国の影響はそれにとどまらないことを教えられ、学生たちはますます話に引きこまれていった。

冷泉家では農暦(陰暦)を中心に年中行事を行っており、中でも七夕の七月七日には重要な「乞巧奠(きっこうでん)」がある。織姫に針仕事の技術を「乞巧=請う」というところから派生した中国の習俗である。この日は、天の川に見立てた白い布に向き合って男女が歌のやりとりを行うという。

和歌が伝統の型を通じて感性、感情を共有するのに対し、明治以降に発展した短歌は型を打破し、個人の気分を歌い上げる。全体と個の対比としてもとらえられる。年中行事は感動の共有に欠かせない儀式となる。





さらに驚いたのは、奥の間に案内されて拝見した雛飾りだった。歴代の冷泉家女性の歴史を刻む文化遺産と言ってもよい。天皇家から贈られたという人形もある。京都なので、男雛が左(向かって右)、女雛が右である。左を右よりも重んじた中国唐代の風習を残している。そこで冷泉さんが学生たちに、一群の人形や掛け軸の絵を指さし、

「これは西王母、知っている?」

と尋ねた。学生たちはキョトンとした表情を見せる。旧暦3月3日は桃の節句と言われるが、西王母こそ長寿の象徴である桃と切り離せない人物なのだ。中国には、女性の仙人・西王母が三千年に一度しか実のらない桃を漢の武帝に献上し、長寿を願ったという物語がある。そんな中国古代の伝説が、日本の旧貴族の家に伝わっていることを目の当たりにした学生たちの感動はいかばかりだっただろうか。

その感動を一緒に共有できた私にとっても貴重な体験だった。

(続)

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