行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

中国人記者が1935年に書いた現地ルポ『中国の西北角』

2016-06-07 18:52:46 | 日記
縁があって広東省汕頭(スワトウ)にある汕頭大学新聞学院の范東昇院長と知り合い、その父親で中国メディア界の開拓者、范長江(第3代『人民日報』社長)について聞かされた。



1909年、四川生まれ。南京にあった国民党幹部の養成学校で学んだが、1931年、日本軍による「9・18事変」が勃発。不抵抗政策をとる蒋介石を見限り、北京に行きアルバイトをしながら大学哲学科に進学した。学問に飽き足らず、新聞への寄稿を始め、当時、最も影響力のあった天津の『大公報』の特約記者として西北地方を旅する。それは彼の夢であった。1935年5月から10か月間、四川省成都から陝西、青海、甘粛、内モンゴルを馬やいかだを使いながら踏破し、同紙に連載した。

范長江はその後、共産党が拠点としていた陝西省延安を訪問し、毛沢東にも会っている。1939年、周恩来の紹介で共産党に入党。国共内戦では従軍記者として活躍し、建国後は『人民日報』社長などを歴任した。文化大革命期、河南省の農村で強制労働を強いられたが、1970年10月23日、農園近くの井戸で死んでいるのが発見された。文革後の1978年、名誉回復され、胡耀邦が追悼式を主催した。現在、中国国内の報道に与えられる最も栄誉ある賞には「長江」の名が冠せられている。

彼が西北取材をまとめた『中国的西北角』が1936年8月、中国で出版され好評を博したが、38年1月は日本の改造社から邦訳が出ている。訳者は意外にも中国文学者の松枝茂夫である。改造社にいた増田渉に「面白いから訳したらどうか」と勧められたという。筑摩叢書から再刊されており、それを読んでみた。





今でこそ「シルクロード」と言えばロマンを掻き立てる名跡だが、当時、中国北西部は交通機関が発達しておらず、現地の情報も途絶していた。だからこそ范長江のルポは貴重だった。断崖絶壁を越え、黄河の激流を渡り、命がけの旅だった。漢族のほか回族、チベット、ウイグル、モンゴルと他民族が暮らす地を通るたび、彼は生活習慣の違いと同時に、民族間の偏見、不和が深まっている現実を目の当たりにする。「伏羌」(羌族を屈服させる)、「平番」(チベット族を平らげる)、「寧夏」(西夏を平定する)など、民族蔑視の地名が残っていることを危惧し、民族の危機に際しての団結を説く。

「過去の伝統的な民族差別思想を根本的に除き、新たに民族平等の精神をもって、国内各民族の経済・政治・文化の向上を扶助し、各民族の力量を充実堅固ならしめ、互いに信頼し合い、互いに団結してわれわれみんなの国家を衛るべきである。いつまでも異民族を差別視したやり方、公平無私の精神を欠いていたのでは、とうてい現代政治の潮流に追いついては行けないと思う」

曇りのない記者の目が看取した真実を重んじたい。時空を超え、あらゆる人の心を打つ愛がなければ残しえない言葉だった。情報が飛び交う現代社会において、彼が投げかけた問いは解決されていない。情報量が問題なのではない。本当に現場を知ろうとする人の意欲と努力がますます減退していることが問題なのだ。


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