汕頭大学の新聞学院と芸術学院の学生が中心となって、独創的な考えを語り合う小さなサロンを開いている。受け持ちクラスの班長がリーダーの一人で、彼に誘われ昨晩、足を運んでみた。夜の7時、図書館に30人ほどの学生が集まっていた。女子が8割を占めている。
この日は、映像技術を教える新聞学院のマレーシア人教授が簡単な解説をし、一緒に記録映画を鑑賞した。三夜連続のプログラムの初日だった。映画のタイトルは「農民と土地」。若者が出稼ぎに出て、農村に老人だけが取り残される「留守老人」が社会問題となっている。土地が荒廃し、村そのものが消滅する事態が進行している。同作品は湖南省のある村で暮らす老夫婦に焦点を当て、カメラを固定してひたすら日常の風景を撮影する。
http://v.ifeng.com/documentary/society/201511/0387413b-a540-4be5-bc79-f28fb263da9b.shtml(中国語、英語の字幕付き)
フィルムは83歳の鄒尚洲が、荒れ果てた土地の雑木を刈り取るシーンから始まる。彼のひとり語りが続く。
「田んぼもなくなってしまった」
「昔はトウモロコシ、黄豆、落花生なんでも育てて、隙間もないぐらいだったのに」
「人もいなくなった」
「若者はどこにいるのか、年寄りばかりだ」
「町の工場では1日何百元も稼げるが、トウモロコシ50キロを収穫しても100元だ。くたびれるだけだ」
77歳になる妻の羅香娥との食卓は、出稼ぎに出た息子たちがなかなか家に帰ってこないというぼやきばかりだ。都市での暮らしは大丈夫なのか心配も募る。
棺桶も用意したという鄒尚洲は、十字架に向かって「イエスさま、どうぞ我々をお守りください」と言葉を唱える。伝統的な大家族が崩壊し、祖先を中心とした共同体が失われた後にやってきたのは信仰の不在だった。その隙間を埋めるため、農村でキリスト教が急速に広まっている。
たまにかかってくる子どもたちからの電話も、突然、切れてしまう。二人は切れたかどうかもわからず、「もしもし」と呼びかけ続ける。映画の後、農村出身の学生が、このシーンが一番、胸に迫ったと話した。農村に取り残された両親と、都市に暮らす若者との間には、会話のルールさえも差異が生じてしまっている。そのさまがわがことのように思えたのだという。
やはり農村出身の女子学生が、子どもや孫たちがやめるよういさめても畑仕事を続ける主人公について、「うちのおばさんも同じだ。でも仕事をやめたからといって健康になるわけではなく、かえって体が弱ってしまうこともある。老人には畑仕事が必要なのだ」と感想を語った。健康を維持するための運動なのかもしれないと、都市部の学生が付け加えた。
私は意見を求められ、次のこように答えた。
「農民にとって土地は、宗族を柱とする共同体を支える根っこなのではないか。数千年にわたって代々伝わってきた家の歴史が土地に刻まれ、時間の記憶とともに存在している。農民も土地を離れては自らの存在さえあり得ない。畑に出ていくのは、自分の存在を確認するためではないのか。だが、彼がいなくなって、農地が荒土になれば、一人の人間、一つの土地の消滅だけでなく、そこではぐくまれてきた文化の消滅をも意味することになる」
すると客家の学生が、「宗族文化はとても大事だと思う。私は大事にしたい。一度失われたものはもう取り戻すことができないのだから」と力説した。「客家」とはかつて災害や戦乱を逃れ、中央の地から辺鄙な山間部に移住した漢族の集団で、固く伝統文化を守っていることで知られる。広東や福建に多い。これに対し別の農村出身学生が、「もう農村の文かなんてとっくになくなっている。メディアも関心を示さないし、放っておかれたままだ。今さらどうにも変えられない」と顔をしかめた。
そもそもそう簡単に答えや結論は見つからない。若い感性が、何の遠慮もなく本音で語り合うことに意味がある。少なくとも、問題の存在を認識したことだけで、この日のサロンに意義はあったと思う。世界をつなぐインターネット時代だからこそ、マスコミュニケーションには埋もれている、小さなサロンの力が尊い。
この日は、映像技術を教える新聞学院のマレーシア人教授が簡単な解説をし、一緒に記録映画を鑑賞した。三夜連続のプログラムの初日だった。映画のタイトルは「農民と土地」。若者が出稼ぎに出て、農村に老人だけが取り残される「留守老人」が社会問題となっている。土地が荒廃し、村そのものが消滅する事態が進行している。同作品は湖南省のある村で暮らす老夫婦に焦点を当て、カメラを固定してひたすら日常の風景を撮影する。
http://v.ifeng.com/documentary/society/201511/0387413b-a540-4be5-bc79-f28fb263da9b.shtml(中国語、英語の字幕付き)
フィルムは83歳の鄒尚洲が、荒れ果てた土地の雑木を刈り取るシーンから始まる。彼のひとり語りが続く。
「田んぼもなくなってしまった」
「昔はトウモロコシ、黄豆、落花生なんでも育てて、隙間もないぐらいだったのに」
「人もいなくなった」
「若者はどこにいるのか、年寄りばかりだ」
「町の工場では1日何百元も稼げるが、トウモロコシ50キロを収穫しても100元だ。くたびれるだけだ」
77歳になる妻の羅香娥との食卓は、出稼ぎに出た息子たちがなかなか家に帰ってこないというぼやきばかりだ。都市での暮らしは大丈夫なのか心配も募る。
棺桶も用意したという鄒尚洲は、十字架に向かって「イエスさま、どうぞ我々をお守りください」と言葉を唱える。伝統的な大家族が崩壊し、祖先を中心とした共同体が失われた後にやってきたのは信仰の不在だった。その隙間を埋めるため、農村でキリスト教が急速に広まっている。
たまにかかってくる子どもたちからの電話も、突然、切れてしまう。二人は切れたかどうかもわからず、「もしもし」と呼びかけ続ける。映画の後、農村出身の学生が、このシーンが一番、胸に迫ったと話した。農村に取り残された両親と、都市に暮らす若者との間には、会話のルールさえも差異が生じてしまっている。そのさまがわがことのように思えたのだという。
やはり農村出身の女子学生が、子どもや孫たちがやめるよういさめても畑仕事を続ける主人公について、「うちのおばさんも同じだ。でも仕事をやめたからといって健康になるわけではなく、かえって体が弱ってしまうこともある。老人には畑仕事が必要なのだ」と感想を語った。健康を維持するための運動なのかもしれないと、都市部の学生が付け加えた。
私は意見を求められ、次のこように答えた。
「農民にとって土地は、宗族を柱とする共同体を支える根っこなのではないか。数千年にわたって代々伝わってきた家の歴史が土地に刻まれ、時間の記憶とともに存在している。農民も土地を離れては自らの存在さえあり得ない。畑に出ていくのは、自分の存在を確認するためではないのか。だが、彼がいなくなって、農地が荒土になれば、一人の人間、一つの土地の消滅だけでなく、そこではぐくまれてきた文化の消滅をも意味することになる」
すると客家の学生が、「宗族文化はとても大事だと思う。私は大事にしたい。一度失われたものはもう取り戻すことができないのだから」と力説した。「客家」とはかつて災害や戦乱を逃れ、中央の地から辺鄙な山間部に移住した漢族の集団で、固く伝統文化を守っていることで知られる。広東や福建に多い。これに対し別の農村出身学生が、「もう農村の文かなんてとっくになくなっている。メディアも関心を示さないし、放っておかれたままだ。今さらどうにも変えられない」と顔をしかめた。
そもそもそう簡単に答えや結論は見つからない。若い感性が、何の遠慮もなく本音で語り合うことに意味がある。少なくとも、問題の存在を認識したことだけで、この日のサロンに意義はあったと思う。世界をつなぐインターネット時代だからこそ、マスコミュニケーションには埋もれている、小さなサロンの力が尊い。