行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「言葉狩り考」④--中国メディアの禁止用語集

2016-10-18 16:31:01 | 日記
中国には新華社が作成した禁止用語リストがある。日本のように本になるぐらい詳細なものではなく、ごく簡単なガイドラインを示したものだ。個々の利害が絡む人権はともかく、普遍的な人権についての意識が低く、概して差別的表現に対する感度は低い。禁止用語は、民族や宗教、さらには領土、主権といった国の基本政策にかかわる政治的な内容が目立つ。国の宣伝機関として性格がにじみ出ている。

「新華社ニュース報道禁止用語規定(第一稿)」は、社会生活、法律、民族宗教、領土・主権および香港・マカオ・台湾、国際関係の五つに分かれている。

http://culture.people.com.cn/n/2015/1105/c87423-27782404.html(『人民ネット』2015年11月5日)

「社会生活」では、身体障害者に関する差別的な表現、例えば「残廃人」「独眼竜」のほか、商品や医薬品に対する、「最高」「安全」「根治」などの不適当で過剰な評価、さらには文芸界の人物に「巨星」「影帝(銀幕の帝王)」などの呼称を与えることを禁じている。今どきの綱紀粛正ムードを感じさせるのは、指導者を報じる際に、「〝自ら〟・・・した」などと、ことさら行為を大げさに取り上げることを戒めている点だ。

「法律」関係では、容疑者の家族や未成年の容疑者、人工授精による妊婦、重大な伝染病患者、精神病患者、性的暴力を受けた女性などは名前を公表してはならず、仮名や「李某」などと名前を伏せるよう求めている。不十分ながら、形の上では無罪推定の法制度があるので、刑の確定までは「罪犯(犯人)」ではなく「犯罪嫌疑人(容疑者)」と表記し、「泥棒労働者」や「教授犯人」など身分と犯罪を結びつけてはならい。

「民族宗教」関連では、「蛮子」(少数民族の漢族に対する蔑称)、「回回」(回族に対する蔑称)は用いてならず、「やぶ医者」の象徴として「モンゴル人医師」との表現を使ってはならない。国内にイスラム教を信仰するウイグル人の独立運動を抱えるだけに、イスラム教にも気を使っている。イスラム教民族の文脈では豚肉に触れてはならず、羊を処分する場合にも、「宰(さばく)」と言い、残忍な印象を与える「「殺す」と書いてはいけない。

用語集は以前に定められたものだが、最近、ネットでしばしば転載されている。聞くところによると、党内部で厳しい用語チェックが始まったらしい。中国語版の「言葉狩り」だ。インターネット言論の乱れは目に余るものがあるが、ネット中心に発信する伝統メディアもその影響を受けている。専門性を失い、商業主義に流れ、規律の乱れているメディアに対する統制の一環だ。

優秀な記者が続々と自由な空間の狭まる新聞やテレビから離れ、それに代わるネットメディアには素人集団が集められている。ネットメディアは、アクセスによって手っ取り早く広告収入が入るが、その分、娯楽的、刺激的な内容に偏り、掘り下げた記事はほとんどない。ネットメディアには報道機関としての取材権が認められていないため、安易な転載記事が目立つ。デマ情報や偽ニュースが頻繁に流れるのは、ニュースの真偽も判断できないメディア人の劣化を物語る。

禁止用語を徹底させたところで、報道の質が向上するわけではない。その原理は日本と同様だ。報道機関が真実の、価値ある内容を提供し、それが大衆に認められ、健全な世論の土台になっていく社会を目指さない限り、人々を幸福にするメディアは生まれない。インターネットの政治的な主導権争い、経済的な利益分配、そうした上から目線の議論が多すぎる。下から積み上げるような対話こそが求められている。私にとって授業はその大切な一つである。(続)

「言葉狩り考」③--乙武洋匡氏の見解を中国の学生と共有したい

2016-10-18 13:21:44 | 日記
選挙事務所でのだるまの目入れについては、前々回のブログでも触れた。これについては2012年12月11日、乙武洋匡氏がツイッターで公表したコメントが重要な視点を提供してくれている。



彼はこう書いている。

「これを視覚障害ではなく、身体障害にあてはめると、えらいことになる。『手を焼く』『手に負えない』『足を運ぶ』『足並みをそろえる』――手や足を使った慣用句は、枚挙にいとまがない。手足のない僕が、これらの言葉を「差別だ」と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる」

「障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が『偏見を助長する』と主張する。モデル=高身長という概念は『差別だ』と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって『だるまに目を入れる』のと大差はないように思う。正直、言いだしたら、キリがない」

ここまでは一般的な意見である。大切なのは彼独自の視点だ。

「だが、ここで忘れてはならない視点がある。彼らはなぜ、『それしきのことで』差別や偏見だと感じてしまうようになったのか。それらへの是正を強く社会に求めていくようになったのか。そのことを考えるには、おそらくは彼らと対極の位置にいるだろう僕の思考や心境について説明する必要がある」

「僕はよく障害をネタにしたジョークをつぶやく。笑ってくださる方もいれば、凍りつく方もいれば、『そんなこと笑いのネタにするものではない』とご立腹なさる方もいる。でも、僕自身はみずからの障害についてただの特徴だと思っているから、『それにいちいち目くじらを立てられても…』と困惑する」

「僕は自分の障害を“負”だととらえていないから、こうした冗談が言える。だが、僕がそう思えるのは――僕にとって障害はただの特徴で、負ではないと思えるのは、生い立ちが大きく影響している」

「『五体不満足』をお読みの方はご存じのとおり、僕はいじめを受けたこともなければ、障害によって大きな制限を受けたこともない。健常者とともに楽しく過ごし、成長してきた。それには様々な理由があるだろうが、結果として僕は障害を“負”と感じることなく、むしろそれを笑い飛ばすようになった」

「だが、そういう障害者ばかりではない。幼少期にいじめに遭い、親にも受け入れられず、しんどい環境のなかで育ってきた方に、『障害なんて、乙武のように笑い飛ばせ』と言っても無理があるし、僕らが『それしきのこと』と感じることにも敏感に反応してしまう。『やめてくれ』と思ってしまう」

「『いやだ』という人に、『そんなの気にしすぎだ』と言うのはかんたん。でも、彼らがなぜ『いやだ』と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点は忘れずにいたい。そして、幼少期に『障害がある』という理由でつらい思いをする人々が少しでも減るように、僕自身、尽力していきたい」

余計な説明を要しない明快な言葉だ。プライベートではいろいろ騒がしい人物だが、乙武氏のこの言葉はそのまま中国の学生に伝えたいと思う。それだけの価値がある。率直に主張し合う中国人社会の気質にも合っているように思える。どんな感想が出てくるか興味がある。

かつて同性愛者が好奇の目で見られ、偏見にさらされ、彼ら、彼女ら自身も日陰者のように息をひそめていた時代がある。だが、本人たちが堂々と名乗りを上げ、自分たちの存在を、権利を主張し始めたことで、社会がそれを受け入れていった。もちろん100%ではないが、テレビを見ればその存在感はもはや偏見や差別を乗り越えたに等しい。この間、産みの苦しみ、辛さはあっただろうが、逃げなかった勇気によって、問題の所在に光を当てることができた。

「面倒なことになる」と責任を回避するだけの発想では、世の中の差別も偏見もなくならない。むしろ問題が潜在化し、ジメジメとした日陰で醜悪な根を生やし続けるに違いない。言葉は、人が様々な思いを込め、多様な用い方をすることによって意味を変えていく。ある意味は淘汰され、新たなイメージが加わっていく。生かすも殺すもそれを使う人間の気持ち一つである。使わないという選択は、問題の核心からの逃避に過ぎず、最終的な解決方法でないことは明らかだ。(続)

「言葉狩り考」②--衝突の回避が生むコミュニケーション能力の欠如

2016-10-18 10:46:41 | 日記
言葉狩り問題でしばしば引用されるのが、「片手落ち」という表現だ。多くの人は「片手」が落ちているから障害者への配慮をすべきだという。もしそうであれば考慮に値する意見だが、本来は「片=中途半端」と「手落ち=不手際」が結びついたものだ。「手落ち」自体がダメとなると、これは体に関するあらゆる言葉を見直さなくてはならず、まともな日常会話が成立しなくなる可能性がある。

受け取る側の気持ちは最大限に尊重すべきだが、一定の線引きをしないと、言葉が担ってきた文化そのものを消し去ってしまう。失われたものは、もう戻らない。複製さえも不可能だ。

だが事なかれ主義のメディアは、面倒を避けるため、「わざわざ災いを招くようなことはやめよう」という発想になる。私はいやというほどこうした例を見てきた。おそらくメディだけの問題ではなく、社会全体の問題だと思うが、メディアの責任はことのほか重い。小さなリスクの回避が、言論の自由、文化の担い手という大きな責任の放棄につながっていることに気づいていないか、気づいていてももはやそれを気に掛ける意欲と責任さえ失っている。

だから私は、メディア人が、特にしかるべき立場の人間が、声高に言論の自由や活字文化の保護などと叫ぶ言葉を軽々には信じない。たいていは利益のため、自己保身のため言っているに過ぎない。ふだんの行動をみればよくわかる。問題はその言葉通り、価値あるものを守るため、ふだんから戦っているかどうかということだ。

記者仲間と話していても、「それはセクハラですよ」「パワハラになりますよ」と鬼の首でも取ったように言う人がいる。そんなことを繰り返していたら、人の間で交わされる言葉はどんどん空疎で中身のない、心の通わないものになる。上司が部下をしかってはならない、女性の部下を食事に誘ってはいけない、こうしたルールが禁句集となり、一律に明文化されたマニュアル規定として出来上がっていく。できるだけ関わり合いになることを避けること、相手の感情に触れないことが、賢い交際術だということになる。

セクハラ、パワハラという言葉だけが独り歩きし、マニュアルだけが分厚い冊子になってふくらみ、生身の人間関係に対する洞察、想像力が摩耗していく。セクハラ、パワハラといっても、実際はこれまでにもあった人間関係の摩擦、矛盾に過ぎないことがしばしばある。解決方法はマニュアルを作ることでなく、一つ一つの事象に当事者が向き合い、答えを探していくこと以外にない。

上司は部下をしかり、励ますのが仕事だ。感情がなければしかることもない。しかることで感情が深まる。中国語には「打是亲骂是爱」(たたくのは感情があるからだ、怒るのは愛があるからだ)という言葉がある。こちらの方が人間味がある。しかることで愛情が伝わる。ただしかるのにも節度が必要だ。それもお互いが実践の中から学んでいくしかない。しかり方のわからない上司は、陰湿になり、時に暴走する危険がある。

人間のコミュニケーション能力はぶつかり合い、摩擦を生じながら向上していくものだ。これではますますコミュニケーション能力が弱まるばかりだ。その結果どういうことが起きるか。自室に閉じこもり、匿名によるインターネットの仮想世界で、たまった感情を一気に吐き出すことになる。そこでもう一人の人格が生まれる。果たしてどっちが健全か。リスクを回避し、私的な責任は逃れたつもりではいても、時代に対する責任は果たしていない。

境界のないインターネット空間が人間のバランス感覚を鈍らせ、国の外に一歩出たら、まったく違ったルールがあることも忘れさせてしまう。そこには主張しあい、ぶつかり合い、いたわりあい、慰めあうコミュニケーションの世界がある。時間の意識も失われるから、歴史を重んじ、そこから学ぶという思考も育たない。過去があるから今があり、未来を展望できる。外部の環境に自分が生かされ、世界があるから自分がいる。そうした当たり前の感覚が喪失し、今の自分だけの世界に閉じこもろうとする。これでは未来も生まれない。(続)

「言葉狩り考」①--記者の思考を停止させる禁句ソフト

2016-10-18 00:03:35 | 日記
中国メディアにも禁句集がある。習近平体制下でより一層用語の規制も強まっている。授業で差別用語、禁止用語をテーマにしようと思い、論点を整理した。記者時代、書かずにおいていたことを思い出したので、反省を込めて以下に記す。

新聞記者をしながら、婦人が女性になり、痴呆症が認知症に言い換えられるのを言葉の現場で経験してきた。選挙のたびに繰り返されてきただるまの目入れが、視覚障碍者の申し立てによって姿を消しているのも、より身近なこととして感じてきた。表現の自由を主張する人々は「言葉狩り」だと批判し、差別される側は、言葉そのものが人を傷つけるだけでなく、人の差別意識を助長する悪弊を訴えてきた。

真ん中に線を引いて答えが出る問題ではない。そもそも万人を満足させる答えは、全体主義国家以外に存在しないと考えるべきだ。メディアは用語使用の社内用スタイルブックを作成し、差別用語や不適当な用語については禁止や書き換えの基準を作っている。進化した記事入力ソフトは、記者が「禁句」を打ち込むと自動的に変換される仕組みになっている。これを便利だと思う記者もいれば、手を縛られたような違和感を持つ記者もいる。

だがだれも抵抗できない。メディアは言葉を偏執的に統一したがる。それを至上の任務だと勘違いしている者もいる。言葉を使う自由さえ奪われれば、言葉を使って考える自由も失う。こうして思考がストップする。言葉を使わないことで差別がなくなると勘違いしている。より差別が潜在化し、深く根を下ろす危険に気づいていない。二つの例を紹介する。

朝日新聞の記者が中国の公式記者会見で「釣魚島」という言葉を使った。日本が領土主権を主張する尖閣諸島の中国語名である。日本の中国駐在記者は取材中、ほぼ釣魚島という言葉を使っている。私もだ。コミュニケーションの上で容易だからであり、相手の主権を認めたわけではない。私の知っている中国人記者は、日本で取材する際は「尖閣諸島」と言う。用語上の衝突は政府間でやればよい。私は中国語で「釣魚島は日本の領土だ」と主張する。そのどこがいけないのか理解できない。

だが産経新聞が朝日新聞記者の質問を記事にして批判した。http://www.sankei.com/world/news/130309/wor1303090006-n1.html

記事は「反日感情が高まっている中国では、全国にテレビ中継される場面で『尖閣諸島』と口にすれば、身に危険を及ぼす可能性もあり、最近、島の名前を触れずに質問する日本人記者が増えている」という。全く理解できないロジックだ。「身に危険を及ぼす」という発想そのものに奴隷根性が表れている。主体的な価値判断がないのだ。こういうのを悪しき「言葉狩り」という。メディア同士がやっている点でより深刻な問題だ。日本人記者は取材中、どこでも口をそろえて「尖閣諸島」と主張する、と言われるような国は気味が悪い。

批判されるから、うるさいから、面倒だから・・・「リスク管理」の名目でメディアは禁句集を作ってきた。朝日新聞の記者が中国の記者会見で「釣魚島」と言ったとして、中国政府が「日本人記者も釣魚島が中国の領土であることを認めている」と主張するだろうか。朝日新聞記者が中国で使った「釣魚島」は、なんら国益を害していない。産経新聞が不快に思っただけだ。「気に入らない」という理由だけでメディアが言葉狩りを始めたら、自ら言論の自由を放棄することになる。注意を払うべきは言葉そのものではなく、言葉に操られる人間の思考である。残念ながら日本のメディアは、「面倒だから」という事なかれ主義から、こうした議論を全くしない。新聞社同士のけんかを、他人事のように眺めているだけだ。

もう一つの例は自分自身のことだ。尖閣諸島に関する解説原稿で、日中対立の焦点を指し示す用語として「領土問題」と書いた。すると東京のデスクが、「日本政府は『領土問題』の存在を認めていないので、この表記は避けてほしい」と言ってきた。できれば「領土紛争」か「領土対立」にしてほしいという。これを思考停止と言う。政府間が公式見解としてこだわる「領土問題」と、我々が通常使う一般的な日本語としての「領土問題」は別である。記者の頭が役人の頭と同じになっているのだ。これでは議論が成り立たない。東日本大震災で原発のメルトダウンに強い警告を発することができなかった大本営メディアの体質が完全にしみ込んでしまっている。(続)