kaeruのつぶやき

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「昌幸の死」その3・了

2016-09-27 11:03:48 | 「真田丸」

   昨日のブログの終わりが「やがて九度山生活が十年を迎えた頃」でした。このあとは、

【 昌幸は気力も衰え、病気がちになったようだ。食事の味もよくわからなくなった嘆いた手紙を出した頃は、まだ体調もそこそこであったが(No.6)、国元の家臣(略)に送った書状で、当方は何事も不自由であり、病気も再発して散々だ。そこで私のところに馬を一疋送ってほしい。こちらの馬はよそから所望され、やってしまった。昌親のところにある持ち馬から、爪がよい、悍馬をお願いしたいその馬を眺めて病中の慰めにしたいと述べている(No.13)。そして息子信之には、十年を超えた九度山生活で、去年から病中となり非常に苦しい、ぜひ一度会いたいものだと書き送った(No.12)。ところで、通説によると、昌幸と信之父子は第二次上田合戦後、二度と会うことはできなかったといわれている。だが次の文書は、それを否定するものであろう(No.15)。(文中のNoは25日の「九度山時代の真田昌幸文書一覧」表のものです。)】

と書かれて「次の文書」が示されています。

 この文書の内容について平山さんは、

【 真田信之は家臣河原綱家とともに高野山を訪れ、九度山の父昌幸のもとを見舞いに訪れていることがわかる。だが対面は束の間だったようだ。山中のことなので、もてなしもできず、早々に彼らが帰ってしまったことを名残惜しく思うと綴っている。(略)この対面がいつのことであったかは、確認できない。

   その後、昌幸の病状は悪化していった。恐らく慶長十六年のものと推定される三月二十五日付の真田信之宛書状で昌幸は「そちらの様子を久しく承っていないので、青木半左衛門を送った。息災でいるだろうか、ぜひしらせてほしい。こちらは変わりないので安心されたい。但し、この一両年は年老いてしまい、気根(気力)もくたびれ果ててしまった。万事こちらのことは察してほしい。詳細は半左衛門が申し達すことでしょう」と記し、「珍しくもないが、玻璃(ガラス製)の盆ととうさん(唐桟、織物)を送ります」と書き添えてえいる。さらに追而書には「ついでに慮外ながら左衛門佐信繁が伝言を申し入れます。こちらは永い山暮らしで万事不自由であることをお察し下さい。私などは大くたびれの有様です」と記している(No.30)。

   慶長十六年六月四日、真田昌幸は九度山の真田屋敷で逝去した。享年六十五。法名は龍花院殿一翁干雪大居士りゅうかいんでんいちおうかんせつだいこじ。昌幸逝去の知らせを聞いた信之は、父の葬儀を執行するため、その可否を家康側近本多正信に問い合わせた。だが正信は、六月十三日付の書状で、昌幸は「公儀御はゝかり之仁」であるから止めた方がよいと信之を諌め、いつか赦免されるだろうから、それまで自重するようにと述べ、それがあなたのためだと諭している(『信濃史料』21巻68頁)。

   昌幸の遺骸は荼毘に付され、九度山に葬られたが、随行の家臣河野清左衛門が分骨を上田に持ち帰り、長谷寺に葬ったと伝わる(『大日本史料』十二編21巻281頁)。これが現在、長谷寺に父真田幸綱とともに並ぶ昌幸墓所であろう。寺伝では、遺髪と爪が納められているという。】

  平山さんの書かれたものをかなり抜かしましたが長くなりました。昌幸書状を中心として当時の実態が伝わってきます。明日知人が録画した「昌幸」を見る予定ですので、ここらあたりがどう映像化しているのか見てみようと思います。