kaeruのつぶやき

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なぜ世界情勢論の最後が「市民」なのか。

2016-08-03 21:37:44 | せいじの政治カフェ

   一日中暑いので外にも出ず、ただ本を読んでいました。時には机に向かいある時は寝っ転がり、そんな1日でした。

   聴濤さんの『マルクスならいまの世界をどう論ずるか』を通じて分かったことは、

「先進資本主義国の労働者と市民(これはいま一体となっている)は世界を変える力である。このことはいまの世界をみる基本的視角の一つになるであろう。」と言うことです。

   このあとに「筆者が本書で最後にいいたいことはこのことである。」と付け加えていますので、自分が分かったことを自分の言葉で語らず、筆者の言葉をそのまま記すのは何時もの手抜きか、でも本当に読んで「分かった」という思いと筆者が「いいたいこと」が一致することは読書の醍醐味と言えます。

   昨日「マルクスを越えてーー市民と市民運動の問題」と書きましたので、その部分をまず、

こんなことが書かれています。

「一番強調したいことはーー新しい現象が今日の先進資本主義国には起こっていることである。マルクスはヨーロッパで恐慌が起こっても労働者が立ちあがらないことから世界の見方に変更をくわえ、革命の主体の対象についても新たな検討を加えた。とくに労働者の同盟軍になりえる社会層の分析である。しかしそのなかにはいまでいう「市民」というものは入っていなかった。それはマルクスの責任ではない。「市民」概念でとらえられる運動や社会層が形成されていなかったからである。

   マルクスは「市民」あるいは「市民社会」について大いに論じているが、そのなかから「ブルジョア」と「シビル」という表現の違いの意味内容の洞察は知りえても、今日の日本の戦争法反対闘争や反原発闘争に示されるような、またヨーロッパで起こっている市民運動にみられるような労働者でありながら「市民」として行動するという状況を(マルクスが)想定したものはない。たしかに洞察力の深いマルクスは資本主義が発展するとともに人間は人間として「個性」と「人格」というものを形成していくことを指摘している(『経済学批判要綱』)。しかしそれで今日の日本やヨーロッパの市民運動を説明できるものではない。これはマルクスを越える現代的問題である。

(引用の一部は略しています、太字はkaeru)

  このあと「市民」の特徴などについて書かれていますが、かなり長くなりますので、明日にします。