遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『謎解き 広重「江戸百」』  原信田 実  集英社新書ビジュアル版

2015-08-06 09:15:12 | レビュー
 歌川(安藤)広重筆『東海道五十三次』は歴史の教科書や参考書には必ず載っている。この書名にある「江戸百」は広重の最後の大作『名所江戸百景』を略したもの。(以降、同様に『江戸百』と略す)広重(1797~1858)が安政3年(1856)に還暦を迎える。この年から魚屋栄吉という版元と組んで「江戸百」の連作を始め、百景を描くという前人未到の試みを行ったのだ。この連作には年月の入った出版許可印(=改印)が押されているそうだ。そして、一番最初のものが安政3年2月で、最後が安政5年(1858)10月だという。広重の死んだ翌月の許可印が最後のもの。広重の死後、二代目広重が一景だけ描いたが、この連作は打ち止めになったという。晩年の2年半に、広重は江戸の名所を合計118枚描いたのである。

 現代の写真絵葉書と同様に、これまでは『江戸百』を「四季に彩られた江戸の名所」を描いたものと考えられてきた。それに対して、この『江戸百』には広重がそこにメッセージを秘めているのではないかという仮説に立って、「安政という時代に遡って、謎解きの旅が始まることになった」という。著者は『江戸百』すべてがそうであるかどうかは今後の課題だとしつつも、その謎の一端が解明できたとするのがこの新書である。

 では広重が還暦を迎えた時代の背景はどんな状況だったのか。著者の説明を参照して要約しておこう。
 *寛政の改革以降、本や浮世絵の出版には事前の検閲が課せられ許可が必要だった。
  版下絵を町名主の絵双紙改掛に提出しなければならない出版検閲制度が存在した。
 *安政の直前、嘉永6年(1853)6月にアメリカのペリー艦隊が浦賀沖にやって来た。
  つまり黒船の来航である。7月には、長崎にロシアのプチャーチンが来航している。
 *嘉永6年6月22日に徳川家慶がなくなり、第13代として徳川家定が将軍を継ぐ。
 *文化・文政年間を通じ、寺子屋の開業数が増加。庶民の識字能力が向上していた。
  安政・慶応期に寺子屋が全国で4,293軒あったという。時事的情報の需要が増大。
 *安政(1854)に改元されるまでは、嘉永7年であり、嘉永7年11月4日に地震が発生。
  東海地震が発生し、その31時間後、5日午後4時頃に南海地震が連動して発生した。
  つまり、安政東海・南海地震と称される巨大地震である。
  一方、嘉永7年4月に京都の大宮御所から出火し大火、6月に伊賀上野地震が発生。
 *安政元年暮に神田多町から出火で百一町焼失。2年3月、日本橋小網町一帯の焼失。

 こんな時代背景の中、江戸城や大名屋敷などを含め地震・火事からの復旧に追われる状況であり、建築・土木関係は復興景気であるが、物価高騰などで、経済は沈滞状況にあった。そして「世直り」願望が広がっていたという。
 一方で、安政3年1月浅草寺境内の奥山で始まった見世物人形の興業が停止となる(生人形興行停止事件)。また同年5月には『安政見聞誌』発禁事件が起こっている。この本は安政江戸地震を多角的にまとめた本だが、お上を諷刺する本とみなされたのだ。

 なぜ、こんな時代背景を抽出列挙したのか? じつは著者が『江戸百』の名所絵の構想を練り、図柄を発想するときに、「絵の制作とできごとが対応しているという仮説」(p60)を立てているからだ。絵を描くきっかけになった「できごと」という背景を描かれた絵から分析・推定いくのである。「町の人々がその場所にどんな想いを寄せていたか。ある場所がどんな特徴を持っているか」(p56)つまり、「場所性」に注目し、「その場所を人々がどんなところと感じているか」つまり「場所に対する感覚センス」(p56)を読み取ろうとする。
 幕府の政策批判や諷刺として受け止められたり、描いてはならないと禁令で決められているものも存在した。広重は「名所という情報のほかに絵にメッセージをコードとして埋め込むという情報発信」をして、仲間内には通じる内容を秘めているのではないか? 著者はそれを絵に隠された部分から読み取って行こうとする。つまり、広重は名所絵に情報を二重構造で仕組んでいると読み解くのである。一般の愛好家には名所情報、仲間内、深く読み取れる人には隠されたメッセージのコードの埋め込みがあると。じつに面白い謎解きの試みだ。
 また、『江戸百』がヒットするために、版元の魚屋栄吉は「広重に、商品の訴求力を高めるためにさまざまな意外性を求めたにちがいない」(p47)と分析する。つまり、おや!そんな場所があるのか・・・・と感動させる新規性、意外性がないと、人々は喜ばない。
たとえば、広重が導入した「近景と遠景の構図」はその謎解きのヒントが隠されていると同時に、近景の選び方と遠景のコントラストに意外性が発見できるという次第である。

 本書の第1章「『江戸百』とは」、第2章「安政江戸地震と広重を取り巻く人々」では、上記の時代背景をさらに具体的に展開して、著者は謎解きの基盤づくりをしている。
 第3章「謎解きの雛型」では、著者の謎解きの仮説と分析の枠組みを3つの名所絵を使って説明している。どのような仮説で、どんな見方をして、どこからヒントを得て、謎解きを進めたか・・・・。ひな型のプレゼンテーションである。
 第4章の見だしが「謎解き」である。つまり、名所絵1枚ごとの謎解きの解説編となっている。絵の見方が広がること請け合いである。1枚の絵を鑑賞するための情報量というもののウエイトを痛感する。ここでは29枚の名所絵の謎解きが丁寧に行われている。
 「大はしあたけの夕立」は、『江戸百』の中で一、二の名品とも言われ、最も親炙した絵の中に入る作品である。オランダの画家・ゴッホが模写した浮世絵の1枚にもなっている。この作品の謎解きのなかで、著者は絵師と彫師と摺師の三者の力のコラボレーションの重要性を説明している。この点、目からウロコという部分があった。
 ちょっと本書を覗いてみたい人。第3章に記載の「謎その1」(p56-62)と第4章の「謎その20」(p127-130)を試し読みされると良いだろう。そのほかの謎も読みたくなると思う。
 第5章「あらためて『江戸百』とは」では、「なにげない風景」を名所絵として描いた作品の「なにげなさの裏にひそむ謎」を著者は説いていく。ここでは、第4章の大写しの近景と遠景の構図の名所絵の謎解きに対して、ふつうの俯瞰図の手法で描かれた名所絵も採り上げて謎解きを進めて行く。何気ない風景に、意外な事実が読み解けるという興味深い説明が出てくる。15枚の名所絵が俎上にのっている。謎解きは14枚について、最後の1枚は、「亀戸梅屋舗」の絵である。例のゴッホが模写した別の絵として有名な絵。この絵には作者の仮説を当てはめるには、対応するできごとが十分に把握できていない例だとして、「終わりなき謎解きの旅」の途次にあるとする。著者にとって、本書はこれまでの謎解きの成果報告、中間報告のような位置づけにあるようだ。いつか、残る作品の謎解き本が出版されるかもしれない。読者もやってみたら・・・・という投げかけかもしれない。

 著者は広重の場所に対する感覚の働きについて、こんなことも書いている。
「大写しの近景という構図を採用している場合には、近景の図像は場所のシンボルと考えるべきなのである。・・・これに対して、・・・俯瞰の構図を採用している場合には、広重は、場所のシンボルを探しあぐねているようにもみえる」(p196)
 おもしろい見方だと思う。

 著者の結論は、『江戸百』が単なる名所絵ではなく、広重が絵を描いた時代のニュース性やメッセージ性を帯びた連作だという主張である。そこには、新しい時代へのうねりが広重に感知されていたということなのだ。広重はなくなる直前まで、浮世絵の中に、広重の感性で捉えた「浮世」を鮮やかに描き尽くしたということなのだろう。

 この本を読み、『江戸百』に興味・関心が深まってきた。

 この本の名所絵の謎解きを読みながら、手許にある『新・江戸切絵図』(人文社)

により、古地図でどの辺りで描いた絵なのかの場所を本文説明から辿ってみるという試みも併行してみた。これもまた、結構おもしろい。江戸時代の町割りなどの関係も理解が深まってくる。蛇足だが、お試しあれ。尚、読後にアマゾンでネット検索してみると、『江戸百』と「江戸切絵図」を組み合わせた解説本が数冊出版されているようだ。やはりな・・・というところ。


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本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
名所江戸百景  :ウィキペディア
歌川広重「名所江戸百景」全120図完全復刻版 :「和美三昧」

見えない都市-出来事を語る錦絵-  原信田 實 氏

「名所江戸百景」と江戸地震データベース 
21世紀COEプログラム
人類文化研究のための非文字資料の体系化  神奈川大学 ウェブサイト
広重「名所江戸百景」めぐり ← 地図のマーカーの位置で名所絵が見られます。
広重Hiroshige「名所江戸百景」時空map
名所江戸百景は広重の鎮魂歌(レクイエム)だった :「毎日が発見 ネット」
歌川広重の浮世絵(左)と、ゴッホによる模写(右) 1887年 
    絵の対比 その1 (ウィキペディアからの画像引用)
歌川広重の浮世絵(左)と、ゴッホによる模写(右) 1887年
    絵の対比 その2 (ウィキペディアからの画像引用)

藤岡屋日記  :ウィキペディア
藤岡屋日記  :「大江戸おどろおどろ譚(ばなし)」
『日本名所風俗図会』角川書店  :「神話の森のブログ」
守貞謾稿 :ウィキペディア
守貞謾稿 :「国立国会図書館デジタルコレクション」


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