2009年1月~2010年11月にかけて連載され、2010年12月に発行されたこの作品は、2010年から2015年という期間における直近未来医学医療問題小説の形をとっている。5年間という有期限での人体特殊凍眠というテーマを扱っている。特異な作品だ。
タイトルにあるモルフェウスは、英語表記では Morpheus のようだ。研究社・新英和中辞典は、「1.<<ギ神話>>モルフェウス((夢の神;Hypnosの息子)) 2.眠りの神」と記す。『ギリシャ・ローマ神話辞典』(高津春繁著・岩波書店)は、モルペウスとして、「夢の神。<<造形者>>の意味で、<<眠り>>の神ヒュプノスの子。・・・・夢の中で人間にモルペウスは人間の・・・姿を見せる役目であった。彼らは大きな翼で音なく飛翔した」と記す。また『ギリシャ神話』(呉茂一著・新潮社)は、「オウィディウスによると、キンメリオイ(常夜の国というに近い)の国の近くの深い山中のうつろに『眠り』の神の住処がある、その洞窟のいちばん奥ふかい広やかな室に、高い象牙の寝台を置いて、眠りの神自身が、黒ずんだ覆いに、柔毛のようにふっくらしたソファの中に、寝んでおいでで、その周囲には定かならぬ物の影、空しい夢の群れが、いろいろな物の形をとり、収穫時の麦の穂よりも数多く、むらがり寄っている。その中には人の姿をまねるモルペウス・・・・などが区別された」と。
著者は多分、このことから本書の主人公・涼子にモルフェウスというコトバを選ばせたのだろう。
この作品は第1部「凍眠」、第2部「覚醒」という二部構成になっている。
舞台は2010年4月に設置された未来医学探究センター。一般にはコールドスリープ・センターで通る施設での話。日比野涼子は「専任施設担当官」という肩書を持つバイト扱いの非常勤職員で、このセンター地下1階に置かれた銀色の柩を見守り管理する。たった一人の職場である。この銀色の柩には、人工凍眠の状態に置かれた少年が眠っている。涼子は彼をモルフェウスと呼ぶ。
モルフェウスは5歳の時に東城大学医学部小児科に網膜芽腫(レティノブラストーマ)で入院。入院2週間後に右眼摘出。左眼にも転移する可能性があり、その治療薬が見つかるまでの期間、凍眠状態で待機するという目的で、人体凍眠という手段を選択したのだ。それは、『時限立法・人体特殊凍眠法』の成立により、未来医学探究センターが設置されたために可能となり、その適用者となった。ヒプノス社が開発した人工凍眠技術により、コンピュータ制御されたシステムでの人体凍眠被験者第一号なのだ。
第1部は、モルフェウスの眠る銀の柩を、涼子がどのように保守管理しているかを描く。涼子は眠った状態で成長し続ける人体のための維持管理システムをマニュアルに沿って管理しながら、モルフェウスに対し、計画的に睡眠学習教材をセットして、情報のインプット操作を行っていく。
この第1部の焦点は、『時限立法・人体特殊凍眠法』にある。この法律は、ゲーム理論の若き覇者、マサチューセッツ工科大学、曾根崎伸一郎教授の緊急提言『凍眠八則』という理論武装があって迅速に成立したのだ。その八則とは・・・
一項 凍眠は本人の意志によってのみ決定される。
二項 凍眠選択者の公民権、市民権に関しては、凍眠中はこれを停止する。
三項 第二項に付随し、凍眠選択者の個人情報は国家の管理統制下に置く。
四項 凍眠選択者は覚醒後、一月の猶予期間を経て、いずれかを選択する。以前の自分と連続した生活。もしくは他人としての新たな生活。
五項 凍眠選択者が過去と別の属性を選択した場合、以前の属性は凍眠開始時に遡り死亡宣告される。
六項 以前と連続性を持つ属性に復帰した場合、凍眠事実の社会への公開を要す。
七項 凍眠選択者は凍眠中に起こった事象を中立的に知る権利を有する。
八項 その際、入手可能な情報がすべて提供される。この特権は猶予期間内に限定される。
この八則のロジックの鉄壁性、呪縛力がすさまじく、法律が速やかに成立するが、そこには官僚体質が色濃く持ち込まれ、5年間の時限立法になる。癌患者がこの法の対象から除外され、結果的に涼子の名づけたモルフェウスただ一人に適用されるだけの法律になろうとしているのだ。
本書は涼子が2010年10月にこのセンターの職員に採用された2年後の2012年10月から始まっている。仕事には、東城大学医学部の委託資料の整理という課題もあるが、その内最近5年分の資料整理を終え、モルフェウスに関わる資料部分の整理にとりかかり始める。銀の柩のメンテという管理に併せて、その中で凍眠する少年自体の情報に深く踏み込んで行く。ちょうどそれは、2012年10月10日にモルフェウスが眠りの最深部に到達し、後半の覚醒への歩みのプロセスに入る時期でもあった。
涼子は人体特殊凍眠法という法律の問題点に気づき始める。つまり、鉄壁と考えられた『凍眠八則』の問題点だということになる。それは凍眠選択者の人権問題である。涼子は八則の問題点の指摘準備を始め、曾根崎教授とのEメールを介した議論に突き進んでいく。
第1部は、涼子と曾根教授との議論の展開がひとつの山場である。
モルフェウスの情報を整理すること、この八則を考える過程で、涼子自身のアフリカ小国での過去の記憶が蘇り、その地でのできごとに関わる涼子の思いと最先端医療に対する思いとがクロスしていく。
さらに、黒い靴、靴下、黒い背広に黒のソフトハット、深い紺のネクタイという装いで現れたヒプノス社の技術者、西野との関わりが深まっていく。彼は目覚めへの段階に入った人体凍眠システムのチェックにやってきたのだ。この西野が第2部では、重要な役割を担う形になっていく。
この第1部は、銀の柩に眠るモルフェウス、「スリーパーを守りたい」という目的から凍眠八則の問題点を鮮明にし、公論化したいという涼子の思いを軸に展開する。涼子とステルス・シンイチロウとのメール交信による個人情報の保護、人権制限など人権問題が論議の中心になっていく。
これは非常に興味深い課題である。本当に、近未来にこんな医療技術が実現するかもしれない。宇宙旅行での凍眠カプセルというSFが医学領域にシフトして、これは医学問題と人権問題の接点における思考実験であり、シュミレーションでもあると思う。
また、このセンターの運営や法律制定過程の話として、官僚の思考・行動に触れられているが、そこには著者の皮肉が効いている。まさにこんな実態が現実にあるのだろうなと思わせる。
そして、第1部の最後は、目覚めへの最後のステージが描かれていく。フィクションとはいえ、その描写にはリアル感、緊迫感が漂っていて、つい引き込まれるところだ。
第2部は、東城大学医学部付属病院のオレンジ新棟2階に搬送入院されたところから始まる。モルフェウスから佐々木アツシという実名に戻った少年が覚醒していくプロセスである。5年間の凍眠で肉体的には暦年で14歳、しかし精神年齢的には9歳の少年。その少年が、凍眠中の睡眠学習により、とんでもない能力の知的側面を持つ。その少年が、正常な覚醒、自己のアイデンティティを再確立していく過程を描いている。一方、涼子は法律的に覚醒後のアツシとの接触は禁じられた立場になる。スリーパーではなくなったアツシを直に守ることはできないという現実に放り込まれていく。
その代わりを病棟師長の如月翔子が担っていくことになる。ここに、リン酸系代謝異常のテトラカンタス症候群を発症した患者、中学3年生14歳の村田佳菜が加わってくる。彼女が、アツシの覚醒プロセスに間接的なサポートをする展開になっていく。なかなかおもしろい想定だ。9歳から14歳へのリンキングに役割を果たす。
アツシの覚醒プロセスは、直近未来のこのストーリーにおいて、どれだけ医学的事実、実現可能性の裏付けがあるのだろうか。記憶喪失者が記憶を回復するプロセスなどがアナロジーに取り入れられているのだろうか。これ自体が非常に興味深い問題だ。さらに5年間の睡眠学習がポジティブな成果を発揮し出す形で、著者は描いている。これ自体も、もう一つ興味をそそられるテーマである。著者は、素人にとっても関心の高いテーマをうまく絡めてきていると思う。
9歳の子供が、5年間の凍眠の後、14歳の少年、いやそれ以上に知的能力を備えた人間として覚醒するというのはファンタスティックな展開でもある。
アツシが覚醒を終えた段階で、本書の最終ステージにステップアップしていくところが本書の読ませどころといえる。直接アツシに接触できない涼子が、アツシという人間の人権をどういう形で守れるのか。そこで、西野が重要な役回りを担う形で再登場する。彼の活躍振りが面白い。システム開発者の能力発揮が一つの見せ場だ。彼が涼子とアツシを意外な展開で結び付けていくことになる。
この部分は、本書を読んで楽しんでいただくと良いだろう。
モルフェウス誕生の環境形成とメンテ(起)→モルフェウスの人権確保への論及(承)が、第1部である。そして、アツシの覚醒プロセス(転)→覚醒したモルフェウスを守る奇策の実行(結)が第2部だ。
全体を眺めると、著者はこんな起承転結の形で本書を構成していると、私は捉えた。
著者は事実とフィクションを絡み併せて、この直近未来の医学医療問題の作品を創作した。「網膜芽腫」は現実の症例だとネットで確認できた。「テトラカンタス症候群」というのは、著者命名のフィクションなのか。ネット検索で、事実情報を得られなかった。
睡眠学習の効果というのは、実際どこまであるのだろう。たまたまこの本を読み終える時に、新しい調査結果のニュースをネットで発見したのだが・・・関心のある観点である。
本書には、「リバース・ヒコカンパス」という技術がフィクションとして登場する。「消去された記憶領域を別の記憶で埋める。そうして過去の記憶の一部、あるいは全てを破壊し、新しい記憶を上書きする。これがソフトの実相だ。記憶を操るソフトとは、すなわち人の過去を思いのままにするソフトでもあったのだ。」という描写がある。こういう技術は実現可能なのだろうか。既に一部でも実現しているのだろうか。
本書には、人体凍結技術を含め関心と疑問を呼び起こす観点がいくつも盛り込まれていて、実に楽しい。それがSF小説のおもしろさなのだろうけれど。
本書には、官僚の生態をリアルに皮肉った描写が点在する。引用はしないが、思わずにやっと笑いたくなる。ほんと現実にある一面を垣間見る思いがする。著者のシビアな観察あるいは体験の裏打ちがありそうな気がするが如何だろうか。
曾根教授、ステルス・シンイチロウが涼子に送信した一文が最後に効いてくる。なるほど! それを引用しておきたい。
「獲物を罠にかける猟師は、自分が罠にかかった時にそれが自分の罠だと気づかない」
ご一読、ありがとうございます。
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本書にでてくる語句で、気になるものをネット検索してみた。その結果を一覧にまとめておきたい。
Morpheus (mythology) :From Wikipedia, the free encyclopedia
眠りの王国(ケユクスとハルキュオネの物語) :「ギリシャ神話解説」
網膜芽腫とは? :「テロメライシン情報局」
メディウム → 媒剤 :ウィキペディア
等張液 :「weblio辞書」
シュレーディンガーの猫 :ウィキペディア
海馬 (脳) :ウィキペディア
ラリンジアルマスク :ウィキペディア
アンビュー :「病院で耳にする言葉の辞典」
アンビュー 医学用語:専門用語集[あ] :「ナースのお仕事」
バイタルサイン :ウィキペディア
エントロピー :ウィキペディア
代謝 :ウィキペディア
ドラッグ・ラグ :治験ナビ
外国で実施された医薬品の臨床試験データの取扱いについて :治験ナビ
Sleep your way to a better life? Weizmann study says it may be possible
By David Shamah August 28, 2012, 12:07 pm :「THE TIMES OF ISRAEL」
【朗報】睡眠学習の効果が50年振りに証明された件 ワイズマン研究所調査 下田裕香氏
睡眠学習法とは ~睡眠と記憶の重要な関係~ :「睡眠・快眠ラボ」
ルッコラ :ウィキペディア
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以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。
『極北ラプソディー』
タイトルにあるモルフェウスは、英語表記では Morpheus のようだ。研究社・新英和中辞典は、「1.<<ギ神話>>モルフェウス((夢の神;Hypnosの息子)) 2.眠りの神」と記す。『ギリシャ・ローマ神話辞典』(高津春繁著・岩波書店)は、モルペウスとして、「夢の神。<<造形者>>の意味で、<<眠り>>の神ヒュプノスの子。・・・・夢の中で人間にモルペウスは人間の・・・姿を見せる役目であった。彼らは大きな翼で音なく飛翔した」と記す。また『ギリシャ神話』(呉茂一著・新潮社)は、「オウィディウスによると、キンメリオイ(常夜の国というに近い)の国の近くの深い山中のうつろに『眠り』の神の住処がある、その洞窟のいちばん奥ふかい広やかな室に、高い象牙の寝台を置いて、眠りの神自身が、黒ずんだ覆いに、柔毛のようにふっくらしたソファの中に、寝んでおいでで、その周囲には定かならぬ物の影、空しい夢の群れが、いろいろな物の形をとり、収穫時の麦の穂よりも数多く、むらがり寄っている。その中には人の姿をまねるモルペウス・・・・などが区別された」と。
著者は多分、このことから本書の主人公・涼子にモルフェウスというコトバを選ばせたのだろう。
この作品は第1部「凍眠」、第2部「覚醒」という二部構成になっている。
舞台は2010年4月に設置された未来医学探究センター。一般にはコールドスリープ・センターで通る施設での話。日比野涼子は「専任施設担当官」という肩書を持つバイト扱いの非常勤職員で、このセンター地下1階に置かれた銀色の柩を見守り管理する。たった一人の職場である。この銀色の柩には、人工凍眠の状態に置かれた少年が眠っている。涼子は彼をモルフェウスと呼ぶ。
モルフェウスは5歳の時に東城大学医学部小児科に網膜芽腫(レティノブラストーマ)で入院。入院2週間後に右眼摘出。左眼にも転移する可能性があり、その治療薬が見つかるまでの期間、凍眠状態で待機するという目的で、人体凍眠という手段を選択したのだ。それは、『時限立法・人体特殊凍眠法』の成立により、未来医学探究センターが設置されたために可能となり、その適用者となった。ヒプノス社が開発した人工凍眠技術により、コンピュータ制御されたシステムでの人体凍眠被験者第一号なのだ。
第1部は、モルフェウスの眠る銀の柩を、涼子がどのように保守管理しているかを描く。涼子は眠った状態で成長し続ける人体のための維持管理システムをマニュアルに沿って管理しながら、モルフェウスに対し、計画的に睡眠学習教材をセットして、情報のインプット操作を行っていく。
この第1部の焦点は、『時限立法・人体特殊凍眠法』にある。この法律は、ゲーム理論の若き覇者、マサチューセッツ工科大学、曾根崎伸一郎教授の緊急提言『凍眠八則』という理論武装があって迅速に成立したのだ。その八則とは・・・
一項 凍眠は本人の意志によってのみ決定される。
二項 凍眠選択者の公民権、市民権に関しては、凍眠中はこれを停止する。
三項 第二項に付随し、凍眠選択者の個人情報は国家の管理統制下に置く。
四項 凍眠選択者は覚醒後、一月の猶予期間を経て、いずれかを選択する。以前の自分と連続した生活。もしくは他人としての新たな生活。
五項 凍眠選択者が過去と別の属性を選択した場合、以前の属性は凍眠開始時に遡り死亡宣告される。
六項 以前と連続性を持つ属性に復帰した場合、凍眠事実の社会への公開を要す。
七項 凍眠選択者は凍眠中に起こった事象を中立的に知る権利を有する。
八項 その際、入手可能な情報がすべて提供される。この特権は猶予期間内に限定される。
この八則のロジックの鉄壁性、呪縛力がすさまじく、法律が速やかに成立するが、そこには官僚体質が色濃く持ち込まれ、5年間の時限立法になる。癌患者がこの法の対象から除外され、結果的に涼子の名づけたモルフェウスただ一人に適用されるだけの法律になろうとしているのだ。
本書は涼子が2010年10月にこのセンターの職員に採用された2年後の2012年10月から始まっている。仕事には、東城大学医学部の委託資料の整理という課題もあるが、その内最近5年分の資料整理を終え、モルフェウスに関わる資料部分の整理にとりかかり始める。銀の柩のメンテという管理に併せて、その中で凍眠する少年自体の情報に深く踏み込んで行く。ちょうどそれは、2012年10月10日にモルフェウスが眠りの最深部に到達し、後半の覚醒への歩みのプロセスに入る時期でもあった。
涼子は人体特殊凍眠法という法律の問題点に気づき始める。つまり、鉄壁と考えられた『凍眠八則』の問題点だということになる。それは凍眠選択者の人権問題である。涼子は八則の問題点の指摘準備を始め、曾根崎教授とのEメールを介した議論に突き進んでいく。
第1部は、涼子と曾根教授との議論の展開がひとつの山場である。
モルフェウスの情報を整理すること、この八則を考える過程で、涼子自身のアフリカ小国での過去の記憶が蘇り、その地でのできごとに関わる涼子の思いと最先端医療に対する思いとがクロスしていく。
さらに、黒い靴、靴下、黒い背広に黒のソフトハット、深い紺のネクタイという装いで現れたヒプノス社の技術者、西野との関わりが深まっていく。彼は目覚めへの段階に入った人体凍眠システムのチェックにやってきたのだ。この西野が第2部では、重要な役割を担う形になっていく。
この第1部は、銀の柩に眠るモルフェウス、「スリーパーを守りたい」という目的から凍眠八則の問題点を鮮明にし、公論化したいという涼子の思いを軸に展開する。涼子とステルス・シンイチロウとのメール交信による個人情報の保護、人権制限など人権問題が論議の中心になっていく。
これは非常に興味深い課題である。本当に、近未来にこんな医療技術が実現するかもしれない。宇宙旅行での凍眠カプセルというSFが医学領域にシフトして、これは医学問題と人権問題の接点における思考実験であり、シュミレーションでもあると思う。
また、このセンターの運営や法律制定過程の話として、官僚の思考・行動に触れられているが、そこには著者の皮肉が効いている。まさにこんな実態が現実にあるのだろうなと思わせる。
そして、第1部の最後は、目覚めへの最後のステージが描かれていく。フィクションとはいえ、その描写にはリアル感、緊迫感が漂っていて、つい引き込まれるところだ。
第2部は、東城大学医学部付属病院のオレンジ新棟2階に搬送入院されたところから始まる。モルフェウスから佐々木アツシという実名に戻った少年が覚醒していくプロセスである。5年間の凍眠で肉体的には暦年で14歳、しかし精神年齢的には9歳の少年。その少年が、凍眠中の睡眠学習により、とんでもない能力の知的側面を持つ。その少年が、正常な覚醒、自己のアイデンティティを再確立していく過程を描いている。一方、涼子は法律的に覚醒後のアツシとの接触は禁じられた立場になる。スリーパーではなくなったアツシを直に守ることはできないという現実に放り込まれていく。
その代わりを病棟師長の如月翔子が担っていくことになる。ここに、リン酸系代謝異常のテトラカンタス症候群を発症した患者、中学3年生14歳の村田佳菜が加わってくる。彼女が、アツシの覚醒プロセスに間接的なサポートをする展開になっていく。なかなかおもしろい想定だ。9歳から14歳へのリンキングに役割を果たす。
アツシの覚醒プロセスは、直近未来のこのストーリーにおいて、どれだけ医学的事実、実現可能性の裏付けがあるのだろうか。記憶喪失者が記憶を回復するプロセスなどがアナロジーに取り入れられているのだろうか。これ自体が非常に興味深い問題だ。さらに5年間の睡眠学習がポジティブな成果を発揮し出す形で、著者は描いている。これ自体も、もう一つ興味をそそられるテーマである。著者は、素人にとっても関心の高いテーマをうまく絡めてきていると思う。
9歳の子供が、5年間の凍眠の後、14歳の少年、いやそれ以上に知的能力を備えた人間として覚醒するというのはファンタスティックな展開でもある。
アツシが覚醒を終えた段階で、本書の最終ステージにステップアップしていくところが本書の読ませどころといえる。直接アツシに接触できない涼子が、アツシという人間の人権をどういう形で守れるのか。そこで、西野が重要な役回りを担う形で再登場する。彼の活躍振りが面白い。システム開発者の能力発揮が一つの見せ場だ。彼が涼子とアツシを意外な展開で結び付けていくことになる。
この部分は、本書を読んで楽しんでいただくと良いだろう。
モルフェウス誕生の環境形成とメンテ(起)→モルフェウスの人権確保への論及(承)が、第1部である。そして、アツシの覚醒プロセス(転)→覚醒したモルフェウスを守る奇策の実行(結)が第2部だ。
全体を眺めると、著者はこんな起承転結の形で本書を構成していると、私は捉えた。
著者は事実とフィクションを絡み併せて、この直近未来の医学医療問題の作品を創作した。「網膜芽腫」は現実の症例だとネットで確認できた。「テトラカンタス症候群」というのは、著者命名のフィクションなのか。ネット検索で、事実情報を得られなかった。
睡眠学習の効果というのは、実際どこまであるのだろう。たまたまこの本を読み終える時に、新しい調査結果のニュースをネットで発見したのだが・・・関心のある観点である。
本書には、「リバース・ヒコカンパス」という技術がフィクションとして登場する。「消去された記憶領域を別の記憶で埋める。そうして過去の記憶の一部、あるいは全てを破壊し、新しい記憶を上書きする。これがソフトの実相だ。記憶を操るソフトとは、すなわち人の過去を思いのままにするソフトでもあったのだ。」という描写がある。こういう技術は実現可能なのだろうか。既に一部でも実現しているのだろうか。
本書には、人体凍結技術を含め関心と疑問を呼び起こす観点がいくつも盛り込まれていて、実に楽しい。それがSF小説のおもしろさなのだろうけれど。
本書には、官僚の生態をリアルに皮肉った描写が点在する。引用はしないが、思わずにやっと笑いたくなる。ほんと現実にある一面を垣間見る思いがする。著者のシビアな観察あるいは体験の裏打ちがありそうな気がするが如何だろうか。
曾根教授、ステルス・シンイチロウが涼子に送信した一文が最後に効いてくる。なるほど! それを引用しておきたい。
「獲物を罠にかける猟師は、自分が罠にかかった時にそれが自分の罠だと気づかない」
ご一読、ありがとうございます。
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本書にでてくる語句で、気になるものをネット検索してみた。その結果を一覧にまとめておきたい。
Morpheus (mythology) :From Wikipedia, the free encyclopedia
眠りの王国(ケユクスとハルキュオネの物語) :「ギリシャ神話解説」
網膜芽腫とは? :「テロメライシン情報局」
メディウム → 媒剤 :ウィキペディア
等張液 :「weblio辞書」
シュレーディンガーの猫 :ウィキペディア
海馬 (脳) :ウィキペディア
ラリンジアルマスク :ウィキペディア
アンビュー :「病院で耳にする言葉の辞典」
アンビュー 医学用語:専門用語集[あ] :「ナースのお仕事」
バイタルサイン :ウィキペディア
エントロピー :ウィキペディア
代謝 :ウィキペディア
ドラッグ・ラグ :治験ナビ
外国で実施された医薬品の臨床試験データの取扱いについて :治験ナビ
Sleep your way to a better life? Weizmann study says it may be possible
By David Shamah August 28, 2012, 12:07 pm :「THE TIMES OF ISRAEL」
【朗報】睡眠学習の効果が50年振りに証明された件 ワイズマン研究所調査 下田裕香氏
睡眠学習法とは ~睡眠と記憶の重要な関係~ :「睡眠・快眠ラボ」
ルッコラ :ウィキペディア
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以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。
『極北ラプソディー』