タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
ヘンリー・シュガーのわくわくする話
「ヘンリー・シュガーのわくわくする話」(ロアルド・ダール 評論社 1980)
訳は小野章。
収録作は以下。
「動物と話した少年」
「ヒッチ=ハイカー」
「次の物語の覚え書」
「ミルデンホールの宝物」
「白鳥」
「ヘンリー・シュガーのわくわくする話」
「一休み」
「お茶の子さいさい」
この本には、こんな献辞がついている。
「この本を、わたしの息子と三人の娘を含めた、もう子どもとはいえないまでも、まだ大人になりきっていない時期の、長く困難な変身の道を通りぬけようとしているすべての若い人々に、愛情と共感をもって捧げる」
世の中には、これは本当に児童書なのかと首をひねるような児童書がある。
たとえば、「灰色の畑と緑の畑」(ウルズラ・ヴェルフェル 岩波書店 2004)などがそう。
では、それらの児童書は、じつは大人向きの本なのかというと、そうともいえない。
というのも、それらの本には、新鮮でどこか震えているようなところがあって、大人向けの本ほどの安定感がないからだ。
本書もまた、子ども向けでも大人向けでもない作品をあつめた短編集。
あちこちからあつめてきたような雑多な感じのする本。
作品の傾向もスタイルもいろいろ。
では、ひとつひとつみていこう。
「動物と話した少年」
1人称。
ジャマイカで休暇をすごそうとした〈わたし〉。
浜に、巨大なウミガメが打ち上げられているのにでくわす。
ホテルの客がウミガメをとり囲み、スープにしたり、甲羅を装飾にする話をしているのを耳にして、〈わたし〉は不快をおぼえる。
この生きものは、途方もない威厳をそなえているようにみえるのに。
客たちが、ウミガメをホテルまで引きずっていこうとすると、突然男の子が飛び出してきて、叫ぶ。
「お願いだから話してあげて!」
男の子がウミガメにしがみついて頑張るので、客たちはどうすることもできない。
すると、男の子の父親があらわれて、ウミガメを買うという。
ウミガメはホテルの所有物ということになっているので、ホテルの支配人からカメを買う。
さらに、このカメは記録破りだといって喜んでいる漁師たちにも金を払う。
カメはぶじ海にもどる。
が、翌日、ホテルは大騒ぎに。
少年がいなくなってしまったのだ。
八方さがしていると、漁師が沖で、きのうの少年がウミガメの背中に馬乗りになっていたのをみたといって――。
こうやって、スジだけとりだすと他愛もない。
まるで、浦島太郎みたいだ。
でも、ダールには大変な描写力があって、雰囲気をかもしだすのが抜群にうまい。
読んでいると、巨大なウミガメの威厳と、そのカメをただひとり守ろうとする少年の姿が立ち上がってくる。
そして、少年が人間の世界を捨ててしまうラストまで、読んでいて腑に落ちるように書かれている。
ありきたりなぶん、素晴らしい完成度が味わえる作品だ。
「ヒッチ=ハイカー」
〈私〉が、魔法のような指をもったスリを車で拾う話。
描写力だけで書かれたような一編。
ただ、「動物と話した少年」のような、ウミガメと少年といった力強いイメージに欠けているので、いまひとつものたりない。
こちらが読みそこなっているだけかもしれないけれど。
「次の物語の覚え書」
タイトルどおり、次の物語の覚え書。
これによれば、新聞でローマ時代の銀器が発見されたという記事を読んだダールは、現地にいき、発見者であるゴードン・ブッチャーから話を聞いて、この作品を書いたとのこと。
本書では、「ミルデンホールの宝物」と「お茶の子さいさい」の2編がノンフィクションだ。
「ミルデンホールの宝物」
そして、銀器発見の本編。
ゴードン・ブッチャーは38歳。
自前のトラクターで、契約した他人の畠をたがやしたり、収穫したりするのが仕事。
妻と息子と2人の娘がいる。
ある1月、ゴードンは畠をたがやす仕事を請け負い、それにとりかかった。
その土地は、ロルフという農夫が所有している土地で、ロルフはフォードという、ゴードンよりも大がかりに農作業を請け負っている男に仕事を頼んだ。
だが、フォードは忙しく、それでフォードはゴードンに仕事を下請けしてもらったのだった。
さて、砂糖大根を植えるというロルフのために、ゴードンが深く畠をたがやしていると、スキがなにかに引っかかった。
その場を掘ってみると、ローマ時代の皿があらわれた。
ゴードンはいやな感じがして、皿をみつけたことをフォードにつたえにいった。
ゴードンは、この皿がひとびとの平安と幸福を破壊するかもしれないと予感したのだ。
しかし、フォードは逆だった。
2人で掘り返してみると、34個ものローマ時代の銀器があらわれた。
ほんとうにローマ時代のものだとしたら、これは大発見。
ところで、英国には地中からでてきた金銀の製品は、すべて国王の所有になるという法律があるのだそう。
そして、報奨金は最初の発見者だけが受けとれる。
もちろん、今回の場合はゴードン。
しかし、フォードは欲のないゴードンをいいくるめ、宝をひとりじめしてしまう――。
その後、ゴードンが銀器をもっていることがどうやって露見したのかについては省略。
けっきょく銀器は、大英博物館に収納されたという。
「白鳥」
15歳の誕生日のプレゼントに、22口径のライフルを買ってもらったアーニイ。
親友のレイモンドと一緒にウサギを射ちにいく。
その途中、ピーター・ワトソンをみつけた2人は、かれをつかまえて小突きまわす。
ピーターは銀行員の息子で、13歳なのにもう最上級のクラスに入っていて生意気だからだ。
ピーターに対する、2人のいじめっぷりが凄まじい。
殴って縛り上げたうえ、レールのあいだに寝かせて、列車が通過するのに任せたりする。
しかし、やられっぱなしのピーターも、白鳥が撃たれると怒る。
「何てひどいことをするんだ。君たちは無知の大馬鹿もんだ。死んだほうがいいのは、白鳥よりも君たちなんだ」
でも、こんなことをいっても状況はよくならない。
ピーターはさらに凄惨な仕打ちを受けるのだが――。
ずーっとリアリズムできて、最後の最後で突然ファンタジーになる。
最初読んだときはあっけにとられた。
でも、こうでなければならないとも思う。
そう思うのは、痛いたしい場面の描写が効果を発揮しているということだろう。
最後の瞬間ファンタジーになる点、ちょっとエーメの作品を思い出した。
「ヘンリー・シュガーのわくわくする話」
41歳で独身のヘンリー・シュガーは大変なお金持ち。
父親の遺産を受けついだので、本人は生まれてこのかた仕事らしい仕事をしたことがない。
ある夏の週末。
ウィリアム・ウィンダム卿の屋敷ですごすことになったヘンリーは、その屋敷の書斎で濃紺の表紙のノートをみつける。
表紙にはなにも書かれておらず、なかには万年筆でこんなタイトルが。
「目を使わずにものを見ることができる男イムラット・カーン 数度にわたる会見の報告」
書き手は、医学博士ジョン・F・カートライト。
場所はインドのボンベイ。
時は1934年。
こいつは面白そうだとヘンリーは読みはじめる。
さて、その内容。
医学博士カートライトが、ほかの2人の博士とともにお茶を飲んでいると、ひとりのインド人があらわれる。
そのインド人、イムラット・カーンは、自分は目をつかわずにものを見ることができると主張。
なぜ、医者たちのところにきたのかというと宣伝のため。
イムラットは見世物のスターで、医者のところにお墨つきをもらいにきたのだ。
医者たちがどんなに頑張って目をふさいでも、イムラットは目がみえているように振舞う。
ついに医者たちも、イムラットが「目をつかわずにものを見ている」ことを認めざるを得ない。
見世物をみにいったカートライト博士は、公演のあと、イムラットの一代記を聞く。
最初、イムラットはインド最大のヨーガ修行者のひとり、バナジーから空中浮揚の技を教わろうとした。
が、断られ、代わりにバナジーが紹介してくれた別の修行者のもとで修行を積み、ついに目をつかわずにものが見られるようになった…。
この作品の人称は1人称。
〈わたし〉、カートライト、イムラットと語り手が移り変わっていく。
アラビアンナイト風の枠物語といったらいいだろうか。
で、カートライト博士の手記が終わって、話はヘンリーにもどる。
この「目をつかわずにものを見る」技を身につけたらカジノで百戦百勝だぞ、と思ったヘンリーは特訓のすえ、この技を会得。
カジノにいき、自分の力をたしかめる。
いまや、ヘンリーはカジノを破産させることも可能。
このとき、語り手があらわれてこんなことをいいだす。
「さて、これが本当にあった話ではなく、作者のつくり話なら、ここで驚天動地、あっという結末を考えださなければならないところだ」
そして、ヘンリーが亡くなるプロットを披露してからこう続ける。
「しかし、この物語はつくり話ではなく、本当の話だ(…)。本当の話であるから、本当の結末もあるわけだ」
ここから、「わくわくする話」がはじまるのだけれど、これについては省略しよう。
この作品は、カートライト博士の手記や、ヘンリーの特訓の部分がやけに長い。
ぜんたいのバランスを逸していると思うけれど、読んでいる最中はまったく気にならない。
これも語り口のうまさのためだろう。
「一休み」
「どのようにして、わたしは作家になったか」という副題がついている。
つまり、この作品は自身の来歴を語ったエセー。
最初こそ、小説家に必要な資質を箇条書きにしたりしているのだけれど、すぐ自身の昔話になる。
それも、8歳のとき寄宿舎に入れられたところからはじまるのだから、だいぶさかのぼる。
その後の語りかたは、エセーというより、物語といったほうがいい。
何度も同じことをいうけれど、ダールはなにかを漫然と書いて雰囲気をかもしだすのがものすごくうまい。
そのうまさが、またもや十分に発揮されている。
成人したダールは、シェル石油に入社。
それから、ほんとうにいろいろあって、戦争がはじまってからは空軍に参加。
撃墜され、頭蓋骨骨折という大けがをする。
けがが治ると、ワシントンDCに航空武官の補佐官として派遣される。
ワシントンで、海洋冒険小説の書き手として名高い、作家のC・S・フォレスターがダールのまえに登場。
フォレスターは、ダールの話を記事にするためにあらわれたのだった。
で、昼食をとりながらダールが話をすることになったが、うまくいかない。
話はつっかえ気味だし、フォレスターはしばしば鉛筆とナイフをもち変えなければならない。
そこで、ダールは文章を書いてフォレスターに送ろうと提案。
フォレスターは、それを都合のいいときに書き直せばいい。
フォレスターもそれを了承。
ところが、フォレスターは小切手とともに、ダールの文章をそのままダールの名前で掲載することにしたとつたえてくる。
そのときの文章、「お茶の子さいさい」が、ダールのデビュー作に。
このあとも、面白い挿話が記されている。
「グレムリン」という言葉をつくったのは、ダールなのだそう。
もともとは、ダールが書いた子どもむけの物語だった。
「グレムリン一族は英空軍の戦闘機や爆撃機を住まいにしている小人たちで、敵ではないが、戦闘中に受ける銃弾の痕、エンジンの炎上、衝突事故などは、すべてこの小人たちの責任だ」
グレムリン一族の物語は、英空軍や米空軍のあいだに広まり、ひとつの伝説のようになってしまったとのこと。
グレムリンの物語は、ディズニーで映画化されるという話もあったそうだけれど、けっきょく流れてしまった。
しかし、この物語はダールに幸運を呼びよせた。
エリノア・ルーズベルトがホワイトハウスで孫たちにこの物語を読んで聞かせた縁から、ダールは大統領の夕食会や、別荘に招待されるようになったのだ。
このあと本書に収録されている、戦時中の体験を記したダールのデビュー作、「お茶の子さいさい」については省略。
見返しに、銀器の写真が載せられているけれど、これが「ミルデンホールの宝物」なのかもしれない。
ダールの魅力は、一にも二にも語り口だ。
「ひと休み」の、小説家の資質を箇条書きにした箇所で、ダールは読者の心に場面を生き返らせる文章力について、こう書いている。
「これは一種の生まれつきの才能で、その能力があるかないかの、いずれかだ」
まったく、ミもフタもない。
ダールには、この才能がたっぷりあったということなのだろう。
本書は、非常にバラエティに富んだ、ファン向けの一冊。
でも、「白鳥」一作のことを思っても、ファン向けだけにしておくには、少し惜しい一冊だ。
訳は小野章。
収録作は以下。
「動物と話した少年」
「ヒッチ=ハイカー」
「次の物語の覚え書」
「ミルデンホールの宝物」
「白鳥」
「ヘンリー・シュガーのわくわくする話」
「一休み」
「お茶の子さいさい」
この本には、こんな献辞がついている。
「この本を、わたしの息子と三人の娘を含めた、もう子どもとはいえないまでも、まだ大人になりきっていない時期の、長く困難な変身の道を通りぬけようとしているすべての若い人々に、愛情と共感をもって捧げる」
世の中には、これは本当に児童書なのかと首をひねるような児童書がある。
たとえば、「灰色の畑と緑の畑」(ウルズラ・ヴェルフェル 岩波書店 2004)などがそう。
では、それらの児童書は、じつは大人向きの本なのかというと、そうともいえない。
というのも、それらの本には、新鮮でどこか震えているようなところがあって、大人向けの本ほどの安定感がないからだ。
本書もまた、子ども向けでも大人向けでもない作品をあつめた短編集。
あちこちからあつめてきたような雑多な感じのする本。
作品の傾向もスタイルもいろいろ。
では、ひとつひとつみていこう。
「動物と話した少年」
1人称。
ジャマイカで休暇をすごそうとした〈わたし〉。
浜に、巨大なウミガメが打ち上げられているのにでくわす。
ホテルの客がウミガメをとり囲み、スープにしたり、甲羅を装飾にする話をしているのを耳にして、〈わたし〉は不快をおぼえる。
この生きものは、途方もない威厳をそなえているようにみえるのに。
客たちが、ウミガメをホテルまで引きずっていこうとすると、突然男の子が飛び出してきて、叫ぶ。
「お願いだから話してあげて!」
男の子がウミガメにしがみついて頑張るので、客たちはどうすることもできない。
すると、男の子の父親があらわれて、ウミガメを買うという。
ウミガメはホテルの所有物ということになっているので、ホテルの支配人からカメを買う。
さらに、このカメは記録破りだといって喜んでいる漁師たちにも金を払う。
カメはぶじ海にもどる。
が、翌日、ホテルは大騒ぎに。
少年がいなくなってしまったのだ。
八方さがしていると、漁師が沖で、きのうの少年がウミガメの背中に馬乗りになっていたのをみたといって――。
こうやって、スジだけとりだすと他愛もない。
まるで、浦島太郎みたいだ。
でも、ダールには大変な描写力があって、雰囲気をかもしだすのが抜群にうまい。
読んでいると、巨大なウミガメの威厳と、そのカメをただひとり守ろうとする少年の姿が立ち上がってくる。
そして、少年が人間の世界を捨ててしまうラストまで、読んでいて腑に落ちるように書かれている。
ありきたりなぶん、素晴らしい完成度が味わえる作品だ。
「ヒッチ=ハイカー」
〈私〉が、魔法のような指をもったスリを車で拾う話。
描写力だけで書かれたような一編。
ただ、「動物と話した少年」のような、ウミガメと少年といった力強いイメージに欠けているので、いまひとつものたりない。
こちらが読みそこなっているだけかもしれないけれど。
「次の物語の覚え書」
タイトルどおり、次の物語の覚え書。
これによれば、新聞でローマ時代の銀器が発見されたという記事を読んだダールは、現地にいき、発見者であるゴードン・ブッチャーから話を聞いて、この作品を書いたとのこと。
本書では、「ミルデンホールの宝物」と「お茶の子さいさい」の2編がノンフィクションだ。
「ミルデンホールの宝物」
そして、銀器発見の本編。
ゴードン・ブッチャーは38歳。
自前のトラクターで、契約した他人の畠をたがやしたり、収穫したりするのが仕事。
妻と息子と2人の娘がいる。
ある1月、ゴードンは畠をたがやす仕事を請け負い、それにとりかかった。
その土地は、ロルフという農夫が所有している土地で、ロルフはフォードという、ゴードンよりも大がかりに農作業を請け負っている男に仕事を頼んだ。
だが、フォードは忙しく、それでフォードはゴードンに仕事を下請けしてもらったのだった。
さて、砂糖大根を植えるというロルフのために、ゴードンが深く畠をたがやしていると、スキがなにかに引っかかった。
その場を掘ってみると、ローマ時代の皿があらわれた。
ゴードンはいやな感じがして、皿をみつけたことをフォードにつたえにいった。
ゴードンは、この皿がひとびとの平安と幸福を破壊するかもしれないと予感したのだ。
しかし、フォードは逆だった。
2人で掘り返してみると、34個ものローマ時代の銀器があらわれた。
ほんとうにローマ時代のものだとしたら、これは大発見。
ところで、英国には地中からでてきた金銀の製品は、すべて国王の所有になるという法律があるのだそう。
そして、報奨金は最初の発見者だけが受けとれる。
もちろん、今回の場合はゴードン。
しかし、フォードは欲のないゴードンをいいくるめ、宝をひとりじめしてしまう――。
その後、ゴードンが銀器をもっていることがどうやって露見したのかについては省略。
けっきょく銀器は、大英博物館に収納されたという。
「白鳥」
15歳の誕生日のプレゼントに、22口径のライフルを買ってもらったアーニイ。
親友のレイモンドと一緒にウサギを射ちにいく。
その途中、ピーター・ワトソンをみつけた2人は、かれをつかまえて小突きまわす。
ピーターは銀行員の息子で、13歳なのにもう最上級のクラスに入っていて生意気だからだ。
ピーターに対する、2人のいじめっぷりが凄まじい。
殴って縛り上げたうえ、レールのあいだに寝かせて、列車が通過するのに任せたりする。
しかし、やられっぱなしのピーターも、白鳥が撃たれると怒る。
「何てひどいことをするんだ。君たちは無知の大馬鹿もんだ。死んだほうがいいのは、白鳥よりも君たちなんだ」
でも、こんなことをいっても状況はよくならない。
ピーターはさらに凄惨な仕打ちを受けるのだが――。
ずーっとリアリズムできて、最後の最後で突然ファンタジーになる。
最初読んだときはあっけにとられた。
でも、こうでなければならないとも思う。
そう思うのは、痛いたしい場面の描写が効果を発揮しているということだろう。
最後の瞬間ファンタジーになる点、ちょっとエーメの作品を思い出した。
「ヘンリー・シュガーのわくわくする話」
41歳で独身のヘンリー・シュガーは大変なお金持ち。
父親の遺産を受けついだので、本人は生まれてこのかた仕事らしい仕事をしたことがない。
ある夏の週末。
ウィリアム・ウィンダム卿の屋敷ですごすことになったヘンリーは、その屋敷の書斎で濃紺の表紙のノートをみつける。
表紙にはなにも書かれておらず、なかには万年筆でこんなタイトルが。
「目を使わずにものを見ることができる男イムラット・カーン 数度にわたる会見の報告」
書き手は、医学博士ジョン・F・カートライト。
場所はインドのボンベイ。
時は1934年。
こいつは面白そうだとヘンリーは読みはじめる。
さて、その内容。
医学博士カートライトが、ほかの2人の博士とともにお茶を飲んでいると、ひとりのインド人があらわれる。
そのインド人、イムラット・カーンは、自分は目をつかわずにものを見ることができると主張。
なぜ、医者たちのところにきたのかというと宣伝のため。
イムラットは見世物のスターで、医者のところにお墨つきをもらいにきたのだ。
医者たちがどんなに頑張って目をふさいでも、イムラットは目がみえているように振舞う。
ついに医者たちも、イムラットが「目をつかわずにものを見ている」ことを認めざるを得ない。
見世物をみにいったカートライト博士は、公演のあと、イムラットの一代記を聞く。
最初、イムラットはインド最大のヨーガ修行者のひとり、バナジーから空中浮揚の技を教わろうとした。
が、断られ、代わりにバナジーが紹介してくれた別の修行者のもとで修行を積み、ついに目をつかわずにものが見られるようになった…。
この作品の人称は1人称。
〈わたし〉、カートライト、イムラットと語り手が移り変わっていく。
アラビアンナイト風の枠物語といったらいいだろうか。
で、カートライト博士の手記が終わって、話はヘンリーにもどる。
この「目をつかわずにものを見る」技を身につけたらカジノで百戦百勝だぞ、と思ったヘンリーは特訓のすえ、この技を会得。
カジノにいき、自分の力をたしかめる。
いまや、ヘンリーはカジノを破産させることも可能。
このとき、語り手があらわれてこんなことをいいだす。
「さて、これが本当にあった話ではなく、作者のつくり話なら、ここで驚天動地、あっという結末を考えださなければならないところだ」
そして、ヘンリーが亡くなるプロットを披露してからこう続ける。
「しかし、この物語はつくり話ではなく、本当の話だ(…)。本当の話であるから、本当の結末もあるわけだ」
ここから、「わくわくする話」がはじまるのだけれど、これについては省略しよう。
この作品は、カートライト博士の手記や、ヘンリーの特訓の部分がやけに長い。
ぜんたいのバランスを逸していると思うけれど、読んでいる最中はまったく気にならない。
これも語り口のうまさのためだろう。
「一休み」
「どのようにして、わたしは作家になったか」という副題がついている。
つまり、この作品は自身の来歴を語ったエセー。
最初こそ、小説家に必要な資質を箇条書きにしたりしているのだけれど、すぐ自身の昔話になる。
それも、8歳のとき寄宿舎に入れられたところからはじまるのだから、だいぶさかのぼる。
その後の語りかたは、エセーというより、物語といったほうがいい。
何度も同じことをいうけれど、ダールはなにかを漫然と書いて雰囲気をかもしだすのがものすごくうまい。
そのうまさが、またもや十分に発揮されている。
成人したダールは、シェル石油に入社。
それから、ほんとうにいろいろあって、戦争がはじまってからは空軍に参加。
撃墜され、頭蓋骨骨折という大けがをする。
けがが治ると、ワシントンDCに航空武官の補佐官として派遣される。
ワシントンで、海洋冒険小説の書き手として名高い、作家のC・S・フォレスターがダールのまえに登場。
フォレスターは、ダールの話を記事にするためにあらわれたのだった。
で、昼食をとりながらダールが話をすることになったが、うまくいかない。
話はつっかえ気味だし、フォレスターはしばしば鉛筆とナイフをもち変えなければならない。
そこで、ダールは文章を書いてフォレスターに送ろうと提案。
フォレスターは、それを都合のいいときに書き直せばいい。
フォレスターもそれを了承。
ところが、フォレスターは小切手とともに、ダールの文章をそのままダールの名前で掲載することにしたとつたえてくる。
そのときの文章、「お茶の子さいさい」が、ダールのデビュー作に。
このあとも、面白い挿話が記されている。
「グレムリン」という言葉をつくったのは、ダールなのだそう。
もともとは、ダールが書いた子どもむけの物語だった。
「グレムリン一族は英空軍の戦闘機や爆撃機を住まいにしている小人たちで、敵ではないが、戦闘中に受ける銃弾の痕、エンジンの炎上、衝突事故などは、すべてこの小人たちの責任だ」
グレムリン一族の物語は、英空軍や米空軍のあいだに広まり、ひとつの伝説のようになってしまったとのこと。
グレムリンの物語は、ディズニーで映画化されるという話もあったそうだけれど、けっきょく流れてしまった。
しかし、この物語はダールに幸運を呼びよせた。
エリノア・ルーズベルトがホワイトハウスで孫たちにこの物語を読んで聞かせた縁から、ダールは大統領の夕食会や、別荘に招待されるようになったのだ。
このあと本書に収録されている、戦時中の体験を記したダールのデビュー作、「お茶の子さいさい」については省略。
見返しに、銀器の写真が載せられているけれど、これが「ミルデンホールの宝物」なのかもしれない。
ダールの魅力は、一にも二にも語り口だ。
「ひと休み」の、小説家の資質を箇条書きにした箇所で、ダールは読者の心に場面を生き返らせる文章力について、こう書いている。
「これは一種の生まれつきの才能で、その能力があるかないかの、いずれかだ」
まったく、ミもフタもない。
ダールには、この才能がたっぷりあったということなのだろう。
本書は、非常にバラエティに富んだ、ファン向けの一冊。
でも、「白鳥」一作のことを思っても、ファン向けだけにしておくには、少し惜しい一冊だ。
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「ミルデンホールの宝物」(ロアルド・ダール/作 R.ステッドマン/絵 中村妙子/訳 評論社 2000)
文章だけではわかりにくい、トラクターの形状などがよくわかる。
でも、欲をいえばもうちょっとさっぱりとした絵で、簡潔にトラクターや宝物をみせてほしかった。