Japanレポート3.11

「Japanレポート3.11」(ユディット・ブランドナー/著 ブランドル・紀子/訳 未知谷 2012)

本書は、2011年3月11日に起こった、東日本大震災の被災地を題材としたルポルタージュ。
原書の刊行は2012年。
まず、カバー袖に載せられた、著者の履歴を。

《1963年オーストリー、ザルツブルグ生まれ。ウイーンで日本語を学ぶ。オーストリーのラジオを中心に活躍するフリージャーナリスト。1987年に初来日。2009年、2011年には名古屋市立大学客員教授として招かれている。》

著者の立場がどういうものかは、巻末の「日本語版へのあとがき」に端的に記されているので、引用したい。

《私の国オーストリーでは1978年11月5日、原子力発電反対者は国民投票で50.47パーセントの過半数を占め、下オーストリー州のツエンデンドルフに造られたただ一基の原子炉の運転を阻止した。そして1999年「核の放棄」が憲法で制定されて以来、反原子力政策が行使されている。ツエンデンドルフは現在、太陽光発電フォトボルテックの巨大な施設と、研究開発センターとなっている。》

《私は日本の人々が心配だ。原子力は危険であり、コントロールが不可能である。人類はいまだ原子力の安全性を確保していない。津波の心配も大きい日本のような地震国にとって、原子力発電は考慮の余地すらない廃棄すべきものと私は思う。》

本編では、著者は自分の主張を語ることはない。
被災地におもむき、現地のひとの声を拾い上げ、さまざまなひとたちにインタビューをこころみている。
記述は、ジャーナリストらしく具体的。
冒頭で、現場をえがき、その後に説明というスタイル。
最初に、予断を書くということはしない。
現在形を多用して、臨場感をだす。

全体の印象は散漫。
散漫なのは、著者の動機がみえないせいだろう。
一体なぜこのひとは被災地を取材しているんだろうということが、よくわからないのだ。
もう少し、自分を前にだしてもよかったのではないか。

しかし、そうではないかもしれない。
刊行当時は、動機など語る必要もないことだったのかもしれない。

1章ごとの分量の少なさも、散漫さに輪をかけている。
全体に、広くて薄い本といえるだろう。
では、著者がどこでどんなひとから、どんな話を聞いたかについて、簡単に追っていこう。
取材は、震災から半年後の、2011年9月から11月ごろにおこなわれたようだ。

東京、青山のレストランで、市川勝弘さんの作品をみて、話を聞く。
市川さんは、静岡県出身の写真家。
奥さんが、福島第一原発から16キロの地点にある楢葉町の出身で、市川さんは楢葉町の日々の生活を写真におさめていた。
この日、著者がみせてもらったのは、市川さんの写真をつかった、8分間の映画、「日常」。
市川さんはその後、写真集「FUKUSHIMA 福島県双葉郡楢葉町1998-2006」(市川勝弘/著 カワイイファクトリー/編集 トゥルーリング 2011)を出版し、また各地で展覧会を開いたと、これは追記から。

2011年10月、名古屋でおこなわれた陸前高田市の「太鼓フェスティバル」。
このフェスティバルは25年の歴史をもち、この年はじめて他の市でおこなわれたという。
この章の冒頭はこうだ。

《一番手の太鼓の響きと同時に、隣りの若い女性は泣き始めた。》

霞が関でハンガーストライキをしているひとたちを取材。
2011年9月11日、被災からちょうど半年後、座りこみをはじめたひとたち。

原子力工学者小出裕章氏にインタビュー。
小出さんの勤める実験所がある、大阪府熊取町の描写はこう。

《熊取に着いたとき、私達はまるで流刑地に来てしまったような気がした。ここにあるのは、駅の他には、マクドナルド、よくあるコンビニエンスストア、銀行、バスの停留所とタクシー乗り場だけである。実験所は駅から数キロ離れているので、私達はタクシーで、町と村を混ぜあわせたようなところを走り続ける。日本にはよくある、大きな町をばらばらにして、田舎の真ん中にポンと移したようなちぐはぐな風景。》

原発事故に対するヨーロッパの反応についても書いている。

《この小出裕章氏へのインタビューは、2011年10月半ばに行われた。福島の原発事故から早7ヶ月以上の月日が流れていた。ドイツとイタリアとスイスは、すでに脱原発の国家指針を示し、殺気立つ国民の感情をやわらげた。これによって、2011年3月の大震災特ダネで、俄然ふくれあがったヨーロッパメディアの日本への関心は再び薄れ、新しい中近東の混乱へとその対象は移行した。》

著者が小出さんにする話題には、こんなのも。

《よりによって日本は、過去二度にわたって原子爆弾を投下された過酷な経験をもつ唯一の国でありながら、原子力に依存している。「広島」と「長崎」があったのに、この国には54基もの原子炉がある。それについての釈明もあるが、それはなんとも理解しがたい。》

「私にも解りません」と、小出さん。
小出さんの説明のあと、著者は続ける。

《日本ではこのように、原子力を「悪の原子爆弾」と「正しい原子力発電」との二通りに区別した。戦後数十年間、世界中の核兵器の全廃をめざして運動をしてきた広島と長崎の被害者たちでさえも、ずっとこの「原子力の平和利用を認める」という立場をとってきた。しかしこの福島の事故以来、彼らの中にも考えを変える人々が出てきている。》

南相馬市を取材。
駅前通りの魚屋の奥さんに話を聞く。

《この魚はどこで仕入れたかを、繰り返し繰り返しお客に説明しなくてはいけない、と彼女はため息をつく。》

《国や東電に対しての憤りは? 憤り? 魚屋の奥さんは頭を振る。いいえ、憤りはありません。彼女はすっかりあきらめているようだ。そして、私たちの周りには彼女の夫以外は誰もいないのに、声を低くして言う。強制避難させられて、ホテル住まいをしている人たちは、凄くいい待遇を受けている! ここに留まったり、自主避難した人たちは、何一つ援助をもらえない。》

南相馬市長、桜井勝延さんにインタビュー。
桜井さんは、2011年3月14日、You Tubeを通して救援を訴えたことで名高い。
南相馬市は、子どもたちにとって安全な場所ですか? という著者の質問に、市長は即答できない。

《「私達はまだ、3月11日以前と同じ状況に達しておりません。残念ながらそういうしかありません」》

福島市にあるシュタイナー幼稚園を取材。

《2011年8月、ここ(渡利)では、毎時5・4ミリシーベルトの放射線量が計測された。年間の最高放射能許容量は、1000マイクロシーベルトか、1ミリシーベルトと定められている。》

《現在この幼稚園には、9人の子供が通園している。以前は23人いた。残りの子供たちは、福島県外の安全な土地か、少なくとも福島市外へ、家族と一緒に避難している。この福島市民の県外移住者数は膨大だ。2011年11月までに、約6万人の人々が県外に避難した。》

幼稚園の責任者、門間さんは、吾妻小富士のふもとへ幼稚園を移転しようと決心。
あそこは放射線量が毎時0・12マイクロシーベルトで、こことはくらべものにならない。
しかし、門間さんは経済的なリスクを負うことになる。

《彼女は自分の意思でこの土地を離れるのだから、経済的な負担はすべて自分で負わなければならない。》

2011年10月末。
再び、霞が関へ。
以前きたときより、ずっと活気がある。
編み棒ではなく、指をつかって編みものをしている女性グループがいる。
ここで、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の佐藤幸子さんと待ちあわせをして、国会議事堂の会議室でインタビュー。

岩手県山田町へ。
県営病院は津波の被害を受け、1階は水浸しに。
医師と看護婦は病人を屋上に誘導し、全員無事救助された。

数か月後、病院は閉鎖。
臨時病院が、町の小高い場所に開設されたが、新しい病院には入院施設がない。
そのため、平泉宣先生は、毎日長時間かけて訪問診療を続けている。

山田町にある龍昌寺は、最初の避難場所となった。
3月11日から、約80人が寝泊まりし、そのうち20人ほどは、9月なかばまでここで暮らした。
龍昌寺の清水誠勝禅師はいう。

《「我々は、山田町の何処にでも見られる、掲示板や旗に書かれた『励ましの言葉』にはもう飽き飽きしているのだ。何時までも続く『負けるな! ガンバレ! あきらめるな!』という言葉ばかり、もう聞きたくない」》

山田町の沼崎喜一町長に取材。

《「私どもは自宅を失い、土地も危険区域に指定されて、そこに再建することは許されないわけで、国に対して、私達の土地を買い上げてくれるように要請しました。しかし国は、それは市町村の問題だとして、要請を却下しました。町は最終的にその要請を受け入れましたが、もうひとつ問題があります。それは土地の価格評価です。津波以前の価格か、それともそれ以後の価格か? 津波の後、土地の価格は当然下がりました。私どもは、津波以前の価格で買い取って欲しいと要請しましたが、政府はそれをあっさりと却下し、津波以後の価格で買い取るように我々に指示しました!》

埼玉県加須市で、双葉町の井戸川克隆町長にインタビュー。

《「2013年3月12日、5時44分、双葉町全員を緊急避難させるように、政府から勧告を受けました。即刻私は、このことを住民に通告しました。》

役場と住民は、埼玉県加須市の廃校に移った。
当初は1300人、現在は560人がここで共同生活をしている。
緊急避難でバスを十分調達できなかったため、自分の車で逃げた町民が多い。
それがかえって幸いして、今は車があるためにうごきやすくて助かっているという。

以前、政府や東電に疑義をしめすと、「あなたは怖がりですね」と逆にいわれたと井戸川町長。

《「今は限りなく残念です。もっと以前から私の心配をはっきり提示すべきであったし、事故に備えて、住民の緊急避難と、急場をしのぐ生活が出来る場所を用意しておくべきだった」》

多くのひとたちが、いつの日かまた双葉町に帰れることを願っていると町長が話すのを聞き、著者はショックを受ける。

《「私はこの町の最高責任者として、彼らに、もう二度とあそこへは帰れないことを、率直に言うことが出来ません」》

いまは避難所となった校舎のなかを見学。
著者は、双葉町で理髪業をいとなんでいた、60歳半ばの男性に、「一日中、何をして過ごしていますか?」とたずねる。

《彼は困ったように笑いながら「朝飯、昼飯、夕飯」と言って涙ぐむ。》

つい、たくさん引用してしまった。
このあとも、精神科医を取材したり、名古屋市立大学の生徒と「3・11」についてのゼミをおこない、その模様を記したり。

この本には、不思議なページがある。
著者は、小説家の村上春樹さんにインタビューしたらしいのだが、そのページにはこう書いてあるのだ。

《村上春樹氏の意向により、日本語の訳文は掲載できません。》

なぜ、村上さんは訳文の掲載に同意しなかったのだろう。
原書には、インタビューが掲載されているはずだから、熱心なファンは訳して読んでいるかもしれない。

それから。
本書の続編、「フクシマ2013」がことし出版された。
タイトルからみて、震災の2年後に取材をしたものだろうか。
この本はまだ読んでいない。
いずれ、読んでみたいと思っている。



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