散日拾遺

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3月24日 コッホが結核菌を発見(1882年)

2024-03-24 06:42:35 | 日記
2024年3月24日(日)

> 1882年3月24日、ドイツの細菌学者ロベルト・コッホが結核菌を発見した。これを記念して、3月24日は「世界結核デー」とされている。
 コッホは結核菌以外に炭疽菌、コレラ菌も発見している。しかし、コッホがパスツールと並んで「細菌学の父」と言われる理由は、その方法論を確立したことにある。
 コッホは微細な細菌を分離し、純粋培養するために、固形培地を使うことを発明した。今では寒天で固めた培地で培養するのが一般的になっているが、コッホは、食べずに置いてあった茹でたジャガイモにカビが生えるのにヒントを得て、ゼラチンで固めた培地で細菌を繁殖させる技術を確立したのだ。さらに、純粋培養のうえ分離した細菌を動物に摂取して同じ病気が起きることを証明し、病気と病原体の関係を明らかにしたのである。
 コッホは、1884年に病原菌と感染症の関係を特定するための四つの条件を提案した。これが「コッホの四原則」と呼ばれるものである。その後ベルリン大学で教鞭をとり、多くの有能な細菌学者を育てた。日本の細菌学の祖、北里柴三郎もコッホに教えを受けた一人である。コッホは1905年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.89

Heinrich Hermann Robert Koch
1843年12月11日 - 1910年5月27日


 コッホの業績は上述の通り、大きく三つにまとめることができる。
  • いくつかの病原体の発見:結核菌、炭疽菌、コレラ菌
  • 固形培地を用いた研究法の確立
  • コッホの四原則の提唱
 このうち、四原則の内容は以下の通り:
  1. 一定の病気には一定の微生物が見出されること
  2. その微生物を分離できること
  3. 分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
  4. そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること
 1~3はコッホの師匠筋にあたるヤーコプ・ヘンレ(1809-85)の三原則にあたり、コッホはこれに4を付け加えたものである。「ダメ押し」といった印象を受けるが、1~3を満たしながら4を満たさない例というもの(つまり、第4の条件が必要である根拠)を、恥ずかしながら僕は挙げることができない。

 一方、コッホの四原則に該当しない例が Wikipedia に掲げられている。

① ヒトに病気を起こす病原微生物が必ずしも実験動物でも病気を起こすとは限らない
② 子宮頸癌におけるヒトパピローマウイルスのように、必ずしもすべての臨床例で病原体が検出されない場合がある
③ 日和見感染のように、その微生物が存在しても必ずしも発病しない場合がある

 ①については、コッホの原則の3.が「感受性のある動物に」と断っているのだから、原則の瑕疵とはいえない。
 ②、③は確かにそういう場合もあるけれども、「場合もある」という表現が示すようにこれらは例外である。原則があってこそ例外を例外として記述することができるとすれば、原則を立てることの意義を確認させるものとも考えられる。

 それより興味深いのは、ペッテンコーファーとの争論である。コッホが「細菌学の父」ならペッテンコーファーは「近代衛生学の/環境医学の父」と称される一方の雄で、下水道の普及と衛生行政の発展に多大な功績を挙げた。ただ、コレラをめぐる二度の大論争では、いずれも敗者となっている。
 その第一はイギリスのスノー(John Snow、1813 - 1858)がコレラ対策として上水道整備を提唱したのに対し、ペッテンコーファーは下水道こそ重要と主張して、ヨーロッパを二分する論争になったものだ。これは1892年のドイツにおけるコレラ流行の際、簡便な上水処理のみを行ったハンブルクと、より厳密な上水処理を行ったアルトナの間で、コレラの発生率に劇的な違いが見られたことから、上水道説が完勝をおさめた。
 その第二がコッホとの間のもので、同じ1892年にペッテンコーファーは大量の(推定10億個以上、予めコッホが培養した)コレラ菌を自ら服用してみせた。その2日後から4日間にわたって下痢と水様便が続いたが、コレラ特有の激しい脱水症状は発生しなかった。一言で括るなら、コレラ菌をのんでもコレラは発生しなかったのである。
 「だからコレラ菌はコレラの原因ではない」と言えないことは今日では明らかで、その意味で彼は再び敗者となったのであるが、一方では感染症の発症に個体側の要因もまた重要であることを、ペッテンコーファーの「実験」とその後の追試結果のばらつきが教えてもいる。
 ペッテンコーファーは留学中の日本人学生らにも大いに薫陶を及ぼし、その中には森林太郎(鷗外)も含まれている。森が後の脚気論争において病原体説に固執する誤りを犯した背景に、師ペッテンコーファーが病原体説を軽視したことへの反省を見る説があるという。
 ペッテンコーファーは晩年に至ってうつ病を発症し、痛ましくもピストル自殺を遂げている。


Max Josef von Pettenkofer
1818年12月3日 - 1901年2月10日

 コッホとパスツールを対比してみたい欲求に駆られるが、これはいずれあらためて。

Ω



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