滋賀市民運動ニュース&ダイジェスト

編集:市民運動ネットワーク滋賀・事務局(TEL:FAX077-522-5415)

【0905/53:市町村合併】(安土町)合併反対で町長リコール署名集める

2009-05-09 00:36:40 | Weblog

 近江八幡市との合併協議にからみ、安土町の津村町長リコールを求める署名活動を行なっていた住民グループが、5月8日までにリコールの賛否を問う住民投票条例制定に必要な数の署名を集めました。

 署名活動を行なっているのは、安土町の住民グループ「急ぐな合併守ろう安土みんなの会」です。

 会では現在、安土町が進めている近江八幡市との合併協議にからみ、安土町の津村孝司町長のリコールを求めるため、先月16日から署名活動を行なってきました。

 会によりますと、7日までに津村町長リコールの住民投票に必要な有権者の3分の1にあたる3291人を上回る、3490人分の署名を集めたと発表しました。
会では5月12日まで署名活動を続け、15日に町の選挙管理委員会に提出する予定だということです。署名が提出されれば提出後20日間の審査が行なわれ、その後1週間の縦覧期間を経て必要な数の署名数が確定すれば本請求が行われることになります。そして本請求を受けて、安土町では60日以内に町長のリコールの賛否を問う住民投票が実施されます。

 住民グループが15日に署名を提出した場合、本請求は最短でも6月12日となる見込みですが、近江八幡市と安土町の合併協議は現在ハイペースで進められており、5月31日には合併調印式が予定されていることから、住民投票が実施される頃には合併協議が終了している可能性があります。

 このため会では「町長や町議会には署名の数の重みを知り、住民の声を聞いて欲しい」と話しています。

【関連ニュース番号:0904/163、4月21日など】

(5月8日、びわ湖放送・電子版:9日付け朝日・毎日・京都の電子版なども報道)

http://www.bbc-tv.co.jp/houdou/news/news_week_detile.php?no=14281
http://mainichi.jp/area/shiga/news/20090509ddlk25010378000c.html

【必要署名数を突破」安土町長リコール】

■合併巡り住民団体

 民意を見定めないまま近江八幡市との合併を強行しようとしているとして、津村孝司・安土町長の解職請求(リコール)に向け署名を集めている住民団体「急ぐな合併・守ろう安土みんなの会」は8日記者会見し、7日現在、請求に必要な有権者の3分の1(3291人)を上回る3490人の署名が集まったことを明らかにした。町選管が有効性を審査するが、リコール投票に持ち込まれる可能性が大となった。

 住民団体は、近江八幡市との合併の是非を住民投票で決めるよう求め、有権者4015人の署名を集めて投票条例を請求したが、4月に町議会が否決。これに反発して、同16日から町長に対するリコール署名運動を展開していた。

 署名簿は15日に町選管に提出される予定で、審査・縦覧のあと、6月半ばに署名数が確定する。有権者の3分の1を上回っていれば、60日以内に町長の解職を問う住民投票が行われる。その際、解職に過半数の同意があれば失職し、町長選が行われる。

 一方、近江八幡市・安土町合併協議会は、今月末に予定している第5回協議会で合併協定書に調印、両市町とも6月議会に合併議案を提案する構えだ。予定通り進めばリコール投票前に、合併が決まるが、住民団体の大林宏代表は「町議に署名の重みを分かってもらえるよう働きかけたい」と話している。

(5月9日朝日新聞・電子版)

http://mytown.asahi.com/shiga/news.php?k_id=26000000905090002


【0905/52:言論と暴力】朝日新聞特集「明日も喋ろう 遺品は語る(4)」

2009-05-09 00:23:45 | Weblog

【写真:浅沼稲次郎が刺殺される直前に読んでいた演説の原稿は、事件の写真とともに憲政記念館に常設展示されている=東京都千代田区】

◇テロ美化の言論 今も/浅沼稲二郎事件

 その墓は東京の一等地・青山の霊園にある。周囲は丁寧に掃き清められ、時おり墓参りに訪れる人がいる。

 ここに眠るのは49年前、演説中の浅沼稲次郎・社会党委員長を刺殺し、鑑別所で自殺した少年、山口二矢(おとや)(当時17)。毎年11月2日の命日には墓前祭が開かれ、昨年も右翼関係者らが参列した。

 「烈士」「希代の英雄」。山口を称賛する書き込みは今もネットに相次ぐ。
    ◇
 1960年10月12日、東京・日比谷公会堂。山口は刃渡り約34センチの脇差しを構え、演説中だった浅沼に突進した。凶器は浅沼の左脇腹を突き、よろめいたところをさらにもう1回襲った。

 浅沼を担いで病院に運んだ秘書の酒井良知さん(77)は「外に出る階段を下りたあたりでヌマさんの大きな体がガクッと重くなった気がした」と振り返る。脇腹の傷は30センチ近い深さに達していた。

 日米安保条約をめぐって国論が二分した時代。翌年には、皇室を題材にした小説をめぐって、出版元の中央公論社の社長宅が右翼の少年に襲われる事件もあった。

 浅沼事件から来年で50年。映画監督の若松孝二さん(73)は、山口を主人公にした映画を撮影しようと準備を進めている。「戦争と戦後」をテーマに作品を撮り続け、60年安保から72年のあさま山荘事件までを描いた「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」は08年年、ベルリン映画祭で高い評価を得た。

 「山口も連合赤軍もある意味純粋すぎた。思い詰めて周りの意見が耳に入らなくなっていったんだ。同時代を生きた者として記録したかった」と話す。
    ◇
 国会に近い憲政記念館の地下1階の収蔵庫に、浅沼が最期に着ていた服などが保管されている。

 47回目の命日となった07年10月12日、浅沼の追悼集会が開かれ、遺品が展示された。土井たか子・元衆院議長や村山富市元首相ら旧社会党関係者に交じって、右翼団体「一水会」の鈴木邦男顧問(65)の姿もあった。背広を前に「意外に小さいんだな」と感じたという。「浅沼さんが実際以上に大きく見えていたのかもしれない」

 山口と同じ年生まれ。仙台の高校で受験勉強に明け暮れているさなか、浅沼事件が起き、衝撃を受けた。大学入学後、右翼運動にのめり込む。「山口二矢の背中をずっと追っかけてきた。巨悪を狙って自分も死ぬ、そういう美学があった」と語る。

 しかし、右翼による82年の内ゲバ殺人事件や90年の本島等・長崎市長銃撃事件などを契機に、テロと決別した。「非合法闘争では社会は変わらない。右翼に言論の場が与えられない時代でもなくなった」と思うからだ。99年ごろからは社民党や新左翼など、意見が異なる相手の集会にも顔を出すようになった。

 「北朝鮮をぶっつぶせ」「日本も核武装を」。ネットでは過激な言葉があふれる。「仲間内にしか通じない言葉をしゃべって安心しているだけ。自分と違う不愉快な言論に耳を傾けなくなった。いろんな主張を認め合わないと、排外主義になってしまう」。今の言論状況は相当危うい、と鈴木氏は指摘する。

【関連ニュース番号:0905/08、5月1日;0905/42、5月7日、0905/51、5月9日】

(5月8日付け朝日新聞・電子版)

http://mytown.asahi.com/shiga/news.php?k_id=26000000905080001

【0905/51:言論と暴力】朝日新聞特集「明日も喋ろう 遺品は語る 2」

2009-05-09 00:17:02 | Weblog

■軍靴の道には戻らぬ

 兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局が襲撃されて4ヵ月後の87年9月、朝日新聞名古屋本社寮の食堂とテレビと、隣のマンションの壁に散弾が撃ち込まれた。
 2日後、通信社に届いた「赤報隊 一同」と名乗る犯行声明にはこんな文言がある。
 〈反日朝日は 五十年前にかえれ〉
 「五十年前」が何を意味するのか分からない。だが当時から数えて50年前、正確には51年前の1936年2月26日、日本を揺るがすクーデター未遂事件が起きた。2・26事件である。
 ◇
 「血の海の中で、父は死にました」
 今年3月8日、東京都杉並区立郷土博物館。ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さん(82)は、視聴覚室を埋めた約80人を前に、ゆっくりした口調で語りかけた。2・26事件で殺害された渡辺錠太郎・陸軍教育総監の次女。当時9歳で、自宅が襲われたとき、物陰に隠れて一部始終を目撃していた。
 その朝、東京は雪だった。怒号で目が覚めると、兵士らが家に上がり込んできた。隣の布団で寝ていた父に促され、寝室の隅に立てかけてあった座卓の後ろに身を潜めた。
 「軽機関銃が父の足を狙い、片足はほとんど骨ばかりになりました」。流れ弾が一発、座卓に当たった。父の体には43発撃ち込まれていたと、のちに聞かされた。
 渡辺錠太郎は天皇の権威を利用して勢力拡大を図ろうとする軍の一部を批判し、青年将校らの怒りを買ったとされる。海外駐在の武官を長く務め、第一次大戦後の疲弊した欧州各国の様子を目の当たりにしたことから、「戦争だけはいけない」と和子さんの母に話していたという。
 ◇
 杉並区の荻窪にあった木造二階建ての渡辺邸は数年前に空き家となり、昨年2月27日に解体された。
 親指大の穴の跡が残る座卓、反乱軍が銃撃を浴びせた玄関、和子さんが寝ていた和室のふすま・・・・。遺族はこれらを杉並区に寄贈、寄託した。事件を伝える遺構として郷土博物館が復元し、今年2月から5月10日まで展示している。その後も博物館で保存することが決まっている。
 保存に奔走したのは地元の人たちだった。タウン誌「荻窪百点」を発行する松葉襄(じょう)さん(72)は解体のうわさを聞きつけ、他の住民らとともに区長に保存を求めた。「荻窪百点」で渡辺邸の特集を組み、戦争関連の史跡を巡るツアーの案内人も務めている。
 松葉さんは2・26事件のあった1936年生まれ。「軍の発言力が増した時代の転換点とも言える事件。渡辺邸の遺構が、あの時代を思い起こし、平和を考える材料になれば」と話す。
 和子さんはこれまで、大勢の前で父の最期を語ることはほとんどなかった。郷土博物館の展示を機に「事件を風化させてはならない」との思いから、特別に引き受けたのだという。
 「軍の一部が自分たちの意志を遂げるために蜂起し、いらないものを消し、戦争にひた走った。『こういうことは繰り返さない』と思って頂けたら、私もお役に立てたのではないでしょうか」

【2・26事件:1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校ら約1400人が「昭和維新」と叫んで武装蜂起、首相官邸や国会議事堂などを占拠し、斉藤実・内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎・陸軍教育総監らを殺害、東京朝日新聞社などを襲撃した。同29日までに全員が投降し、首謀者とされた将校ら19人は同年7月と翌年8月、特設軍法会議で死刑を言い渡され処刑された。】

【関連ニュース番号:0905/08、5月1日;0905/42、5月7日】

(5月3日付け朝日新聞)