因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団唐組・第73回公演『泥人魚』

2024-05-06 | 舞台
 *唐十郎作 久保井研+唐十郎演出公式サイトはこちら (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16)既に神戸・湊川公園で開幕し、岡山の旭川河畔・京橋河川敷の公演も盛況のうちに終了して、いよいよ新宿・花園神社にお目見得となる。数々の演劇賞を受賞した2003年の初演は未見。2021年12月の金守珍演出のシアターコクーン版にはなぜか心が入ってゆかずblog記事なし。

 唐十郎の訃報を知ったのは5月5日(日)朝のネットニュースであった。既に先月から『泥人魚』のツアーは始まっており、その日は新宿・花園神社の初日で、いつもよりも張りつめた空気の中開幕、カーテンコールで座長代行の久保井研の挨拶のあとは拍手が鳴りやまず、あるSNSには「劇場全体が号泣しているようだった」とあった。いつかはこんな日が来ると思っていたが、やはり不意打ちであり衝撃であった。5月4日は寺山修司の命日でもあり、かつて火花を散らし合った演劇界の旗手が同じ日に旅立つとは。唐十郎は自分の人生までも劇的な展開の物語とし、忘れがたい演出をしたのである。

 都会の隅のブリキ加工店で働く蛍一(福本雄樹)には苦い過去がある。冒頭、蛍一に捨てられた、彼に去られたことを恨む人々が現れて歌う。果たして彼はどんな人物であり、人々にどんなことをしてきたのか、なぜここにいるのかと、観客の頭は早くも疑問が次々に沸く。とそこへテントの横の幕が開き、頭にブリキの板を乗せた店のあるじであり、詩人の伊藤静雄(久保井研)と、ヘルパー腰田(福原由加里)、その同僚の肩田(加藤野奈)が表を走りながらテントに駆け込んでくる。冒頭は物語の「掴み」として大変重要だが、謎だらけの掴みから、その空気を容赦なくぶちこわすごとき闖入者に、客席は爆笑の渦となる。

 唐組の大切な「流儀」は、テント設営から照明や音響、チケット販売などの制作など裏方業もすべて俳優が担うことである。開演ぎりぎりまで客入れや観客誘導をしながら、自分の役作り、心身の調整をどのように行っているのか。芝居が始まっても、出番の無いときは裏方業に回る。複数役を兼ねる俳優も少なくないなか、演じることとの両立には大変な神経を使うのではないだろうか。今回の公演にあたって久保井研は次のように語っている。裏方で役割を見つけた若手は、芝居の力も伸びるのだという。「自分の存在に何らかの自信が出るからか。こうした体験はこの劇団でしかできない」(朝日新聞 2024.4.11)。また「裏方の仕事は、芝居が分かってないとできない。自分がどんなことをどんな立ち位置でやるか理解できないと、集団の中で自分を生かせない。劇団で居場所を見つけることが、物語の中で自分がどう存在するのかを考える回路になる」(読売新聞オンライン 2024.5.2)と。

 「芝居が分かっていないと」とは、その芝居の流れや構造、台詞の意味、登場人物それぞれの個性や背景など劇作家の意図や意志を理解しないと、人物として必要とされる演技ができず、裏方としても適切に動けないということだろう。

 これは観客にとっても通じるところがあるのではないだろうか。観客の役割の第一は、言うまでもなく劇場に身を置いて、舞台の人々と時空間を共にする、ともかくも最初から最後まで劇世界を見届けることだ。しかしそこからさらに進んで、「芝居が分かっているか」について、実は未だに困難なのである。今回も第一幕まではどうにか理解しなからの観劇ができたが、第二幕になると心許なく、しかし最後に恒例の屋台崩しに至ると、もうそれで心がいっぱいになり、「理解」や「把握」がどこかへ行ってしまう。観客としての存在に自信が持てないのである。

 それでも紅テントは、俳優たちは自分を惹きつけてやまない。やすみを演じた大鶴美仁音は柔らかそうな感触と見せて次第に切れ味を発揮する。知らない二郎の稲荷卓央の鋭い瞬発力と、それとは裏腹の三枚目ぶり(もっと的確な表現があるはずで、そこに行き着けない自分がもどかしい)、月影小夜子の藤井由紀はこの夜も蛍一も観客も魅了し、翻弄する。夕ちゃんの岩田陽彦は声や表情に他の人物に負けない力強さが溢れている。今回は南河内万歳一座より、荒谷清水と座長の内藤裕敬が客演した。いずれも第二幕の後半の登場で、それも登場するやテントの空気を一瞬で我がものにするかのような迫力だ。いったいそれまで楽屋テントでどうやって過ごしていたのか、どのように心身を調整して、あのテンションで登場できるのか…とまだまだ書ききれない。
 
『泥人魚』は、唐十郎が長崎は諫早の「ギロチン堤防」をモチーフに書き上げた物語だ。国が進める干拓事業を巡って、反対する者と生活のために下請け工事に携わる者など、漁師町の人々の立場や考えが分断され、そのはざまでもがく若者たちの群像劇である。中堅、ベテランも、ヘドロの色をして、底に泥がたまった水槽に飛び込み、びしょ濡れの泥まみれで唐十郎の劇世界を走り抜く。

 自分の観劇日も、カーテンコールの拍手は長いこと鳴りやまなかった。号泣のようでもあり、しかしやはり喝采であろう。この泥臭く、それでいて切なく美しい劇世界を生き抜いた人々へ、それを作り上げた唐十郎という不世出の演劇人への喝采であり、祝福、感謝でもあると思う。自分はあまり成長できない観客だが、それでもテントに身を置き続け、戯曲を読み返したい。そう、飯を食うように。
終演後のテントの裏側
今夜もお疲れさま
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新国立劇場『デカローグ 1-10... | トップ | 劇団民藝公演『オットーと呼... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事