因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

7度『M.M.S~わたしのシュルレアリスム宣言』

2017-02-11 | 舞台

*伊藤全記構成・演出 公式サイトはこちら1,2) 国際舞台ミーティングin横浜 TPAM2017「フリンジ」参加作品。駒込・La Grotte(ラグロット)15日で終了
 「シュルレアリスム」とは、フランスの詩人アンドレ・ブルトン(1896年~1966年)が提唱した思想活動で、「シュルレアリスム宣言」は彼の著書である。具体的にどのような思想であり、活動であるかをつまびらかにするのは非常に困難であるが、今回の舞台を構成・演出した伊藤全記のことばを借りれば、彼は「言葉を用いつつも言葉による説明をすることなくして、自分自身の内に埋もれている表現をなそうした人物」であり、「この試みを通して、いわば「言葉」によって「言葉」からの脱出を試み、自分自身の自由を追求したのだといえる」とのこと。伊藤はブルトンの姿に、シェイクスピアの『ハムレット』を重ね合わせ、『ハムレット』の台詞を用いて、ブルトンの思想、みずからの演劇に対する思想を示そうと試みた。

 会場である駒込のLa Grotte(ラグロット)は、JR駒込駅周辺の喧噪から離れた住宅街にひっそりとある。中に入るとすぐに短い階段があり、そこを降りたわずかなスペースに椅子が7脚。演技スペースはそこから壁までの、これもまた非常に狭いところである。下手に階段が伸びており、白いドレスを纏った主演の山口真由が腰かけている。階段の上にスペースがあり、アップライトピアノが見える。おお、生演奏付きかと思ったが、音響や照明のオペレーションスペースらしい。コンクリート打ちっぱなしのように見える正面の壁には、ローレンス・オリビエ主演の映画『ハムレット』の画像と台詞、「シュルレアリスム宣言」についての解説などが映写されている。場内に石油ストーブが1つ置かれているが、あまりの寒さにコートが脱げず、椅子に置かれた小さな膝掛とホッカイロで暖をとった。いったい何が始まるのか。

 山口がオフィーリアをはじめ、ハムレット、父や兄、墓堀の台詞まで息もつかせず一気に発する45分のステージである。では 『ハムレット』をベースにした女優のひとり芝居、あるいは『ハムレット』のひとり語りかというと、そのようにまとめることにはためらいがある。

 実を言うと、はじまってしばらくのあいだ、白石加代子の「百物語」のイメージの枠でこの舞台を捉えようとする感覚(あるいはそうしたい誘惑か。既成の何かに類似したものと認識すれば、楽なので)に捉われていたのだが、ひとつの作品を「読む」あるいは「語る」、そのなかに俳優の存在を活かすこととはちがう、伊藤全記のたくらみがあるのではないか。それがどういうものなのか、あの夜寒さに震えながら得た感覚を明確にするには、自分の考えや言葉はまったく追いついてゆかず、ほんとうにもどかしい。しかしそのもどかしさを楽しんでいることも確かなのである。

 タイトルの「M.M.S」は「わたしの(My)宣言(Manifestoes)」シュルレアリスム(Surrealism)」の意であり、なんと硬質で難解で抽象的かと軽く引いたが、ならばタイトルを「山口真由ひとり芝居『オフィーリア』などとしてしまうのはまことに安易であり、何より伊藤の創作の思想とはかけ離れてしまう。といって、思想ガチガチの頭でっかちなものでは決してなく、生身の俳優とそれを見る生身の観客の存在が成立させる演劇の体温、予測できない何かがその場その時に生まれることへの想像力が感じられる舞台であり、さまざまな舞台をみるうちに陥る思い込みや「これはあれに似ている」的な安直な図式思考が揺すぶられるのだ。
 自分の感覚が揺すぶられるのは、ある意味で恐怖であり、避けたいことでもある。しかし伊藤全記の舞台からの揺すぶりは、楽とかキツいということをもはや突き抜けて、「この感覚は何なのか」とおもしろがってしまいそうなところがあり、それを自分は喜んでいるのである。

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劇団民藝 『野の花ものがたり』

2017-02-07 | 舞台

*徳永進『野の花通信』より ふたくちつよし作 中島裕一郎演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 14日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25
 内科医の徳永進さんは、勤務していた鳥取の総合病院を出て小さなホスピスを作った。名づけて「野の花診療所」。そこでの日々を記した『野の花通信』を原作に、ふたくちつよしが書き下ろした新作だ。見る者の心へまっすぐに届く、とても温かで気持ちの良い舞台である。

 公演パンフレットに掲載されている徳永医師のインタヴューが大変おもしろい。聞き手である演劇評論家の河野孝の話の引き出し方や、合いの手の巧さも大いにあるのだが、単にユーモアのセンスがあると言い切れないところ、字面だけ読むと、「ええっ?」と驚くようなエピソードや、物議を醸しそうなアイディア、患者の家族に対する失言の体験までが遠慮なく語られている。この医師はその場しのぎのきれいごとやごまかしを言わない人だ。もっとも大いなる魅力は、死をネガティブにとらえないところだ。死を前にして、茫然自失する人々を目の当たりにしてきた。「もう少し自由でやわらかな空気を病室に届けることはできないか」、「死への案内は、同時に生きることへの案内」(いずれも「民藝の仲間」掲載の談話)と語り、劇中でも徳丸医師は「死って、そんなに悪いものでしょうか」と客席へ語りかける。

 当初徳丸医師(徳永さんのこと)役は西川明であったが、病気療養のため杉本孝次に変更になり、杉本が演じる予定であったがん患者の妻を見守る浦沢長太郎を安田正利がつとめることになった。結果的にこの配役変更が非常に効果的で、とくに院長の杉本孝次が、その風貌や、温かみのある声質が徳丸院長にぴったりであった。初日前の朝日新聞掲載のインタヴューにおいて、杉本は30代のがん患者から死期を尋ねられ、「知りたいですか?」と聞き返す台詞のむずかしさについて語っている。この記事を読んでいたせいもあり、思わず前のめりで聞き入ったのだが、杉本は非常にさらりと自然に「知りたいですか?」と問いかけていた。知ってどうするのですか?知らないほうがいいのじゃないですか?等々の含みや意図などが感じられない。言葉通りの意味だけである。台詞を目で読めば、まことに素っ気ない。それが杉本の温かで柔らかな声で発せられた瞬間、死期を知りたい、でも知るのは怖いと揺れ動く患者の心がまるごと受け止められたことが伝わるのである。

 舞台には4つのベッドが置かれ、それぞれの患者の病室となる。前面の中央にラウンジ、下手には院長室らしきスペースがある。徳丸医師が劇全体の進行役となり、野の花診療所の成り立ちや自分の思い、患者や看護師たちのことを客席に語りかける。4つの病室には末期を迎えた患者が入院しており、付添いの家族や担当の看護師たち、ボランティアとのやりとりが点描される。
 そのなかで、徳丸先生はあまり働いていない。というのは、徳丸医師が病室で患者の脈をとったり、医学的処置をしたり、レントゲン写真を見たりするシーンがほとんどない・・・というか、あっただろうか。もっぱら院長室スペースや、外に出てもラウンジであり、患者やその家族に比べて、舞台にいる時間が非常に少ないのだ。

 たとえば自力で歩くことができなくなった浦沢ユイ(箕浦康子)が、「どうしても村の地蔵さんのところへ行きたい」と言う。夫の長太郎(安田)は無理だとなだめ、夫婦喧嘩になるのだが、担当の看護師(藤巻るも)が「何とかやってみよう。うちの院長、こういうの好きだし」と胸を叩く。ならば徳丸先生はどのような知恵と工夫で、ユイの希望を叶えるのかを知りたい!と思うのが観客である。しかし具体的な経緯はまったく描かれず、地蔵参りの叶ったユイ夫婦が晴れ晴れと病室に戻ったところで、このエピソードは終わりである。それをもの足りないと不満に思わせないのが、劇作家ふたくちつよしの筆の力であり、徳丸医師を演じる杉本はじめ、俳優陣の真心のこもった演技であろう。願いが叶って幸せそうなユイ(しかし確実に死期は近づいていることがわかる)、立ち振る舞いすべてに妻への愛情がにじみ出る長太郎を見ていると、もうそれで観客も満足してしまうのだ。
 決して自分がヒーローにならない徳丸医師。それが舞台を非常に好ましいものにしている。

 とは言え、「もっと知りたいな」と思う場面もある。30代のがん患者松永(みやざこ夏穂)は、看護助手の富田(和田啓作)の振る舞いに激怒するが、彼もまた重い病気を抱えていると聞かされる。和解につながらう何らかの場面があると待っていたが、しばらく見かけない彼が亡くなったことを知った松永が、衝撃を受けつつも「謝ることができて良かった」と少し安堵するところで終わった。ふたりの和解を敢えて舞台で示さないことを「良し」とするには無理がある。また患者やその家族の造形がやや凡庸ではないか。素直に受け止めればいいのだろうが、徳丸医師のあからさまではないが、複雑な内面を想像させる造形が非常に魅力的なので、重病の家族を抱える健気な妻や妹に、もう少し陰影があればと欲が出るのである。

 野の花診療所にテレビカメラでを入れ、徳永医師や看護師、患者さんやご家族の様子をドキュメンタリーで紹介すれば、もっとダイレクトに、劇場に来る観客よりも遥かに大勢の視聴者に伝えることができる。しかしラストシーンの夏の花火大会。河原で花火を眺めている人々のなかに、先に旅立った人々が加わってともに夜空を見つめる。この場面の美しさ、清々しさは、舞台でなければ表現できない。

 舞台『野の花ものがたり』はまことに地味で、静かな作品である。しかし単に「良かったな」で終わらない足跡を観客の心に残す。人間という矛盾だらけの生きものに等しく与えられた、たったひとつの命。それをどう生かし、どう終わらせるか。決して暗くならず、どちらかと言えば少々脱線してもよい、朗らかに楽しくありたい。そのためにはどうすればよいか。さまざまな問いを与え、一歩踏み出すきっかけを生む舞台なのである。

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下北沢演劇祭・下北ウェーブ2017選出 藏下右京×渕上夏帆 二人芝居vol.2

2017-02-04 | 舞台

*唐十郎作 藏下右京×渕上夏帆演出・出演 下北沢演劇祭「下北ウェーブ2017選出」 下北沢・小劇場楽園 5日で終了
『月光町月光一丁目三日月番地』の初演は1964年6月、新宿厚生年金会館結婚式場控室であったとのこと。『23時53分「塔の下」行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている』に続く2作めの戯曲であり、当初は『渦巻は壁の中をゆく』という原題であったが、雑誌掲載にあたって改題された。1974(昭和49)年発行の「別冊新評 唐十郎の世界」巻末に掲載の唐十郎による自作年表には、「シャンペンうちならし、哄声とびかう新宿厚生年金の結婚式場のついたて1枚へだてた壁で」上演したと記されている。五十数年後、若者ふたりが演劇の街・下北沢の小さな地下劇場で上演する舞台を、ほぼ満席の客席が息をつめて見守る。状況劇場や唐組の紅テントの禍々しくも賑やかで熱気溢れる空気とは大きく異なり、「太田省吾か」と錯覚を起こしそうになるほどである。
 劇場に入って奥の演技スペースには白く大きな壁が立ち、その表面には渦のような模様がぐるぐると輪を描き、中心には黙した人の顔らしきものが描かれている。開演を待つあいだ、かすかに聞こえるのは水音であろうか。

 登場人物は男と女(戯曲にはもうひとり、老人が登場するが今回の公演には出てこない)。満州ということばが何度も出てくることから、彼らが過去に戦争を体験し、なお傷が癒えず、影を落としていることが次第にあぶりだされてくる。男と女は壁を背にして並んで立つ。ふたりの会話は過去の出来事や思い出を話しながら、お互いのすがたが見えなかったり、相手に近づこうとしても足が動かなかったりする。かと思うと見えないドクターに懸命に息子のタケシのことを尋ねたり、ふたりの位置と距離がどうなっているのか、壁はただ立っているだけなのに、次第に生きもののように不気味な存在に変容しはじめる。

 照明も音響も最小限に留められ、俳優も、中盤にふたりして舞台前面をぐるぐると走り回る場面もあったが、全体的に動きが少ない。白く大きな「壁」は、それ自体はまったく動かないのに、男女ふたりを隔てたり、吸い込んだりする。壁の向こうには(あるいは壁の中には)何があるのか。
 五十数年前の初演のイメージを思い浮かべることはできないが、今回の上演に挑戦した若い演劇人たちの声ともちがう、戯曲のことばそのものから人物の声が聞こえてこないものかと、『謎の引っ越し少女』(1970年學藝書林刊)に収録された戯曲を読み返している。

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因幡屋通信55号完成のお知らせ

2017-02-04 | お知らせ

 おかげさまで因幡屋通信55号が完成し、本日各設置先へ発送いたしました。今回はクリーム色です。書かせていただいたのは以下の舞台です。ご参考までに観劇後のブログ記事をリンクいたしましたので、こちらもどうぞ。

*魚肉ソーセージは家族の味~それぞれの食卓~
 劇団フライングステージ第42回公演 関根信一作・演出
  『Family,Familiar 家族、かぞく』

*朗読劇の可能性~「敢えて」が生むもの~
 トライストーン・エンターテイメント主催 山田太一編『寺山修司からの手紙』(岩波書店刊)よ り 広田淳一(アマヤドリ)構成・演出 『季節が僕たちを連れ去ったあとに』

 えびす組劇場見聞録は54号を数え、薄いグリーンでお届けいたします。取り上げましたのは、以下の演目です。HPのアップは少しお待ちくださいませ。

*お兄さまと久保万を
 ~文学座有志による自主企画公演 さういふものではない『霙ふる』~
 久保田万太郎作 生田みゆき演出 『霙ふる』
 今号では特別企画としまして、シアターコクーンで上演された『るつぼ』について、メンバー4名がショートレヴューを寄せております。

 昨年12月をもって、にしすがも創造舎さんが活動を終えられました。因幡屋通信、えびす組劇場見聞録ともに十年以上もの長きにわたり設置していただいており、感謝の思いもひとしおです。ほんとうにありがとうございました!

 そして今号から観劇三昧下北沢店さん、同じく大阪・日本橋店さん、シアター・バビロンの流れのほとりさんへ設置が叶いました。ご理解とご協力に心から感謝申し上げます。

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Ring-Bong第7回公演『逢坂~めぐりのめあて~』

2017-02-01 | 舞台

*山谷典子作 藤井ごう演出 公式サイトはこちら 下北沢・シアター711 12日まで(1
 坂を登って学校に通っていた幼馴染の安田素子(山谷典子)、柴崎敏之(亀田佳明)、藤本滋(長谷川敦央)を軸に、昭和11年から戦争を挟んで29年、34年、43年まで、戦争に翻弄されながらも自分の進む道を模索し、懸命に生きた人々の様相を描く2時間の物語だ。三人とその家族や恋人が市井の側、読売新聞、読売巨人軍、そして日本テレビを作った正力松太郎がモデルの松田正太郎(坂口芳貞)が業界を牛耳る権力の象徴を示す存在として登場する。
*これからご観劇予定の方は、このあたりからご注意くださいますよう。

 昨年4月に観劇した『名も知らぬ 遠き島より』でも体験したことだが、山谷典子の戯曲に対して、自分はどうしてもところどころでつまづく。たとえば素子が兄にお茶を淹れる。彼女は急須のお茶をまず兄に一杯注いで手渡し、それから自分に注ぐ。ん?と気になるのである。2杯淹れるなら、湯呑を並べて交互に注ぐのが自然だ。素子と姪の夏子がハイタッチ風のしぐさをする。このしぐさはいつごろから日本で一般的になったのか。急な停電に暗闇の中で蝋燭を探し、火をつけようとしたところが「千歳あめ」だった。このお菓子は七五三以外でも家庭に普通にあるものなのか。喪服を着て現れた敏之に、素子は「もしかして松田さんのお葬式?」と尋ねる(敏之は松田の腹心の部下)。松田ほどの人が亡くなったのならテレビなどで盛んに報道されるのでは。またサブタイトルの「めぐりのめあて」は宮沢賢治による美しい歌曲であり、劇中でも何度か歌われる。この歌がなぜ出てくるのか、サブタイトルに使うのならば、何らかの含みや意味がほしい…等々何やら小姑のような気分になるのである。

 だがプロ野球の選手としての人生に絶望した滋の手紙を素子と敏之が読み、別々の場所にいる三人の心が急激に近づき、互いの思いを受けとめようとする場面の緊迫感、求心力は思わず前のめりになってしまうほどであり、また滋の遺した娘が投げるボールを敏之がしかと受け止めるラストシーンは悲しみを湛えながらもほんとうに清々しい。これがまさに山谷戯曲の大きな魅力であり、観客に確かな手ごたえを与えるのであろう。

 当日リーフレットに演出の藤井ごうは「山谷典子は不器用に問いかけ続ける。その思いに俳優陣が身体と心を費やし世界を構築する」と記す。演出家や俳優は、不器用であるゆえに誠実な劇作家を愛し、その作品に共感して献身的に取り組むのであろう。その思いは舞台から客席にひしひしと伝わってくる。それを自分は客席で受けとめたい。

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