因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

studio salt 「『7』-2016ver.-僕らの7日目は、毎日やってくる-」

2016-08-22 | 日記

*椎名泉水作・演出 公式サイトはこちら 神奈川県青少年センター多目的プラザ 21日で終了

1,2,3,4,5,6,6`,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19
 2007年初夏に初演された『7』(6,6`)は、捕獲した野良犬や、飼えなくなったと持ち込まれた犬を、新しい飼い主に巡り会えるまで保護し、自治体の規定である7日目が来たら殺処分を行う施設で働く男たちの日常を描いた作品である。同劇団の代表作であり、自分にとっても特別な思い入れがある。その作品がマグカル劇場「青少年のための芝居塾公演」(公式サイト「マグカル」)として上演されることになった。これは「青少年のための芝居塾公演」(神奈川演劇連盟・神奈川県立青少年センター)が主催するもので、今年の「担当劇団」として神奈川県演劇連盟のスタジオソルトが選ばれた。プロの劇団、演出家や俳優とともに、演劇経験の浅い、あるいはまったく演劇経験のない若い受講生が4カ月に渡って稽古を行い、衣裳や大道具作りはじめ、演劇公演に至るプロセスをともに味わうというもの。出演者は総勢26名+生きた亀1匹である。

 受け手にとっても、単に『7』が再演されるのではなく、大勢の若い人たちが加わった舞台を想像するのはむずかしいことであった。『7』は上記施設の休憩室が舞台になっており、そこでの日常がきっちりと描かれたリアリズムの芝居である。犬は出てこない。もしかして人間が犬になるのかな・・・と想像したとき、楽しみというよりも、何か情緒過多にベタついたものになるのではと懸念した。

 結果的に懸念はすべて杞憂であり、9年前の初演された舞台の核を失うことなく、懐かしさとともに、新鮮な発見や驚きのある舞台に出会うことができた。芝居塾の塾生たちが犬役を演じるのは予想通りであったが、それだけではなく、若手の職員や飼い犬を持ち込んだり、見学に訪れる側にも配役されており、新しく加わった役柄も実に自然で、劇世界に膨らみを生んでいる。

 痛感したのは、本作はまだまだ大いに変容する可能性を秘めているということである。たとえば今回は主に収容された犬に芝居塾の俳優が配された。ここに40代、50代あるいはもっと高齢の方々に加わっていただくこともできるのではないか。冒頭では新参で泣いてばかりいたモモが、日毎に強くなり、ボスになっていく過程をもっと描くこともできる。ただし、それもたった7日間だけなのだから、モモの悲哀はいっそう際立つわけで、むずかしい点ではある。見学者は犬を「可愛い」と言い、7日目が来た犬に対しても「がんばれ!」と明るく励ます。しかし殺されることがわかっている7日目の犬は「いやだ、助けて!」と泣き叫ぶ。絶望的なコミュニケーションの不成立があるわけで、このあたりもまだ書きこむ余地があると思われる。

 餌を入れる容器や椅子、モップなどでリズムを刻みながら『7』の劇世界を構築した点がおもしろい。音楽・演奏指導は栗木健。

 今回の公演には「ペットのいのちも輝く神奈川県」のミニパンフが折り込まれている。平成27年度、神奈川県動物保護センターに収容された犬と猫の殺処分は、昨年度に続いてゼロになったとのこと(神奈川県HP)。つまり舞台で描かれる状況はもう現実には行われていないということなのだ。動物たちの殺処分ゼロを達成した神奈川県は、人間と動物が良きパートナーとして生涯を幸せに暮らすことを目指して新しい動物保護センターの設立を呼びかけている。

 物語後半、職員のひとりが可愛がっている亀がいなくなる。それがみつかったらしいところで幕を閉じ、初演では柔らかな音楽でカーテンコールになったと記憶する。それが今回は大勢に出演者がステージ前面に降り、音を鳴らす俳優、それに合わせて大きく手を振り、足踏みをする俳優が無言で客席を見据えるものであった。「僕らの7日目は、毎日やってくる」この劇のサブタイトルに込められた意味が、にわかに重々しく迫ってくる。飼い主に巡り合えず、殺処分される犬は毎日いる。その作業を行う職員にとっても逃げようのない現実だ。「僕ら」は人間でもあり、犬でもあるのだ。その事実を冷厳に突きつけるかのように。

 今回はひとつの作品、ひとつの劇団に対する観客としてのあり方を振りかえる機会となった。『7』を愛する気持ち、スタジオソルトを応援する気持ちは変わらない。しかしそれは頑ななものではなく、変化を楽しみ、ともに喜ぶものでありたい。劇団のブログには、本公演を終えた安堵と準備期間を振りかえり、「打ち上げではじめて泣いた」との記述あり、ほんとうに言葉にし尽くせない苦労があったこと、しかしそれを上回る手ごたえと喜びがあったことがわかる。批評だの論考だのといったアタマの部分を振りはらって、客席からもおめでとう、ありがとうと心から伝えたい。

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CROQUIS(クロッキー) vol.0『余炎』

2016-08-21 | 舞台

柳井祥緒十七戦地 1作、後藤彩乃演劇集団円演出 公式サイトはこちら 20日、21日 台東区根岸・子規庵
 「クロッキー」とは、短時間で描く写生のこと。では「デッサン」や「スケッチ」とはどうちがうのか?ネットでこのような解説を見つけた。「クロッキー」は、人物や動物など動きのあるものを素早く簡潔に線のみで描写することを指すとのこと。演劇ユニットCROQUIS(クロッキー)は、「その名の通り、短時間で、人間のすがたを描写することをめざす、演劇ユニットです。息づかいが伝わる小さな空間で、会話劇を中心とした短編戯曲を上演していきます」(公式サイトより)とのこと。演劇集団円研究所出身の俳優・牧野希世を中心に、演出家、共演者とも円研究所出身者による座組みである。

 終戦直後の福岡県横泉水町の小さな庵で、俳句とそれに関わった人々の愛憎を巡る40分の会話劇である。牧野のブログ「まきのきよのひびつれづれ」に「杉田久女(Wikipedia)がモデルになっている」と記されており、ゆかりの人々の名からも「あの人のことだ」と即座に想像できる俳人もあり、物語と知っていても生々しくスリリング。

 俳句の女王と讃えられながら、師匠である高野蒼穹(高浜虚子のことか)に疎まれ、句集の出版を阻まれて結社からも追放された伊坂なみ女(千葉沙織)は、蒼穹に手紙を出し、結社復帰を願い出ていた。返信がないことで俳句の道を諦め、句稿を寺に奉納する準備をしている。そこへ句妹(くまい、と読む。俳句における後輩、妹弟子のこと)の橋本凪子(平田舞)が訪れる。終戦直後の郵便事情のためだろう、師は返信を出したのだが、なみ女のもとには届いていなかった。凪子は復帰を許す師のことばを直接伝えに来たのである。動揺するなみ女を同居人の四方津ヨネ(牧野希世)は叱咤し、凪子に強い警戒と嫉妬を露わにする。俳句とそれに関わる人びとの濃厚な情念の物語である。

 はじめて足を運んだ根岸の子規庵は、JR鴬谷駅から徒歩7分程度、古い家々のなかにラブホテルの混じる不思議な町並みのなかにある。狭い玄関を入り、二間の座敷の左側が客席、右側が演技スペースだ。キャンセル待ちのお客さんの座席を演技スペースぎりぎりまでこしらえ、ぎっしり満員だ。
 俳句の聖地とも言える場所で、俳句にまつわる演劇を上演する。題材にぴったりの場所であると同時に、場所の持つ力があまりに強烈な場合、フィクションである芝居、演じる俳優がうまく溶け込めないこともあるわけで、観劇前に若干の懸念があったが、座敷に身を置くうち、自然に『余炎』の世界を見つめることができた。
 子規の命日9月19日の糸瓜忌を翌月に控えた子規庵での上演が叶ったことはもちろん大変な幸運だ。子規庵で俳句にまつわる演劇を見るという、めったにない体験ができたこともありがたい。しかしたとえば上野のギャラリーしあん、目白の古民家ゆうどなどもよいだろう。その一方で、このきっちりと構築された会話劇を音だけで聴いてみたくなった。つまりラジオドラマや朗読劇の可能性もあると思われるのである。

 なみ女を「お姉さま」と慕う凪子だが、師匠の温情を頑なに拒むなみ女に対し、なみ女の句に大変な酷評をはじめるあたりから劇の空気が変容する。ヨネは俳句を嗜まない立場からなみ女に同情し、凪子や蒼穹をはじめとする俳人たちへ、激しい嫌悪と怒りを示す。3人の女性たちの論争は、「俳句」を媒介とした愛憎劇であり、単なる尊敬や友情を越えた、いささか危ない同性愛的な感情のねじれまでも見せはじめる。

 それにしても、なみ女と凪子が互いの句を批評、批判することばの激しいこと、鋭いこと。句会でこんな言い方をされたら大半の人は恐れをなし、二度とやってこないだろう。だがここに俳句に人生を捧げた人ならではの強い精神、腹の据わり方が伝わる。言う方はただ罵倒するのではなく、もっといい言葉の選択、措辞にたどりつけるよう責任を持って導き、言われた方も納得できれば素直に受け入れる。俳句はひとりで作るのではない。多くの句友に出会い、句会に出席して成長していく様相をまざまざと見せつけられた。なみ女が句の情景、そのときの感情について凪子を導く場面は、単に句作の指導を越えた温かで優しい人間どうしの交わりが感じられる。
 だがその一方で師匠の蒼穹の痛いところを突く句を出したりなど、俳句は、いや女は怖い怖い。

 1日3回上演を2日間、いずれも満席で、キャンセル待ちの盛況だったとのこと。子規庵は演劇上演の場としては作り手、受け手にとって勝手の良くない面はたしかにあるだろうが、町並みを楽しみ、場の雰囲気を味わいながら、濃厚な会話劇を体験できる貴重な公演であった。今回が演劇ユニットCROQUISのvol.0公演だ。戯曲や上演会場の選択、芝居作りの過程を想像するに、柔軟な感覚で直感的に選ぶことと(ここがまさにクロッキーの手法)、それをじっくりと考察し、根気よく作りあげる両面を併せ持ったユニットではないだろうか。早くも次回が楽しみだ。

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風姿花伝プロデュースvol.3『いま、ここにある武器』

2016-08-14 | 舞台

*ジョー・ベンホール作 小川絵梨子翻訳 千葉哲也演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 28日まで 15分の休憩をはさんで2時間40分

(台詞や話の流れなどは記憶によるものですが、内容の詳細を記した箇所もあり、これからご覧になる方はご注意ください)

 手ごたえの確かな舞台の発信地として、公演を重ねるごとに信頼と期待を高めている風姿花伝プロデュースの第3弾(1,2)である。ジョン・ベンホールが2007年に発表した本作は、航空力学の研究者ネッド(千葉哲也)が、研究者としての好奇心と功名心、「民間人の誤爆を防げる」という企業の依頼を信じて、いわば平和のために無人飛飛行機、つまりドローンの開発を手がけたことに端を発する。兄のダン(中嶋しゅう)は歯科医で、小学校教師の妻ナンシー(登場しない)とのあいだに、まだ幼い子どもたちがおり、家のローンに追われながらも幸せに暮らしているようだ。妻と別居中の弟を案じながらも、おとこ兄弟のバカバカしくも愉快なやりとりが客席をなごませる。

 演出の千葉哲也は出演も兼ねる、とあっさり書いたが、本日プレヴュー公演を観劇して驚いた。ネッドを演じる千葉哲也は1場をのぞいて出ずっぱりなのである。ネッドに限らず、登場人物4人はみなう饒舌で、台詞の量は膨大だ。それまでいい感じで日常的な会話をしていたり、仕事ぶりを褒められて上機嫌だったりしていたところが、たったひとつの言葉からあっという間に激しい議論に展開し、平行線のまま物別れになったり、対等なビジネスの話をしていたはずが、権力による暴力的支配に変貌したりするのである。

 ほかの登場人物は、ネッドにドローンの開発を依頼した軍需企業の営業部長ロス(那須佐代子)、彼女の同僚ブルックス(斉藤直樹)である。同僚といっても、途中からドローンの開発から手を引こうとするネッドの説得のためにやってきた彼は、直接的な暴力を奮うことなく、しかしことばと態度でじわじわとネッドを追い詰めていく。これは心理学を学んで周到に訓練を受けた人のプロの技であり、とすると軍需産業と国家の癒着によって、一研究者の良心など、容易に叩きのめしてしまうだろう。時間の経過を敢えて明示しない作劇になっていたが、ブルックスの不気味な存在が物語の背景の闇を垣間見せている。

 終幕、心身深く傷つき、壊れかけているネッドが兄のダンとかわす会話は痛ましく、悲しい。ネッドは妻と別居中だが、ずっと結婚指輪をしている。修復への願いがあるのだろう。ダンの妻ナンシーは小学校教師であるという。想像するに熱血平和主義者であり、武器開発に携わるネッドを子どもたちに近づけたくはないだろう。ダンはそれをよくわかっているから、「子どもたちに会いたい」と懇願するネッドに対し、「風呂に入ってちゃんとしてから」という言い方で、彼の精神状態が落ち着くのを待とうとしている。「うちの子どもたちはみんなお前が大好きなんだ」というダンの台詞に、ネッドが子ども好きであり、子どもからも好かれる人物であることを嬉しく思いながらも、彼はこれからどうやって人間性を回復していくのか。安直な希望は抱けない。

 ネッドの問いかけに、ダンは答えない。答えられないのである。それは客席の自分も同様だ。ネッドに対して、どんな慰めや励ましが有効なのか。科学技術がどれほど進歩しようと、人は目の前のひとりをも救うことができない。

 多くの人が関わってひとつの舞台が作られる。それぞれが自分の持ち場でいい仕事をしているとは、こういう舞台のことを指すのだろう。『いま、ここにある武器』が、いま、この日本で上演されることの意義、観客に与える影響の強さと深さを考えた。悩ましくも幸せな一夜になった。

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芝居屋風雷坊 第十廻公演 『庚申待の夜に』 

2016-08-11 | 舞台

*吉水恭子脚本(1,2,3) 横森文(トツゲキ倶楽部)演出 公式サイトはこちら 第十回公演 『庚申待の夜』 
 6月のJacrow公演『くろはえや』は、地元に生きる人々と、都会から帰って来た人々、地元から出て行きたいと願っている人々の葛藤を、自然災害、ダム建設、また親の介護の問題にも絡めた吉水の意欲作であった。それからわずか2カ月後、早くも新作の公演である。今回は、「庚申待」(Wikipedia)という民間信仰の行事をモチーフに、足尾銅山の鉱毒事件(Wikipedia)に翻弄される地元の一族の一夜の物語である。演出の横森文は俳優としてのキャリアもあり、何の曲でもどんな歌い手でも、いつも優しい笑顔で軽やかに演奏していらしたアコーディオン奏者・横森良造さんのご長女であることを寡聞にしてはじめて知った。

 時は明治時代、足尾銅山の鉱毒被害で廃村寸前の栃木県谷中村が舞台である。田中正造亡きあとも、彼に心酔する宮内家の人々が庚申待のために集まる。本家と分家、子を生んだ嫁と生まない嫁等々、どこにでもある親戚同士の確執はあれど、この夜のために女子衆が用意した料理を前に、つつましいなかにも和やかな宴がはじまる。
 しかし人びとのやりとりの一つひとつ、微妙だが見逃せない表情の変化、意味ありげな目配せなど、宮内家は村と一族の過去と将来をめぐって、ただごとではない闇を抱えていることがわかる。今夜の庚申待を最後に一族は新天地を求めて別の土地へ行くものあり、谷中村に留まるものありと、さまざまだ。
 上演中ゆえ、具体的記述は避けるが(というか、問題が複雑すぎて覚えきれない)、本公演の当日リーフレットの表紙には他村から嫁いできた千鶴子役の若松絵里が飾っていることの意味や効果を考えると、軽くだが背筋が寒くなるのである。

 田中正造(Wikipedia)を中心に据え、足尾銅山鉱毒事件をモチーフにした作品には、宮本研の『明治の柩』という金字塔がある(2015年文学座公演の記事)ように、実在の人物や実際に起こった事件をドキュメンタリー風にしたり、書き手が想像を膨らませて、あるときは架空の人物を登場させたり、あり得たかもしれない出会いを設定した評伝劇にしたりなど、作劇にはいろいろな手法がある。今回の『庚申待の夜に』は、足尾銅山鉱毒事件にまつわる外伝物の趣か。吉水恭子は社会的問題劇を地元の宮内家の一族のなかに落とし込み、そこに庚申待や「魂呼ばい」(たまよばい)の風習や言い伝えを絡め、村に迷い込んだ謎の女や、噂に苦しんで自殺した娘など、この世とあの世のあわいの存在を舞台に登場させ、彼女たちが生きているものの心を揺さぶり、秘密を露呈させて結果的に一族の崩壊へと導くといった横溝正史ばり(もっとずばりのたとえがあると思うが)の愛憎劇に仕立てたのである。そこには劇作家としての手腕よりも、その時代、その土地に生きてきた人びとの体温を示したいという願いが感じられ、後味が良いとは言えない物語でありながら、ある種の爽やかさがたしかにあるのである。

 横森文演出の舞台を見るのははじめてであったが、戯曲に流れる時間と俳優の呼吸を丁寧に受けとめ、決して急かせない舞台作りをしたのではないかと想像する。人物の設定がある程度「役割」的になるのは至しかたないことであり、そうすると一部の人物の造形がいささか凡庸に陥ったり、もう少し抑制されても、ともどかしく感じる面はあったにせよ、戯曲に対して並々ならぬ度量をもって受けとめ、立ち上げる演出家として、横森文を知ったのは大いなる収穫であった。

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劇団きのこ牛乳オムニバス公演 きのこ+vol.3 『きしめじ科』

2016-08-11 | 舞台

 公式サイトはこちら 5人の劇作家の20~25分の短編を一挙上演する。演出はすべて奥村拓(オクムラ宅 1,2,3,4,5,6)が担う。 東中野RAFT 14日(日)まで 

1、うんこ太郎(劇団どろんこプロレス) 『プルーストの恋人』
 鼻炎のため嗅覚のない女子高校生愛華が、なぜか唯一香しいと感じる匂いを持つ転校生の樹里に恋する物語。本作の特徴は、男性の俳優がセーラー服を着て愛華(磯野幸一)と樹里(前田ちまき)の肉体部分を演じ、遠藤ちえが愛華、千草が樹理の台詞を発する。セーラー服の男性は口パクで、女性たちは彼らに張り付いているわけではなく、かといって演技スペースはそう広くないので、離れるというほどでもない。愛華役の磯野は、樹理に片思いしている設定もあっていささか過剰な熱演、対して樹理役の前田は淡々としている。この奇妙なアテレコ状態が、不安定で繊細な思春期の少女の心身を絶妙に表現している、というわけでもないが、見ているうちに自然に受けとめられるのが不思議な体験であった。

2、矢野智之(team3E) 『アウトラブ』
 翔(上田浩志)とちあき(高橋紗綾)は同棲中の恋人だが、ちあきが浮気をしているらしい。最初は「怒らないから」とソフトに接していた翔が、浮気相手がビートたけしと知って激昂しながら、一方で喜びに興奮する。だが翔自身も浮気をしており、その相手は何と!

3、バブルムラマツ(劇団鋼鉄村松 1) 『人造カノジョ~あるいは現代のプロメテウス』
 博士(磯野)のもとに取材に訪れた記者(前田)が、失敗作である人造カノジョのさくら(遠藤)を押しつけられる。人造とはいえ、感情部分もなかなか起伏に富んでおり、迷惑顔だった記者もやがてカノジョに惹かれていく?

4、石橋英明(やさしい) 『妄想姉妹』
 どこかの地方、綾子(千草)と恵(杏奈)姉妹が寝たきりの父親を介護している。父は酒乱で暴力を奮い、外にも女を作るなど、長年家族を苦しめてきた。姉の綾子にはおそらく性的虐待も。全編でもっともダークな作品だ。父親は最後まですがたを見せず、寝かされている部屋から鈴を鳴らして娘を呼ぶ。少々長かった。

5、屋代秀樹(日本のラジオ 1,2,3,4,5) 『柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君』
 ひと組の夫婦が、妻の故郷の山に登っている。故郷では、生まれた女の子は山に生息するあるきのこを食べるという風習があるという。妻の母親とその夫、祖母とその恋人など、過去の人物もつぎつぎに登場して、軽いやりとりにはじまった物語が次第に重層的になってゆく。座組みの俳優総出演。どういう話だったのか、どこがおもしろかったのかがことばにできない。そのもどかしさも含め、5編中もっとも楽しんだ作品。

 俳優は複数の作品に出演するため、集中力と瞬発力が求められる公演だ。しかし座組みぜんたいにいい感じの緩さがあり、リラックスして楽しむことができる。カーテンコールでは、客演の俳優がロビーにはけると、「きのこ牛乳」所属の俳優、千草、前田ちまき、上田浩志の3名が並び、改めて客席に挨拶をする。上田の挨拶がいささか長く、「これはブログにひと言」と老婆心が頭をもたげた瞬間、となりの前田ちまきが「本日はご来場まことに・・・」と上田の挨拶を無残に断ち切って終演となった。客席爆笑。これも演出だったのだろうか。

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