因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団文化座公演146 『反応工程』

2016-05-25 | 舞台

*宮本研作 米山実演出 公式サイトはこちら 文化座アトリエ 29日まで 文化座公演の過去記事はこちら→1,2,3,4,5,6
 劇作家・宮本研の「戦後三部作」(他二作は『日本人民共和国』、『ザ・パイロット』)のうちのひとつ『反応工程』が、俳優座と文化座で連続上演される。俳優座公演の観劇記事はこちら
 初日の今夜は満席御礼。のみならず29日までの全日程完売の大盛況である。最前列の座席で少々心配だったが、座席から舞台まで多少距離があること、舞台の床がわりあい低めに設置してあることから、見上げる姿勢にならずに済んだ。開幕前の場内には、アルヴォ・ペルトの『鏡の中の鏡』が静かに流れ、現実から慌ただしく劇場に駆け込んだ観客の心を整えてくれる。これほど短期間で同じ作品をべつの劇団で見るのは初めてで、文化座の初日はその期待にじゅうぶん応えてくれるものであった。

 決してわかりやすい作品ではなく、それはまず『反応工程』という題名ににもあらわれている。はじめて公演チラシを見たとき、お芝居のタイトルとはにわかに認識できなかったほどである。舞台が石炭を原料にした染料工場であり、戦争末期のいまは、原料にさまざまなものを加えて「反応」させる「工程」を担っていることから、まさに題名とおりの内容である。しかし俳優座から今回の文化座の観劇を経て、この一見何の装飾もない素っ気ない題名が示唆するものについて考えた。

 反応工程の現場には、さまざまな立場の人が出入りする。勉強なかばで駆り出された動員学徒・田宮、影山。大正時代からこの工場で働いている叩き上げのベテラン工員・荒尾。昇進して管理職になった猿渡、訓示が好きで、いかにも上に弱そうな係長の牟田もいる。さらに見習い工の矢部、まだ中学生の木戸、さらに工員の娘、学徒の妹、憲兵も登場する。人物の力関係を把握するうえで少しわかりにくかったのが、監督教官という職責の清原助教授と、社会主義に傾倒している勤労課員の太宰だが、1945年の8月5日にはじまり、翌年3月に終わる物語は、70年の歳月を超えて当時の人々の生々しい息づかいを伝えるものである。

 動員学徒の影山が召集令状に従わず、すがたをくらましたことで、反応工程の現場は緊張が高まり、悲劇的な結末になだれ込む。変わり身早く、即座に「デモクラシー」を説く助教授や、労働組合に精を出す係長を、田宮は冷ややかに見つめる。彼に社会主義思想を教えた太宰は憑き物が落ちたように晴れやかな表情になり、見習い工の矢部は戦争中よりもいっそう生き生きと仕事と組合活動に取り組んでいる。田宮は変われない。大学進学をやめて、郷里で百姓をしているという。生き残ったうしろめたさ、世の中が激変したことへの戸惑い、意地もあろう。彼がこれからどのような戦後を生きていくのかを観客にさまざまに想像させて、舞台は終わる。「反応工程」とは薬品の化学変化だけではなく、人の心、生き方が、時代によってどのように反応し、変容するのか、あるいはしないのかという工程をも指すのではないだろうか。

 舞台は虚構であり、一夜限りのものだ。しかし今夜の舞台は、『反応工程』の人びとが生きた(あるいは生きられなかった)時間のさきに、いま客席にいる自分の人生があることを確信させるものであった。もし観劇を迷っている方がいらしたらぜひにと言いたいが、前述のように全日完売なのでしたね。残念であると同時に、この作品がここまで観客を集めていることがとても嬉しく、幸せな初日であった。

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俳優座公演328『反応工程』

2016-05-25 | 舞台

*宮本研作 小笠原響演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋ホール 22日で終了 劇団公演の過去記事はこちら→1,2,3 25日からは劇団文化座でも同作品の上演がはじまる。
 1945年8月、敗戦が目前に迫った九州・大牟田の軍需指定工場が舞台だ。もともと三池炭鉱の石炭をもとに染料を作っていたが、いまでは石炭を化学変化させて、薬品や爆弾を製造する工程のひとつ、「反応工程」の現場になっている。学徒動員された若者たち、叩き上げのベテラン工員、その娘、監督教官や憲兵などが繰り広げる戦時下の青春の日々である。

 宮本研自身に学徒動員の体験があり、病気で郷里に帰されたがゆえに空襲を逃れたという。何人もの友人が命を落としたなかで、生き残ってしまったことへのうしろめたさはいかばかりかと想像する。創作のエネルギーとは、「これを多くの人に伝えたい、知ってほしい」というまっすぐな情熱はもちろんあるだろうが、ときには逆に「これだけは言いたくない」と封じている思いもあるはず。それを書き記すとは、どういうことか。

 ベテランから中堅、若手まで幅広い年齢の俳優が出演するが、実際に戦争を体験した者は、演出の小笠原響ふくめ、誰もいない。2014年1月18日付朝日新聞「第一次世界大戦の遠近法」い法⇔教大学教授の生井英考氏が次のように述べている。「兵士は身体経験を通した記憶を証言できる。半面それは微視的で、『なぜ戦争が起きたか』という巨視的な歴史の再構成には向かない」と。
 観劇した日は、演出の小笠原と出演俳優が登壇するアフタートークが行われた。客席に質問や感想を求められ、5歳で敗戦を迎えたという男性から次のような感想があった。(少々記憶があいまいだが)戦争に反対し、平和を願う詩の朗読をしておられるとのこと。そのグループには90歳を超える方もあるが、「戦争についての詩は、あまりに身近すぎて取り上げたくない」と言われるのだそうだ。実際に体験した方の生の声には、有無を言わさぬ迫力と現実味がある。体験していないこと、知らないことは、絶対的である。しかし、そこを一歩飛び越えて、あのときの若者、叩き上げの労働者、脱走兵、その家族の気持ちを懸命に想像し、みずからの声とからだで表現することに、きっと実りはあるはずだ。それを感じ取るためには、客席のこちらもしっかりしなければならないけれども。

 実を言うと、今回の上演における俳優の演技、人物の造形が戯曲に対して適切であるのか、よくわからないのである。それぞれ自分の持ち場を誠実につとめ、よい舞台を届けたいという熱意は伝わってくるが、演技の熱量が強いあまり、表現しきれないところもあるのではないか。紀伊國屋ホールは、観客にとって決して見やすい劇場ではなく、後方座席になると俳優の表情の微妙な変化など、じゅうぶんに味わえない点もある。またもう少し抑制の効いた台詞をじっくり聞きたかったと思う。

 劇団では演劇と社会をつなぐ新しい動きを起こすべく、「俳優座『反応工程』を成功させる会」を結成した。映画監督の山田洋次氏、SEALDsの奥田愛基氏はじめ多くの賛同者が一堂に会するキックオフイベントや、金子兜太氏の選定による「平和の俳句」の募集も行った。28日には委員会の解散式が行われる。これは公演終了のねぎらいだけではなく、『反応工程』に取り組んだ俳優座の意志を再確認し、協力者への感謝とさらなる活動に向けて志をあらたにする機会と思われる。
 小笠原響の寄稿に、いま座組みで「若」と呼ばれている文字通り若手の俳優たちが「若」でなくなっても、新しい「若」たちとともに演劇に取り組んでほしいとの願いが記されている。
 客席に身を置く立場からも同感だ。俳優座のレパートリーのひとつとして、毎回本式の上演は無理でもリーディングや、稽古場公演などを通して、宮本研作品の上演、俳優の訓練の場として継承されんことを。

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鵺的第10回公演 『悪魔を汚せ』

2016-05-20 | 舞台

*高木登作 寺十吾演出 公式サイトはこちら 下北沢・駅前劇場 24日で終了 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12
 「汚せ」は、「けがせ」と読む。すでにじゅうぶん汚れているはずの悪魔を汚せとはどういうことか、誰が誰に向かって命じているのか。2011年夏第3回公演『昆虫系【改訂版】』以来、高木登が演出に寺十吾を迎えて客席に問う衝撃作である。

 大手製薬会社を創立した美樹本一族が暮らす館の居間が舞台である。祖父は寝たきりで姿を見せず、長女夫婦と3人の子どもたち、長男夫婦、次女夫婦が暮らす。長女と次女の夫はいずれも入り婿で、長男とともに美樹本製薬に勤務している。事情があって三女は家を出ているらしい。幕開け、長女夫婦の息子が一族を紹介し、この家の様子を客席に語る。庭に猫の惨殺死体を見つけた次女の叫び声で物語がはじまる。

 一族の一人ひとりがどんな性格で、こんなことが起こって、このようなやりとりがあって・・・ということを書くのは非常に辛いと思われるので、もう大ざっぱに記してしまうと、一族じゅうが近親相姦と近親憎悪という相反する関係にがんじがらめになっており、猫が殺されたことをはじめ、祖父の死や三女が家を出たいきさつなど、すべてに憎しみと不信がどす黒く絡む。ほかに例を見ない家族のありさまが容赦なく描かれている。

 作者の高木登が自身の生い立ちをベースにした『荒野1/7』は、家族のなかでもっとも幼い者が負わされた苦悩と悲しみが静謐な美しささえ醸し出す稀有な舞台であり、『丘の上、ただひとつの家』は、近親相姦の暗部が曝けだされることで救われる人々の様相が描かれていた。そこに続く「高木登家庭劇」の決定打、三部作の完結編ともいうべき本作は、誰と誰が〇〇で、外から来たお嫁さんでさえ、れっきとした他人ではなく、曾祖父までたどると実は●●だったなどなど、この家から出たい、家族の縁を断ち切りたいという人々の願いをこれでもかと打ち砕き、是が非でも美樹本家のなかで生きることを運命づける血と骨の宿命、因果、ほとんど呪いに近い物語なのである。

 ここまでくるとブラックなエンターテイメントというか、劇中はときおり客席から笑いが漏れるところもあり、高木登と寺十吾のコンビがかっとばした場外ホームランの趣だ。どうしてここまで陰惨な話にするのか、救いはないのかなどと言うしおらしい気持ちにはならず、むしろ清々しいのはなぜだろう。
 登場人物の性質や演技の造形にしても、腰の低い入り婿1はいかにもそれらしく、もはや耐えられずDV男に豹変する入り婿2も、長男の妻は痛々しいまでに健気であり、長女夫婦の子3人の子どもたちのうち、物語の語り部の息子、悪魔のような末妹など、正直に言えばいずれも既視感のあるものである。これが連続ドラマになったらと想像した。放送前から終了後まで、ツイッターのタイムラインは異常に盛り上がるのではなかろうか。テレビなら若手女優の△▼と、□■がぴったりかも・・・とあれこれ考えて、いや、やはり『悪魔を汚せ』は、舞台でなければならないのだと思い直した。これほどまでにすさまじい愛憎劇を、観客もまた逃げ場をふさがれた劇場でともに闘いながら見ること。そこに本作の魅力があるのではなかろうか。

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劇団劇作家「劇読み!vol.6」より『花と爆弾』

2016-05-19 | 舞台

*大森匂子(わこ)作 森さゆ里(文学座)演出 公式サイトはこちら (1,2,3,4,5,6,7,8) スペース雑遊 11日で終了
 劇作家だけで構成されたカンパニーが、結成から10周年を迎えた。代表の篠原久美子は旗揚げ当初から、「合評は他者を尊敬して行い、程よい嫉妬を持ちつつ、仲間の成功のために尽くし合える集団でありたい」と内外に話していたとのこと(公演チラシ挨拶文より)。この「劇読み!」シリーズに足を運ぶたびに、演劇、戯曲、演出、俳優、そして観客とは何かという基本的なことを改めて考えることができる。大森の前回上演作品の『みすゞかる』は、ほんとうに清々しい佳品であった。今回は大逆事件で刑死した菅野スガ(西山水木)を軸に、その妹(藤田直美)や幸徳秋水(藤井びん)、荒畑寒村(小山貴志)、新村忠雄(上原和幸)などが登場する。タイトルの「花」は、スガがとても花が好きであったらしいこと、「爆弾」は天皇暗殺のために宮下太吉らが製造した爆弾を指す。

 舞台天井から椅子が吊り下げられている。ぜんぶで9つだ。俳優は演技エリア奥と、手前の通路から出入りをし、時おり椅子を床に降ろして腰かけたりしながら台本を読む。
 大森作品の特徴はト書きがまったくないことだ。上演台本には「1、明治四十二年 夏のおわり 平民社」とあり、すぐに岡田百代(内海詩野)の語りにはじまる。百代がやってきたのがどこか、その家の様子、あるいは百代の服装や表情、どんな娘なのかということは一切書かれていない。第1場だけでなく、最後までその形式なのである。リーディング本番ではそういったことがまったく気にならず、すぐに劇世界に引き込まれた。リーディングでここまでの見ごたえがあるのだから、本式の上演になったらどれほどの舞台になるのだろうか。

 しばしば「饒舌なト書き」に出会うことがある。場所の説明、そこにいる人物の様子、その人の事情や心象など、これらが本番では読まれないことがもったいないと嘆息するほど、たくさんの情報や劇作家の思いが詰め込まれている。それはそれで戯曲を読む楽しみではあるが、大森は基本的に「ト書きは読まれない」ことを念頭に台詞へ注力しているかのようである。台詞がすべてと言ってもよいくらい書き込んであり、言い換えると、通常の戯曲ならト書きで示されるところまでも、登場人物の台詞になっているということだろうか。にも関わらず説明台詞になっていない。
 しかし一方で、台本を持たずに、本式に動きながら俳優が発する場合、どのようになるのだろうかと疑問に思うところもある。たとえば、物語後半の幸徳秋水と百代のラブシーンでは、百代の台詞で「口をふさがれました」とある。動作としては、秋水役の俳優が、自分の台本を百代の顔の前に置くことでそれと示される。しかし実際の上演で、「口をふさがれました」という台詞を活かすには、百代と秋水は、どう動くのが適切なのだろうか。

 自分はもしかすると、さまざまなリーディング公演を見るうち、必要以上に「ト書きの扱い」が気になるようになってしまったのかもしれない。

 スガが闘ったのは、時の権力だけではない。まだ少女のころ自分を疎ましく思う継母の策略で自尊心もからだも傷つけられたこと、嫁ぎ先の姑の仕打ち、さらに同じ主義主張を持ちながら、女を軽んじる同志たち(幸徳秋水の行状には驚いた)に、自分の身ひとつで立ち向かっていったことが伝わる力強い舞台であった。
 ぜひ本作を本式の上演で見たい!との思いが高まったとき、折込のなかに大森匂子主宰の劇団「匂組」(わぐみ)の公演チラシを見つけた。伝説の喜劇女優清川虹子が主人公の『虹の刺青』という作品で、劇中にはあの唐十郎も登場するらしい。9月8日〜11日@アートスペースサンライズホール。匂組や、この作品で参加が決まっている池袋演劇祭のサイトにはまだ情報がアップされていないが、これはもう見ないわけにはゆくまい。

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劇団普通企画公演 『クノセカイ』

2016-05-14 | 舞台

*屋代秀樹(日本のラジオ)作 (1,2,3,4,5) 石黒麻衣(劇団普通)演出 公式サイトはこちら ギャラリーしあん 15日で終了
 先日『ゼロゼロゼロ』を観劇したばかりの屋代秀樹作品を見に行く。今回の『クノセカイ』は、「結構昔に頼まれて書き下ろしたのですが、なんだかんだで結局上演してもらえなかった戯曲」(劇団ブログより)とのことで、こちらで無料公開されている。戯曲は読みたし、けれど観劇の印象を先に書くことにいたします。

 イタリアンマフィアの話である。子どもの頃いつもいっしょだった男性3人と女性1人の合わせて4人組が、長じて男性のうちの1人は女性と結婚して子どもを成すが、実はその子どもは・・・といった男女関係のもつれに、マフィア同士の権力抗争や身内のだまし合い、裏切りなどが絡む。大河ドラマというほどではないけれども、親子二代に渡る愛憎が生む悲劇であるから、作りようによってはたいそうな手間がかかると想像する。「なんだかんだで結局上演してもらえなかった」理由はわからないが、今回劇団普通企画公演においては、演出の石黒麻衣によって非常に軽やかに気負いなく作られており、110分の上演をリラックスして楽しむことができた。

 ギャラリーしあんは一昨年秋、オクムラ宅公演『さくらんぼ畑 四幕の喜劇』で訪れて以来だが、JR御徒町駅から徒歩10分、駅前の喧騒から離れた静かな住宅街にあり、「和」の雰囲気をもつ空間である。そこに登場するのはイタリアンマフィア、つまりイタリア人なのだが、俳優たちは化粧もかつらも特別な作りはまったくしていない。考えてみると、日本人劇作家が外国を舞台に、外国人が登場する戯曲を書くというのは、非常に珍しいことではないだろうか。翻訳されていない外国戯曲、とでも言おうか。劇中、挨拶の部分に時おりイタリア語が使われているが、だからといって、ギャラリーしあんがまるでイタリアのように見えてくるなどということはまったくなく、作り手もそのような効果は狙っていない。
 物語の時間は20数年にわたるが、時系列に沿って展開せず、行ったり来たりする。ハロルド・ピンターの『背信』のようでもあり、いや、もっとわかりやすいけれども、場所もいくつか変わるので、話の流れや人間関係がときおりわからなくなるときもある。しかしいずれも本作を楽しむ妨げにはならない。

 今年の2月に観劇した三澤の企画『マリーベル』も、外国が舞台の外国人の物語であったが、そこにつまづくことはまったくなかった。外国戯曲を自分流に読み解き、舞台にする名手として、中野成樹+フランケンズが思い出されるが、屋代はシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』から『パイ・ソーセージ・ワイン』、複数のギリシャ悲劇を再構築した『蛇ヲ産ム』を書いている。ベースになる作品のあるなしに関わらず、演劇に対するこちらの固定概念、既成概念を気持ちよく壊し、演劇の可能性というものを気負わずさらりと見せてくれるのである。

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