因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

追加しました:2017年1月の観劇

2017-01-14 | お知らせ

 早や松過ぎとなり、すっかり更新を怠っておりましたが、みなさま、明けましておめでとうございます。本年も因幡屋通信/因幡屋ぶろぐをよろしくお願い申し上げます。すでに観劇した公演もありますが、今月の観劇予定(観劇したい!も含めて)公演をお知らせいたします。

劇団コヨーテ 亀井健一人芝居『身毒丸』
 身毒丸と言えば、蜷川幸雄演出、藤原竜也主演の舞台の印象があまりに強いのだが、開幕ペナントレースの村井雄の演出で、しかも一人芝居とは?!北海道から下北沢に殴り込みの気合。
鵺的トライアルvol.1『フォトジェニック』(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13
 公演チラシには、美しい女優が瑞々しい肢体をけだるげに横たわらせている写真が。公演は全日程完売の人気だ。
二兎社41『ザ・空気』(1,2,3,4,5,6,7
 永井愛作、演出の新作は、人気報道番組の現場が舞台とのこと。
MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバン製作
 朗読公演・増補版『唐十郎×シェイクスピア-シェイクスピア幻想-』
 昨年10月、明治大学文学部の唐十郎企画展の連動企画として開催された朗読会がバージョンアップして再演の運びとなった。初演の動画はこちらでご覧になれます。
小西耕一ひとり芝居 第七回公演『好きにならない自信がある』(1,,2,3,4
 しばらく足が遠のいていた小西耕一のひとり芝居。今回はほんとうに「ひとり芝居」なのかな?

 【観劇追加公演】
*東京バビロン 若手演出家支援プログラムより
 7度1)『あこがれ』
 テネシー・ウィリアムズの一幕劇集から、『しらみとり夫人』、『バイロン卿の恋文』を中心に構成するとのこと。会場である「シアターバビロンの流れのほとりにて」は、長らくその名称が気になっていた劇場であり、このたびはじめて足を運ぶ。

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2016年因幡屋演劇賞

2016-12-26 | お知らせ

 今年の因幡屋演劇賞を以下の通り発表いたします。深く豊かな時間をありがとうございました。リンクはそれぞれ観劇後のブログ記事です。

1、文学座4月アトリエの会 ヘンリック・イプセン作 原千代海翻訳 稲葉賀恵演出『野鴨』

2、劇団文化座 宮本研作 米山実演出 『反応工程』


3、studiosalt×マグカル劇場 椎名泉水作・演出 『7-2016ver.-僕らの7日目は毎日やってくる』

4、劇団フライングステージ 関根信一作・演出『Family,Familiar 家族、かぞく』

5、文学座有志による自主企画公演 久保田万太郎作 生田みゆき演出『霙ふる』
 

 昨年から「目を離せない、見逃せない」演劇人となった日本のラジオの屋代秀樹(1,2,3,4,5,6,7,8)、劇団肋骨蜜柑同好会のフジタタイセイ(1,2,3,4)の舞台を今年も大いに楽しんだ。
 ここ数年相次いだ歌舞伎俳優の旅立ちに、「向こうも自分も生きているうちに」と足を運ぶ歌舞伎公演では、今さらながら片岡仁左衛門の素晴らしさに加え、若手の頑張りが嬉しかった。とくに十二月大歌舞伎の「寺子屋」で松王丸を初役で演じた中村勘九郎は、絶対的な主従関係と親兄弟の情愛に引き裂かれそうになる松王丸を、観客により近しい存在として見せてくれたのではないか。頸を刎ねられるときのわが子の様子を聞き、加えて弟の無念の死への悲しみに堪らず号泣する。この狂言を見て「もらい泣き」という感情が生まれたのはこれが初めてのことだ。これほど痛ましく、温かで心優しい松王丸に出会えるとは。歌舞伎観劇の記事は書かないことも多いので、この場で短く感想まで。

 慌ただしく過ぎた2016年、多くの舞台に出会えて幸せでした。因幡屋ぶろぐにお立ちよりくださった皆さま、ありがとうございました。
 来年も楽しんでいただけるよう、一生懸命舞台を見て、考えて書き続けます。どうかよろしくお願いいたします。

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「紛争地域から生まれた演劇8」より『ジハード』リーディング公演+トーク

2016-12-17 | 舞台

*イスマエル・サイディ作 田ノ口誠悟翻訳 瀬戸山美咲(ミナモザ(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22 ,2324)演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場アトリエウエスト 18日終了

 モロッコ移民2世でベルギーに暮らす劇作家・イスマエル・サイディの本作は、さまざまな困難を乗り越えて2014年12月に初演、翌年11月のパリ同時多発テロ、今年3月のブリュッセル連続テロ事件を経て上演が続き、今では観客数が5万人を超えるとのこと。作りたい、伝えたい、訴えたいという作り手の熱が客席に伝わり、見る者の心にも火をつけたのであろう、終演後は活発な議論が繰り広げられたという。行政からも上演を後押しする動きがあったというから驚きだ。 

「リーディング公演」と銘打ってある通り、俳優は台本を手に持ち、上手にはト書きを読む中田顕史郎が座る。正面壁には、かの地であろう空や空港、廃墟となった教会などの写真が場面ごとに映し出される。最初に日下部そうが、この作品がどのようなプロセスで作られ、初演の運びになったかなどが語られる。劇作家イスマエル・サイディ自身と捉えてよいだろう・・・実はこの導入部で、自分は軽くつまづいた。本編はまだかなというもどかしさである。

 次に日下部そうは、劇作家と同じ名の若者イスマエルとなり、同じくブリュッセルに住む移民二世のベン(本折最強さとし)、レダ(盛隆二)とともに「ジハード」(聖戦)のためにシリアへ赴く。そこで彼らが体験したこと、なぜ生まれ育った国を捨てて兵士になったか、彼らにどんな未来があるのかが容赦なく描かれる。

 椅子に座ったままの場面はごく少なく、後半では板で作った銃を使った戦闘場面もあり、リーディングというよりもセミ・リーディング、いや、本式の上演の形に近いところも多々あると言えよう。生き残ったイスマエルは帰国して社会復帰を願うも、シリアでの体験、収監されたことを理由に行政から職探しを放棄され、手りゅう弾を振りかざす。そこへ戦場で亡くなったベンとレダが代わる代わる彼を説得する。果たして彼は踏みとどまったのか。彼の「助けてくれ」の叫びで、舞台は暗転する。

 舞台はもう一度明転、日下部は冒頭と同じく劇作家として、初演後にどのような反響があり、さまざまな場で観客とともに熱い議論を繰り広げたことを語る。ここで導入部と同じくつまづきの感覚を持った。劇作家によるモノローグが前後にあってひとつの作品であるということなのだが、「説明を受けている」印象があった。

 台本を持っていることがもはや不自然に見える場面もあり、ここまで動くのであれば、もう少し稽古期間をとって本式の上演に近い形にするか、敢えてリーディング形式に留まり、その上でエモーショナルな表現を示すにはどうすればよいかを模索するか。

 とあれこれ欲が出てくるのは、それだけこの作品が魅力的であり、見る者の心を突き動かす証であろう。自分はもう一度『ジハード』を見たい、戯曲も読みたい。舞台作りに関わった方々の話を聞き、舞台を見たさまざまな国、年齢、立場の人たちの話を聞き、そして自分ももっと考えて自分の言葉を探したいと思う。

 胸が締めつけられるような痛ましい物語である。しかしこれほどたくさんの「もっと」と「もう少し」を与えられた。大いなる収穫である。遠いベルギーから、紛争の続くシリアから、客席にいる自分へのクリスマスプレゼントだ。

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文学座有志による自主企画公演『霙ふる』

2016-12-11 | 舞台

*久保田万太郎作 生田みゆき演出 公式サイトはこちら 文学座新モリヤビル1階稽古場 14日まで

 久保田万太郎の2本立て公演が行われているアトリエ手前の稽古場で、昨年の夏急逝した加藤武が演出を熱望していたという作品が若手の生田みゆきの演出で上演されるというのは、まさに文学座ならではの企画であろう。
 公演チラシによれば、本作は久保田万太郎が敗戦後直ちに執筆した作品とのこと。劇団の一員となるはずだった俳優の友田恭助が昭和12年に戦死したこと、その妻である女優の田村秋子が、夫が亡くなった中国の地を訪ねるピアニストの女性という設定で書かれている。

 劇場入ってすぐ手前にアップライトピアノが置かれ、その前の椅子にピアニストと思しき女性が座している。開演するまで動かない。劇場の四隅(あるいは2本だったか)に黒い杭があるほかは何もなく、がらんとしている(乗峯雅寛美術)。開演が告げられると俳優が次々に登場し、持ち場につく。久保田万太郎作品と言えば、よくよく作り込んだ舞台美術というイメージがあり、意外な開幕に戸惑った。いったいこれから何が始まるのか。

 あと数日で昭和19年を迎えんとする中国で、夫が戦死した土地を訪ねてやってきたピアニストと新聞記者、あれは一種の商社マンというのだろうか、彼らの乗った車がエンストし、日本兵が駐屯している小さな部隊に助けを求めてやってくる。日本兵たちは丸刈りにしている俳優もいるが、長髪や髭などもごく現代風で、軍服を着ているわけでもなく、軍隊というより探検隊といった伸びやかな風情である。ピアニストの女性はさすがに地味なコートであるが、ぜんたいに時代をあまりリアルに感じさせないつくりである。おもては霙。

 劇中椅子やアルミのコップ、銃やお盆のようなものなど、多少の小道具は出てくるが、所作だけで示される部分が多い。究極は終盤において、兵士たちと中国人の小さな男の子がいっしょに歌を歌う場面である。舞台上手の椅子に小さな雪だるまが置かれ、それを男の子に見立てているのである。そこだけ少し柔らかな光があたり、兵士たちはしゃがんで男の子と視線を合わせ、その子が日本語で「としのはじめの」を歌うのを聞き、やがて一緒に歌う。霙は雪に変わった。
 男の子の歌に合わせ、はじめはメロディだけだったピアノが、やがて美しい旋律に不協和音の混じる複雑な曲を奏でて幕を閉じる。暗譜で演奏したピアニスト役の永宝千晶、お見事であった。

 そこには物資のひっ迫も怪我人や死者もない。のどかと言ってよいほどである。しかし東京からの突然の来客を迎え、餅を焼いてもてなしたつかの間の華やぎと、新聞記者がかつて軍人であり、彼の部下であったという兵士が行き違いで会えなかったことを残念がりながらも、また会える楽しみができたと喜びをつなぐ様子など、あと数日で昭和19年が始まること、敗戦へとなだれ込むことへの予感がいつのまにか劇空間に迫っているのである。

 ふと、「としのはじめの」を歌う男の子も、優しい兵士たちも、もしかしたら既にこの世の人ではないのではないかという気がした。久保田万太郎作品にそんな幻想的な闇を感じたのは初めてで、それが作品の本意であるかどうかは賛否が分かれるであろうが、少なくとも自分にとっては新鮮な発見であり、確かな手ごたえであった。

 若手による新しい切り口の斬新な演出という面は確かにある。ピアニストが板付という設定には若干の気負いも感じた。しかし「見せ方」や「絵面」を強調したものではない。戯曲のなかに慎重に足を踏み入れ、決して浮足立つことなく、丁寧に読み解き、構築されたものと想像する。出会えたことが嬉しい1本であった。

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*アップスアカデミー卒業公演『The Wayside Motor Inn』

2016-12-10 | テレビドラマ

*A.R.Gurney作 小林悦子翻訳 田辺日太演出 公式サイトはこちら 中野/ザ・ポケット 11日で終了  
 アップスアカデミーは、映画『ラスト・サムライ』、『バベル』、『終戦のエンペラー』などのハリウッド作品への日本人キャスティングディレクター、プロデューサーとして活躍する奈良橋陽子を中心に、俳優のレベルアップと海外における活動の紹介を継続している「ユナイテッド・パフォーマンス・スタジオ」(UPS)が主宰する「アクティングスクール」である。「世界で活躍する俳優が必ず実践しているメソッド演技訓練法を元に、心技体において優れたパフォーマンスを常に発揮できる俳優を育成しています」(公演チラシ掲載のプロフィール)とのことで、今回はその18期生による卒業公演である。
 ソーントン・ワイルダーの『わが町』の翻案、『わが町-舞浜・角谷町・駅前通り-』と、『The Wayside Motor Inn』が交互上演される。後者を観劇した。

 1970年代後半、ボストン郊外のホテルのひと部屋が舞台である。あやしげなビジネスをしている男、年輩の夫婦、ハーバード大学の面接を控えた息子を連れた父親、若いカップル、十数年連れ添ったが離婚の危機に瀕している夫婦など数組が訪れる。部屋のセットはひとつしかない。たまたまその日の午後、複数の宿泊客がそれぞれの部屋で繰り広げる物語を、一杯道具のなかで見せる趣向である。人々は頻繁に出入りするが、ときには複数の家族が同時に舞台空間に居る場面もある。
 一見何の関わりも持たない人々が、偶然同じ場所にやってきた。ささいなきっかけで、人々のあいだに少しずつつながりが生まれ、最後はまとまりのある物語を形成する・・・という流れを想像したのだが、話はそう単純ではなかった。
 この手の物語を見る楽しみは、バラバラのピースがくっついたり離れたり、意外なところではまったり、というプロセスにある。最後のピースがぴたり当てはまったときの達成感が嬉しいのだ。
 しかし本作はじれったいほど個々の家族、夫婦、親子に話が集中し、つながる気配を見せない。終盤、息子のシャツを破ってしまった父が、年輩の夫婦の部屋を訪れてソーイングセットを借りる場面がある。それを返しにいくところで何らかの出来事が・・・と期待したが、それもなかった。人々はそれぞれのままである。そこがかえって新鮮であり、本作の魅力であると思われる。

 葛藤や衝突ののち、父と息子は和解に導かれた。若いカップルはどうにか幸せにやっていけそうである。ビジネスマンと元反戦運動の闘士であったホテル従業員の関係はあまり読めない。その一方で、十数年連れ添い、子どもを5人も成しながら離婚に至る夫婦もある。ふたりは家族のアルバムを持ち込み、お互いに欲しい写真を選ぶ。最初は敵意むき出しに「奪い取る」勢いだったのが、だんだんとしんみりしてくるあたり、「もしかしたら」と淡い期待も見せる。これで「もう一度やり直そう」と決意すれば話としてはめでたいが、いささかあざとく、演劇的旨みは薄まる。どこにおもしろさを作るか。人間の心の移ろい、お互いの関係の変容をどう描けば「演劇」として生きるか。

 舞台美術や照明にあと少しの手間と工夫があれば、時間や空間の見せ方に奥行きが出たのではないかと思われる。卒業生には思ったより年齢の幅があるようだが、それでも年輩の役を演じる場合、白髪や顔に描かれた皺が痛々しく見えるときもあった。 たとえばNHK朝の連続テレビ小説『マッサン』のヒロイン・エリーを演じたシャーロット・ケイト・フォックスは、外からメイクとして施した皺やしみではなく、顔つきで老境を自然に見せていた。対して夫役の玉山鉄二は白髪も動作も外から付加したものが強調され、無理があった。どこに違いがあるのか、どうすればよのか。

 ふと、本作はまだ完成していないのでは?と考えた。結論を出さない。といってありがちな「観客の想像に委ねる」わけでもない。淡々と提示する。すんなりと理解できないところ、ぎくしゃくした部分を敢えてそのまま見せる。もどかしさは残るが、予定調和よりは手ごたえがある。あまり見ることのないタイプの戯曲であり、舞台に立体化される様相を体験できたのは幸運であった。

 何をすれば必ず俳優に、それも優れた俳優になれるかという確実な道筋はどこにもない。数十年の歴史を持つ老舗劇団の養成所に入れたとしても、そこで準劇団員から正劇団員に順調に昇格できるかはわからず、査定に落ちれば劇団からは出てゆかねばならない。無事に正劇団員になれたとしても、じゅうぶんに役を得られるかはまったくわからず、プロの俳優として生きていけるか、生活していけるかどうかの保障は全くないということだ。
 確実な手段がないからこそ、各劇団は毎年研究生の募集を行い、アップスアカデミーのような養成所、俳優が個人で開く教室の類はあまたあるのだろう。試行錯誤して、自分に最も合う場所を探し当てて研鑽を積み、仕事として俳優を続けていけるかどうか、とにかく行動を起こすしかない。改めて先行きのわからない厳しい道である。願わくば、この日出会った俳優の方々には、そう遠くない将来、ぜひ新しい場所で再会できることを願っている。

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