因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

7度『ビジテリアン大祭』

2017-05-18 | 舞台

*宮沢賢治原作 伊藤全記構成・演出・美術 東京バビロン演劇祭2017参加作品  シアターバビロン流れのほとりにて 21日まで(1,2,3
 生誕100年を過ぎてなお、多くのファンというより、信奉者から作品にもその人自身に対しても揺るぎない信頼と尊敬と愛情を注がれている宮沢賢治。彼の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という思想は、限りなく優しく温かで、自己を犠牲にしても他者の幸福を願う姿勢のあらわれであろう。『銀河鉄道の夜』をはじめ、賢治の作品はわたしたちを魅了してやまない。

 しかしながらそのような作品群のなかに、時おり調子の異なるものも存在する。2007年の冬、「横濱リーディングコレクション」において、studio salt公演『飢餓陣営』(椎名泉水演出)を見たとき、「ずいぶん人を食ったような話だ」という印象を持った。
 今回の『ビジテリアン大祭』(青空文庫で読める)は、ビジテリアンすなわちベジタリアン(菜食主義者)たちが集う大イベント(大祭)である。彼らは肉食主義者という異教徒たちを「改宗」させようと大激論を交わす。その甲斐あって、その場にいた人々がすべてビジテリアンに改宗するも、実はお祭りを盛り上げるための茶番であったことが明かされるという顛末だ。『飢餓陣営』以上に、まさに人を食った話なのだが、7度の伊藤全記による舞台はまことに不思議な空気で劇場を満たすものであった。

「シアターバビロン流れのほとり」の全体のイメージは黒であり、劇場入口の受付からすぐに場内に行く印象であったが、今回はどこをどのように変えたのかはわからないのだが、受付を済ませて床に描かれた矢印に従ってぐるぐると歩いてようよう場内にたどり着いた。演技スペースには椅子が数脚、その前に横長の台が置かれ、全体が白に作られている。モーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」が、あれはリコーダーだろうか、軽快にアレンジされた曲が流れ、何やら楽し気な雰囲気である。

 登場するのは女優ばかり4人、丁々発止、ところどころに休憩風の場面も折り込みながら、激論の末に異教徒が次々にビジテリアンに改宗し、しかしすべてが異教徒のふりをしたビジテリアンたりによる狂言、大祭を盛り上げるための余興であったことが明かされる75分の議論劇である。3人が濃いめの舞台メイクをし、センスがいいとは言えないが目立つ服装をしているのに対し、主人公を演じる女優はほとんどノーメイクに近く、服装も地味で、すべてのからくりを知った失望と虚無感を一身に背負う。

 伊藤全記は本作を「集団から個が生まれる瞬間が大胆に描かれた作品」「集団への幻想がこわれる物語」と捉える(当日リーフレット掲載)。ひとり取り残され、立ちすくむ主人公の目からは涙がこぼれ落ち、見守るこちらの心も寒々とする。集団への幻想を無残に壊され、孤立し、生きる方向性を失った人のすがたに戦慄を覚えるのは、いまこの国を覆わんとしている不穏な空気のなかで、みずからの足で立ち、自分の言葉で主張したとき、この主人公のようになる可能性があり得るという恐怖であろう。

 打ちのめされた主人公の痛ましい立ち姿に暗澹たる気分に陥りながらも、終演後は意外にも爽快で、説明のし難い力が湧いてきた。これは重苦しい芯の部分をきっちりと押さえた上で、前述のような白を基調とした明るい舞台美術や軽快な音楽に加え、この『ビジテリアン大祭』を舞台化するという大胆かつ挑戦的な作り手の意志が感じられるためであろう。

 決して読みやすい小説ではない。物語の世界に入り込んでしまうとほとんど戯画風になってしまい、そうすまいと意識すると字面を追うばかりとなる。台詞はたくさんあるのに、発する人の顔が見えず、声が聞こえてこない。まことに厄介な作品なのだ。

 中盤と終幕間近に映像を用いられており、これについては作り手の意図がやや直截に表れた印象で、惜しいと思う。たしかに強烈なイメージを与え、観客の理解を促す効果はあるが、これがなくとも想像することは可能である。

 7度と伊藤全記が、この作品をリーディングではなく、本式の上演に取り組んだことを非常に喜ばしく思う。短編とはいえ台詞の数は多く、しかも演じる人物に感情を入れにくい。4人の女優は大変な苦労があったのではないか。リーディングなら、却って大胆に演出を加えることができるし、何より俳優の負担も軽減される。楽をせず、敢えて労苦の多い方を選ぶ。ここに作り手の演劇に対する信念が潜んでいるのではないか。

「今度は何を見せられるのか」という若干引き気味だった姿勢がいつのまにか、「この次は何を見せてもらおうか」と前のめりに変容しており、苦笑しつつ喜んでいる。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

文学座5月アトリエの会 文学座創立80周年記念『青べか物語』

2017-05-12 | 舞台

*山本周五郎原作 戌井昭人脚色 所奏演出 公式サイトはこちら 文学座アトリエ 26日まで
 戌井の舞台を見たのは、彼の本拠地である鉄割アルバトロスケット『高みからボラをのぞいている』(2006年8月)と、あうるすぽっとプロデュースの『季節のない街』(2012年10月)であろうか。後者は戌井が山本周五郎の原作の脚色と演出を担い、所が演出助手をつとめている。これまでのさまざまなことがつながって、今回の『青べか物語』に結実したのであろう。

 戌井昭人の祖父は文学座創立メンバーであり、演出家でもある戌井市郎だ。孫の昭人自身も文学座附属演劇研究所の35期生として研修科に1年通い、退所した。文学座通信693号に掲載の「文学座とわたし」には、かつて祖父が心血を注いで演劇活動を行った場であり、自分も学び、考えるところあって退所したいきさつのある文学座で台本を書けることを、祖父もきっと喜ぶであろうし、「一番喜んでいるのは、実はまだ生きている、わたしなのです」と記されている。
 今夜の初日の舞台は、その戌井の素直な喜びが気持ちよく伝わってくるものであった。何せ創立80周年を迎えた日本演劇界屈指の大劇団である。祖父への畏敬の念もあろう。祖父と長年ともに仕事をしてきた大ベテランの俳優やスタッフもいる。また原作者の山本周五郎作品には長年の熱い読者が多く存在する。大変なプレッシャーもあったはず。戌井には大胆で伸び伸びと自由な舞台を作る、開放的な演劇人のイメージがあるが、原作に対する謙虚な姿勢や先輩方への畏怖があり、複雑で微妙、繊細な色合いを感じさせるところもある。しかし最終的には「これで悪いか!」という堂々たる書きっぷりが好ましい。演出の所との息も合っているのであろう。

『青べか物語』は、うらぶれた漁師町・浦粕(うらかす。浦安のこと)を訪れた作家の「私」がしばらく暮らした町と人々の暮らし、そこで起こった出来事が短い章で書き連ねられた小説である。ノンフィクションの性質もあり、老若男女、あくの強い人々がこれでもかと登場する群像劇でもあり、それをひとつの舞台にまとめあげるのは大変なことだ。『赤ひげ診療譚』のようにどっしりした人物が軸になるヒューマンな内容ならまだしも、作品の核、芯をどこにどう捉えるか。うっかりすると冗長で、とりとめのない舞台になる危険がある。

 細長い演技スペースを、客席が左右から挟む形になり、俳優は主人公であり、語り部でもある「私」役の上川路啓志含め、10名全員が複数の役を演じ分け、演じ継ぐ。「このダンスシーンをカットすれば、もっとエピソードが盛り込めるのでは?」と感じるところもあったが、最終的に1時間50分休憩なしの1本の舞台として成立したのは驚くべきことだ。

 小説の舞台化ということを、改めて考えてみた。小説の内容をすべて舞台にすることは困難であるし、そうすることが「舞台化」ではないから、逐一原作と比較して、ここは同じ、あそこは違うと「照合」していてはつまらない。戌井の脚色には突き抜けたところがあって、冒頭の人物の登場の動きや、最後に小説の世界と今現在がぶつかり合い、劇世界を混沌に陥れるところなどに、それが現れている。主人公が子どもたちから魚を買わされるエピソードは、原作では非常に深く、複雑な内容と表現を持つものである。舞台はシンプルにさっぱりと仕上がっており、それを物足りないと感じなかったのは、前述の戌井の「突き抜け感」と、小学三年生の長を演じた鈴木亜希子の造形のためであろう。鈴木は昨年の久保田万太郎作品『かどで』では、乳呑み児を抱えて北海道へ旅立つ、苦労の塊のような「忍ぶ女」役の印象が強い。そこから想像もできない今回の弾けっぷり。後半の巡査役も、相当に作り込んだ演技なのだが、あざとさやわざとらしさの一寸手前で踏みとどまっているところに「良心」が感じられて出色である。

 欲を言えば、いささか大仰な造形の人物が幾人かあり、もう少し抑制しても大丈夫ではないか。そして、もし希望を抱くことが許されるなら、まことに不勉強だが山本周五郎作品好きとして、また今夜の舞台で鈴木亜希子に魅了された者として、戌井昭人と所奏なら、原作の「繁あね」の章(繁役はもちろん鈴木さんで)をどう舞台にするのかを知りたい。自分の気になる箇所が舞台化されていないことを物足りない、残念だという不満ではなく、希望として抱ける舞台に出会えたことは、観客としてやはり大きなる幸福なのである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

新国立劇場「かさなる視点ー日本戯曲の力ーV0l.3」より『マリアのー幻に長崎を想う曲ー』

2017-05-10 | 舞台

*田中千禾夫作 小川絵梨子演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 28日まで
 田中千禾夫作品は、2012年の春、文学座3,4月アトリエの会で上演された『おふくろ』を見ただけか。本作は昭和34年(1959年)、新人会第11回公演・創立5周年記念公演その5として、田中千禾夫・島田安行の演出で初演、第6回岸田國士戯曲賞を受賞した。その後も俳優座、地人会で再演され、近年では、俳優座劇場プロデュースで鐘下辰男の演出による上演もある。自分は遥か昔、岩崎加根子が出演していた舞台がテレビ放送されたのを少しだけ見たのみ、舞台観劇は今回がはじめてである。

 舞台中央に廃屋らしき装置があり、登場人物とスタッフの手で小道具が持ち込まれ、舞台美術が整えられてゆく。劇場スタッフではなく、出演俳優が舞台上から上演中の諸注意などのアナウンスを行い、開演となる。廃屋は娼婦たちが客を引き込む部屋であり、反転すると病院になる。路上の場面は下手のスペースで行われ、作り込んだ舞台美術であるが、空間を自在に変容させる試みもなされており、意欲が感じられる。

 昭和33年(1958年)の長崎市。煉瓦の壁だけになった浦上天主堂の保存について、市の議会が紛糾している。昼は看護婦、夜は娼婦になる鹿(鈴木杏)、原爆症の夫と乳呑み児を抱える忍(伊勢佳世)、ひたすら献身的な看護婦静(峯村リエ)、彼女たちを取り巻く男たちの誰もが戦争による傷が癒されないまま、懸命に生きるしかない。天主堂の前に崩れ落ちたマリア像の残骸は、国家間の戦争という有無を言わせぬ暴力によって理不尽に傷つけられた人々の心とからだの象徴である。

 俳優はいずれも誠実で懸命な演技であり、それを見つめる客席には、「この時を待っていた」という、『マリアの首』に対して決してノスタルジアだけではない、焦がれるような空気があった。カーテンコールもダブルコールになり、舞台の俳優もよい手ごたえを得たのではないだろうか。
 が、全編長崎弁の台詞であること、人々の心の乱れや、それに伴う激しい台詞の応酬に、自分の心身を「乗せる」ことができなかったのはまことに残念であった。これは自分のほうに理由があり、今回の舞台が心に響く力作であることは確か。できれば再見したいものだが。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

劇団チョコレートケーキ第28回公演 『60`S エレジー』

2017-05-08 | 舞台

*古川健作 日澤雄介演出 公式サイトはこちら サンモールスタジオ 21日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9)このところ大きな劇場での公演が続いていた劇団チョコレートケーキが、久しぶりに小劇場で公演を行う。5月3日から21日までのロングランである。今夜も通路に補助席を出す満員の盛況。心なしか年配の観客が多いようにも見える。

 物語冒頭で大変重要な事柄が明かされるのだが、さてこれを記すべきか…。

 主な物語は昭和35年、東京の下町。祖父の代から続く蚊帳工場を小林清(西尾友樹)、悦子(佐藤みゆき)夫婦が切り盛りし、清の弟の勉(岡本篤)、ベテラン職人の武雄(林竜三)が働いている。そこへ福島から「金の卵」・15歳の修三(足立英)がやってきた。まじめな仕事ぶりや素直な性格が好ましく、貧しい農家の三男坊で、弟妹のために進学できない事情を知った小林夫婦は、修三を夜間高校へ行かせたいと奮起する。やがて人々の生活様式が変容し、蚊帳の需要がどんどん下がりはじめる。人員整理を余儀なくされるなかで、修三は大学まで進み、大学紛争の渦に巻き込まれていく。

 折しもいま放送中のNHK朝の連続テレビ小説『ひよっこ』の舞台は昭和40年。集団就職で上京した少女たちの青春模様を日々視聴していると、当時の人々の暮らしぶりや世の中の状況など、今夜の舞台にもあまり違和感を持たずに受け止めることができた。

 小林蚊帳店の夫婦というのが、これ以上ないというくらい優しく温かいのである。社長の清は直情型で乱暴なところもあるが、自分よりも相手の気持ちを慮り、そのために苦しむことになる。お人好しなどと言っては申しわけないほど善き人である。妻の悦子は空襲で片足が悪いが、工場の仕事も家事もてきぱきとこなし、太陽のように明るい。修三を家族同様に大切にし、進学の手助けをするなど、誰にでもできることではない。

 題名が示す通り、豊かさを求めてひたすら邁進したことで失われていったものへの哀惜が濃厚に醸し出される舞台で、非常にベタであり、既視感があることは否めない。しかし夫婦を演じる西尾友樹と佐藤みゆきが、惚れぼれするような造形で、客席を虜にする。山田洋二監督なら、清に永瀬正敏、悦子に黒木華あたりを配役するのだろうかと想像するが、いや、西尾と佐藤の夫婦がだんぜん良い。

 あれこれ言うのが野暮になるのを承知で敢えて言えば、修三が冒頭で示された状況になることが今一つ説得力を欠くと思われる。また老いた修三の声役が高橋長英というベテランだが、語り口やバックに流れる音楽がいささか情緒過多の印象がある。何より、ノスタルジーを超えて描きたかったのは何かを、もっと知りたいのである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

創立30周年記念第1弾 新宿梁山泊第59回公演『風のほこり』『紙芝居 アメ横のドロップ売り』

2017-04-29 | 舞台

*唐十郎作 金守珍演出 公式サイトはこちら 芝居砦満点星 5月7日まで(1,2
  創立30周年第1弾として、2006年に唐十郎が書き下ろした「われわれにとっては宝物のような作品」(開演前の金守珍の挨拶)である『風のほこり』と『紙芝居』が連続上演された。梁山泊の本拠地、というより「根城」と言った方がふさわしい芝居砦満点星は大入り満員の盛況である。いずれも唐十郎が実母をモデルに、梁山泊の看板女優である渡会久美子に当てて書き下ろした。
『紙芝居』は敗戦後の下谷を舞台に、紙芝居屋を手伝う女・艶(わたらい)と復員兵・牧村(広島光)の出会い、「おおかみ王女」物語のなかで、無くなった1枚の絵と土地の買収や利権争いが絡む1時間の物語だ。
『風のほこり』は昭和5年、浅草の芝居小屋の奈落の文芸部屋で台本書きに難儀している水守(広島)と、作家を夢見て脚本の持ち込みをしている義眼を持つ女・加代(渡会)を軸に、舞台上と劇場外の世界が交錯する2時間の物語である。

 劇団員はもちろんのこと、『紙芝居』の百池先生役に黒テントの根本和史、『風のほこり』の義眼の細工師湖斑(こむら)役に東京ヴォードヴィルショーの石井愃一など、迫力と貫禄を備えた客演陣が舞台を支え、牽引する。

 『紙芝居』→『風のほこり』の順に観劇したが、前者は劇のリズムにうまく乗れず、これは故意なのかアクシデントなのか、俳優が小道具を扱うのにやや手間取っているように見えたり、舞台に誰もいない時間が(ほんの少しの時間なのだが)長く感じられ、それまでの熱が失われたりなど、集中を欠く観劇となった。一方で『風のほこり』は惜しげもなく大量の水を使う演出や、石井愃一の濃厚な演技が相まって、舞台空間や物語の運びにもにメリハリが生まれ、客席の空気も熱く盛り上がった。

 カーテンコールで劇団の主宰である金守珍から、今後の梁山泊のラインナップが発表された。大鶴義丹を迎えた『腰巻おぼろ 妖鯨編』、さらに大鶴美仁音を迎えた『少女都市からの呼び声』(であったと記憶する)が上演予定とのこと。挨拶のなかで金は「継承」という言葉を使った。状況劇場で培ったアングラ演劇の思想と方式を継承し、発展させたいという強い意志の表れである。
 伝統芸能でも新劇でもない、アングラ演劇の継承と発展。ここ数年でようやく唐組の舞台に足を運び始めた自分にはなかなか実感を抱きにくく、実は若干の違和感もあるのだが、これだけ情熱にあふれた舞台を見ると、客席に身を置く者とても「うかうかしていられないのでは?」という危機感と、「これからどんな舞台を体験できるのだろう」という夢と期待に、早くも胸が高鳴るのであった。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加