因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

板橋ビューネ2016 サイマル演劇団『別の場所』

2016-09-24 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄翻訳 赤井康弘構成・演出 公式サイトはこちら サブテレニアン 25日で終了
 ハロルド・ピンターの短編戯曲『家族の声』、『いわばアラスカ』、『ヴィクトリア駅』の3本を同時上演する。サブテレニアンの黒い空間がいっそう濃密に変容する100分の至福を体験した。以下上演順に。

 ◆「ヴィクトリア駅」
 タクシーの指令係が無線で274号に乗車するドライバーを呼ぶが、「そちらはどなた?」と返され、両者の会話は最初から噛み合わない。指令係はこれからヴィクトリア駅に向い、クックフィールドまで行くという上客を乗せるように命じる。運転手はヴィクトリア駅を知らないと言う。耳を疑う指令係。このやりとりを、「おかしいな」と感じるためには、「ロンドンのタクシー運転手がヴィクトリア駅を知らないなどというのはありえない」(喜志哲雄著「劇作家ハロルド・ピンターの世界」より)という知識をあらかじめ持っておく必要があるだろう。しかし仮にここで異変に気づかなくとも、続く会話がことごとくちぐはぐになるため、初見であってもだいじょうぶではないか。
 このあたりの塩梅は、観客が敢えて「自分をまったく予備知識がない状態に置き変える」というやや複雑な準備をした上で観劇に臨む挑戦を行ってみるのも一興であろう。
 舞台奥に、指令係(山本啓介)と運転手(海老原恒和)が並んで腰かけ、会話が進む。ふたりは異なる場所にいるから顔を見合わせることはしない。指令係は上司、企業、そして社会の顔をして、常識的な存在のしかたをしている。それに対し、運転手は理由はわからないがすでに何らかの異常をきたしている。運転手のあまりにとんちんかんなもの言いに最初は戸惑い、粘り強く説得したものの怒りを爆発させた指令係は、やがて全てを受けとめたかのように、そこにそのままいるように指示し、「動くんじゃないよ。そこにじっとしてるんだよ。すぐに行くからね」とまるで迷い子になった生徒を迎えにいく教師のように語りかける。

 運転手にどんな背景や事情があったのかは最後までわからない。不思議なのは、「どうして彼はこうなったのか?」を知りたいとはほとんど思わないことだ。何らかの原因、きっかけがあるからこんな言動になる・・・といった道筋とは別のところに本作の魅力があると思われる。

 ◆「いわばアラスカ」
  デボラ(葉月結子)は16歳のとき、突然からだが動かなくなり、そのまま29年間眠りつづけ、医師のホーンビー(山本啓介)の投薬によってようやく目ざめた。心は十代の少女のまま、肉体は40代なかばの中年であるアンバランスを理解できず、いらだち、混乱するデボラと、ホーンビー、彼の妻になったデボラの妹ポーリーン(川原洋子/劇団桟敷童子)との会話劇である。ホーンビーは「あなたの頭脳は傷ついてはいない。ただ働きをとめただけだ、一時的に移り住んでいたんだ・・・いわばアラスカのようなところに」と言う。タイトルはこの台詞である。「アラスカ」という場所がなぜこの台詞に登場するのか、何らかの意味合いや、何かの暗喩かどうかは不明である。しかしなぜか「アラスカ」はほかの地名と置き換えられるようで、案外と合っている。本作のベースとなったというオリヴァ―・サックス『覚醒』(邦訳題名『レナードの朝』)は、ぜひ読んでみたい。

 ◆「家族の声」
  登場人物が互いに相手への手紙の内容を語りかける形式で進行する。当日リーフレットの配役表には声一、声二、声三と書かれているだけだ。ハヤカワ演劇文庫収録の戯曲には、「声一 若い男 声二 女 声三 男」とあり、関係性まで指定されていない。しかし劇がはじまるとすぐに、都会で暮らす息子(海老原)が母親(葉月)に出す手紙を読んでいることがわかる。下宿の家主の様子など、ごく普通の報告だが、つづく母親の最初の台詞が「なぜ手紙をくれないの?」と結ばれることから、舞台には早くも不穏な空気が漂いはじめる。息子は舞台のあちこちをいささか落ち着きなく動き回りながら台詞を発し、母親は車椅子に座ったままだ。付き添いらしき女性(川原)が少しずつ車椅子の向きを変えながら、届いていないらしい手紙と、手紙が来ないことに対する執拗な愚痴が交錯するいびつな構造を持つ。息子は家主一家から性的愛玩物のような扱いをされはじめ、最後に声三の男の声が聞こえる。彼の父親(山本)の声だ。父親は「おれは死んではいない」と言いながら、「おれは死んでいる」と告げる。

 いずれも好きな短編戯曲であり、実際の上演を見る機会が与えられたことは非常に嬉しい。前述のように、サブテレニアンの黒い床や壁が劇世界の闇をいっそう深くし、とくに3本めの「家族の声」では、台詞を発する人物に照明が切り替えられることで両者の絶望的な断絶がいっそう明白になった。これらの短編は、今回のように3本の連続上演『別の場所』として上演することが一般的とのことだ。このタイトルは、実に深い意味を持つ。登場人物の誰もが、いっけんリアルにその場所にいるようで、心象的にはどこかまったく別の場所にいることが考えられる。また本作は場所だけでなく、「別の時間」についての物語であるとも考えられ、さまざまに思考の膨らむ有意義な観劇であった。

 ピンターの戯曲はシンプルだ。とくにこの3編は登場人物について性格や背景など、何の指定もない。舞台を作るほうとしては、何の手がかりもなく、途方に暮れるかもしれない。しかし俳優の衣裳や舞台装置、音楽や照明など、いくらでも自由にできるとも言える。俳優の演技にしても、たとえば『ヴィクトリア駅』など、へたな漫才コンビのやりとりのように笑いを取る演技も可能であろう。サイマル演劇団は今回が初見である。戯曲に対して誠実に向き合い、気負うことなく劇世界を提示した。さまざまな試行錯誤があり、辛抱の必要な作業であったと想像するが、それを経たからこその爽快感があったのではないか。

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板橋ビューネ2016 楽園王『授業』

2016-09-08 | 舞台

*ウジューヌ・イヨネスコ作 長堀博士演出 劇団サイトはこちら サブテレニアン 10日で終了 板橋ビューネ2016参加作品
 楽園王は今年創立25周年を迎えた。自分は6月に『楽屋』で楽園王デヴューしたばかりの、実に遅れてきた観客である。当日リーフレット掲載の長堀の挨拶文によれば、楽園王の『授業』の上演は2004年にはじまり、富山県利賀村で毎年夏に行われている利賀演出家コンクールにおいて、優秀演出家賞を受賞した。以来、BeSeTo演劇祭やIkachi国際舞台芸術祭、ディプラッツで行われた『授業』フェスで上演を続け、昨年も板橋ビューネ2015参加作品として、札幌で公演を行ったとのこと。まさに劇団の代表演目であり、観客からの上演の要望も強いことが想像される。

 対して自分の『授業』歴は、2000年春、渋谷・ジャンジャン閉館記念公演の千秋楽がスタートであった。ジャンジャンの『授業』は、昭和の名優・中村伸郎が1972年より11年間、毎週金曜夜10時開演の上演を続け、その後後輩の俳優に継承された。自分が観劇したのは中山仁による教授であった。その後2002年秋、東京乾電池が座長の柄本明を教授に、女生徒と女中のマリー役を劇団の若手女優総当たりで上演した(えびす組劇場見聞録掲載劇評はこちら)。柄本の『授業』は数年後の再演を1度みたが、楽園王の『授業』はそれ以来ということになる。

 開演前の舞台には、中心に白い線が引かれ、その左右にテーブルと椅子2脚のセットがひとつずつ置かれている。当日リーフレットに目をやると、出演が「教授、生徒1、マリー、生徒2」となっている。それに続いて長堀による楽園王版『授業』の解説があり、生徒がふたり登場する理由がわかる。なるほど、そういうことか。

 長堀の解説を借りれば、物語の起承転結の「転結」からスタートし、「起承」で終わるという形式なのだ。キーワードは女生徒の「歯が痛くなってきたんですの先生」の台詞である。開演すると舞台下手に迷彩服を着たスキンヘッドの教授と、囚人服のような白い衣裳の女生徒1が登場、すぐに歯の痛みを訴える。そして中盤から台詞もなく女生徒2が上手側に登場しており、やがて彼女もまた「歯が痛い」と訴えたときに背筋にぞくりとした寒気を感じた。前述のように教授は迷彩服、マリーも女性軍人の服装をしており、ときおり軍隊の訓練らしき音声が聞こえてくる。どこかの街にある教授のうちではなく、ここは軍の基地の一室で、捕虜の矯正、転向のためのプログラムのようである。

 自分は原作を変えることに対して、あまり賛成できない。ある作品が長い年月を経て上演されつづけていることにはやはり理由があって、少々手を加えようと大胆に省略しようと、作品はびくともしないからである。物語の流れを変容させること、楽園王スタイルというのか、俳優たちは独特の台詞まわし(台詞の切り方?)で発語することが、今回の舞台の大きな特徴だが、それが『授業』という作品に対して適切であるのか、判断ができない。
 ただ言えるのは、このかたちは、俳優が「自分を見せる」ことから遠ざけるということだ。たとえば柄本明の教授は上演のさなかに素の顔をしたり、殺した女生徒を女中と運ぶ終盤はアドリブ全開で客席を大いに沸かせた。柄本ならではの舞台であり、ほかの俳優に真似はできない。それに対して自分の見る限り、楽園王スタイルにおいて俳優はエゴを出すのではない、別の到達点に向かって突き進んでいると思われた。その姿勢は天晴れであり、どうかこれからもその意気で!と願うものである。

 今回はじめて『授業』という作品を見る観客にとって、始まる前に演出家の解説を読んでいたとしても、難儀な観劇になったのではなかろうか。また将来ほかの座組で『授業』を見るとき、果してどのように感じるのだろうか。独自性の高い舞台作りをする場合、作り手は観客の将来についても、ある種の責任を負うという意識が必要であろう。気になったのは、翻訳者名が記されていなかった点である。ここはやはり明確にされたし。

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文学座9月アトリエの会 『弁明』

2016-09-08 | 舞台

*アレクシ・ケイ・キャンベル作 広田敦郎翻訳 上村聡史演出 公式サイトはこちら 文学座アトリエ 21日まで
 演技スペースを客席が馬蹄形に囲むかたち。主人公クリスティン(山本道子)の家のリビング、キッチンが舞台である。キッチン部分は流しやオーブン、たくさんのグラスがぶら下がった食器棚などもリアルに作り込んであるが、壁は素通し、屋根も骨だけで、抽象的というより、劇作家によって書かれた物語を演出家が舞台に立ち上げ、俳優によって行われる実験的な試みを見学するといった雰囲気である(長田佳代子美術)。

 山本道子さんという俳優の質実な力はもっと評価されてよいと思う。ちょっぴり太めの体型や、愛敬あふれるお顔立ちなど、ともすれば、有無を言わさず噂好きのご近所さん、三枚目、おどけ役が回って来ることが多かった。だがSMAPの草彅剛が主演した『僕の生きる道』(橋部敦子脚本 2003年フジテレビ)で、末期がんに冒された主人公(草彅)の母親役がいまだに印象に残る。明るく優しい母親ではあったが、決してオーバーアクションをしなかった。主人公が電話で母に病気を告げる。台詞は音楽がかぶさって次第に聞こえなくなり、何を言っているのかはわからない。しかし受話器を持った母親の背中がだんだん丸く、小さく縮んでゆく。顔も悲しげに歪むが、アップにはならなかった。まさに背中で語る演技。
 なので2005年『風をつむぐ少年』(このブログのいちばん最初の記事!)で、娘を亡くした母親が、加害者の少年と話す場面の静かな演技を見たときは大変嬉しかった。大切な娘の命を奪った相手に何をしてほしいか。考え、迷い、悩みながら、不思議な申し出をする。あのときの言葉を選び、考えかんがえしながら話す山本の抑制した口調や表情が忘れられない。

 さて『弁明』である。母親クリスティンの誕生日を祝おうと、久しぶりに家族が集まった。息子はパートーナーを伴ってやってくる。はじめのうちはなごやかにしているが、何かのはずみで諍いが始まり、止めようとするパートナーの努力も裏目に出て、それまでの鬱憤、恨みつらみが爆発。さらに長年の秘密も暴露され、祝いの宴がめちゃくちゃになってしまう、というのは、ありがちな話である。

 だがクリスティンは男性優位であった美術史研究の分野で成功を収め、「弁明」というタイトルの回顧録を出し、かつて反戦運動、労働闘争に参加してきた過去を持つ。毒舌の皮肉屋。嘘やお世辞は言わず、初対面の長男のパートナーに対しても遠慮会釈ない振る舞いをするあたり、なかなか厄介な女性である。長男のピーター(佐川和正)は合理的な銀行マン、パートナーのトルーディ(栗田桃子)は熱心なキリスト教徒である。彼女が選んだ奇妙な誕生日プレゼントを巡ってひと悶着。次男のサイモン(亀田佳明)はなかなか現れず、女優である恋人のクレア(松岡依都美)がサイモンを連れてこずに先にひとりでやってきたことがクリスティンは気に入らず、何度も執拗にそれを口にする。

 前述のような舞台装置のなかで交わされる人々のやりとりは、台詞の一つひとつ、表情のちょっとした変化なども見逃せず、休憩を挟んで2時間40分の長丁場をそれほど長いと感じさせない。第二幕になってようやく現れるサイモンが、少年時代の辛い出来事を母に告白しようとするが、すべてを打ち明けないまま立ち去ってしまう。クリスティンと長年親交のあるヒュー(小林勝也)の若き日の写真を見たサイモンは、何を思い出したのか。ヒューが同性愛者であるらしきことはさらりと語られるが、サイモンの心の傷に関わってくることなのか。

 人々の心の闇が明かされ、ぶつかりあったのちに互いを理解し、和解への道が開けるのならば、誕生パーティの大騒ぎはまことにありきたりで、しかし観客にはある種のカタルシスと安心感を与えるだろう。『弁明』は、主人公のクリスティンのように手ごわく厄介だ。観客をそう簡単に納得させない。上演台本を読めば、何度も観劇すればもっと理解できるかといえば、必ずしもそうではないと思われる。むしろそこに本作の魅力があり、観客の幸福があるのではなかろうか。

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2016年9月の観劇と句会

2016-09-01 | お知らせ

 昨年9月にも同じことを書いた。9月1日に自ら逝ってしまう子どもが多いことに警鐘を鳴らし、周囲の大人たちに注意を促す新聞記事が今年も出た。「神は耐えられないような試練に遭わせることはしない」という聖書の言葉を引いて、「だから耐えられないようなことがあったら、それは試練ではなくて単なる不幸なのだから、早く逃げて」という何かのことばをどこかで読んだ。そのとおりだと思う。聖書はこう続く「(神は)試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」(コリントの信徒への手紙10章13節)。「逃れる」のは、単なる逃避ではない。卑怯でも弱くもなく、むしろ賢明で生きる意欲のあらわれだ。だから学校や家庭で(と書くのは悲しいことだが)、辛いことがあったら、とにかく誰か信頼できる人のところへ逃れてください。こんなことをこんなところに書いても、小さい人たちの目には触れないだろうけれど、かなり本気で、必死で言っております。わたしはこの世に生きてきてよかったと思っているから。生きていたから芝居にも俳句にも、たくさんの人にも逢えたから。

【観劇予定】
*楽園王『授業』
 創立25周年の記念公演が秋もぞくぞく、クリスマスまで駆け抜けるとのこと。イヨネスコの『授業』は先月末、鳥取のチェリバホールでの公演を終わり、9月は板橋ビューネ2016参加作品としてサブテレニアンで上演される。
*劇団匂組 『虹の刺青』
 劇団劇作家所属の大森匂子(1,2)が、自分のホームグラウンドである匂組(わぐみ)で新作を上演する。伝説の喜劇女優・清川虹子が主人公で、テネシー・ウィリアムズの『バラの刺青』の舞台稽古が始まろうとしている紀伊國屋ホールに、あの唐十郎がやって来る・・・という話らしい。昨年の紀伊國屋円劇場50周年特別女優賞を受賞した市川夏江の出演も話題のひとつだ。池袋演劇祭参加作品。
*文学座9月アトリエの会 『弁明』
 2014年5・6月アトリエの会『信じる機会』(因幡屋未見)につづいて、アレクシ・ケイ・キャンベルの作品に演出の上村聡史が挑む。
*リンクプロジェクトvol.15 『少女仮面』
 唐十郎ワールド×コンテンポラリーダンス。
*流山児★事務所公演  『OKINAWA1972』
 流山児祥が「Space早稲田でロングラン上演をしたい。ぜひ新作を」と依頼したのが、風琴工房の詩森ろば。
 本土復帰に揺れた1972年の沖縄、44年後の沖縄、そして日本という国を描いた熱い舞台では?Space早稲田演劇フェスティバル2016のオープニングを飾る。
*ビニヰルテアタア第8回公演 『楽屋』
 6月に楽園王の『楽屋』をみたばかりで、早くも別の座組みが公演を行う。を元唐組俳優の鳥山昌克が演出する。出演俳優も唐十郎ゆかりの方々あり。会場である浅草橋ルーサイトギャラリーは、友人の話では「時空が飛ぶ」ほど魅力的な空間らしい。
サイマル演劇団 『別の場所』
 ハロルド・ピンターの短編戯曲『家族の声』、『いわばアラスカ』、『ヴィクトリア駅』の3本を同時上演する試み。板橋ビューネ2016の後半に登場する。
*劇団民藝 『箆棒』(べらぼう)1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23
 中津留章仁が新劇の老舗・劇団民藝に新作を書き下ろし、演出も担う。

【句会の兼題】
*本部句会 「新蕎麦」、「野分」、「水鳥」「隼」
*金星句会 「とうもろこし」、「名月」
*演劇人句会 「秋刀魚」、「邯鄲」

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文学座有志による自主企画公演 第十三回「久保田万太郎の世界」

2016-08-29 | 舞台

*久保田万太郎作 黒木仁演出 こりっちのサイトはこちら 文学座モリヤビル 9月2日で終了
 当日リーフレット掲載の黒木仁の挨拶文によれば、このシリーズがはじまったのは、2003(平成15)年1月、文学座モリヤ稽古場での勉強会、演目は『十三夜』と『蛍』。や、因幡屋これは見ましたぞ。ということも以前に書きましたぞ。道路に雪の残る寒い夜であった。

『蛍』・・・幕が上がると、泣いている女と、それを左右から心配げに見つめる男女がいる。始まったとたんに泣いているというところがこの劇のひとつのポイントだ。泣くほどの話をすでにしている。どんな話だ、この三人はどういった間柄か。観客を疑問の渦のなかに敢えて投げ入れる序幕である。榮吉(吉野正弘)ととき(山本郁子)夫婦の家へ、よし子(鬼頭典子)が亭主の浮気に耐えかねて駆け込んできた。よし子の亭主重一と榮吉夫婦とは、今は亡き親方による深いかかわりがあるだけでなく、ときと重一は元は夫婦の間柄であった等などが、結構説明台詞的ではあるが、明かされていく。重一に意見してやろうと、榮吉は腰を上げ、泣き顔のよし子に身支度をさせていっしょに出て行く。留守居になったときのもとに、酒に酔った重一(中村彰男)がやってきて・・・。
 一筋縄ではいかない複雑な人物相関図である。むろん浮気をする亭主はよくないけれども、それにはわけがあった。男がひとりの女を好きになる。まちがいを冒してその女と別れた。ちがう女と一緒になったが、心が定まらない。元の女も別に所帯を持ったから、よりを戻すことはできない。男は元の女に似た、また女のところにひとときの慰めを求める。今の女房がいやなわけではない。どうしようもないのである。
 終盤で、榮吉が外出のために着物を着換えるところ。たしか13年前、この役を演じたのは、昨年秋亡くなった戸井田稔ではなかったか。鏡を見ながらではなく、慣れた自然な手つきですいすいと帯を腰に巻く。脱ぎ着を手伝う妻のとき(このときも山本郁子であった)の所作も丁寧で美しい。

『めの惣』・・・これは泉鏡花の名作『婦系図』全6幕13場のうち、第5幕を久保田万太郎が脚色・演出したもの。今回の黒木仁とともに、戌井市郎の名も演出として記されている。こうして過去記事を見てみると、いくらは観劇してはいるものの(1,2,3,4,5,6)、『婦系図』についてはまことに不勉強で、今回も人物相関図や物語の流れにとまどいながらの観劇となった。
 人物の関係や背景、過去の出来事などを台詞のやりとりから何とか掴みとろうとしたが、結局はよくわからなかったが、江戸言葉の響き、日本髪を結い、着物を着たしぐさを堪能した。と、そこへ可愛い女学生がお蔦の見舞いにやってくる。姐さん芸者の小芳(吉野由志子)を「おばさん、おばさん」と呼び、何かと言うとはにかんで「決まりが悪いわ」とうつむく。とても初々しいのだが、台詞のトーンというか、口跡というのか、ほかの大人の人物たちとあまりに響きがちがうことに困惑した。この役の台詞の言い方はこれでよいのだろうか。演出によるものなのか。

 女生徒の髪を丁寧に梳いてやる小芳の表情はまことに複雑だ。やがえ電話をしてくるといってうちから出て行くと、小芳は耐えかねたように泣きだす。「あの子はわたしが産んだんだよ」。や、おばさん、おばさん、待って下さい。話についていけない。事情を聞いたお蔦とともに、「わたしたちって、因果だねえ」とよよと泣き崩れる様相は、まさにザ・新派の趣。

 戸惑いもあったが、やはり久保田万太郎の作品をみるのは、大変な至福のとき。ぜひ次世代の俳優さんに継承し、これからもわたしたちにこの世界を味わわせてください。

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