因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

追加しました!2018年観劇と俳句の予定

2018-01-05 | お知らせ

 1月の観劇予定に、以下2本追加いたしました。さあ大忙しだ!
*梅田劇場主催公演『黒蜥蜴』
 江戸川乱歩原作 三島由紀夫脚本 デヴィッド・ルヴォー演出…と書き進むほどに期待が高まる。そして明智小五郎役は井上芳雄日生劇場に参ります。
*トライストーン・エンタテイメント主催、世田谷パブリックシアター提携公演『Sheakespeare's R&J~シェイクスピアのロミオとジュリエット』公式サイトはこちら
 数百年に渡って演じ続けられ、読み継がれてきたシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』をジョー・カラルコが脚色した。厳格なカソリックの全寮制寄宿学校(ここだけでもうぞくぞくしますわ、笑)の男子高校生たちが、禁断の書である『ロミオとジュリエット』を真夜中にリーディングを始める…という物語とのこと。(1月17日追記ここまで)
 明けましておめでとうございます。因幡屋ぶろぐにお運びくださいまして、まことにありがとうございます。今年も因幡屋通信/因幡屋ぶろぐをどうかよろしくお願いいたします。さて月始め恒例の「今月の予定」をお届けいたします。まずは観劇から。まだ予約を入れてないものもありまして、すべては因幡屋通信最新号の仕上がりにかかっております(汗)。

したまち演劇祭2018より 
 パフォーマンスユニットTWT『ジャガーの眼』
 唐十郎が盟友・寺山修司への思いを込めて1985年初演した当時の戯曲を上演するとのこと。場所はこれも唐十郎ゆかりの地・上野ストアハウスで。
*文学座有志による自主企画公演 シアターX特別提携公演
『この道はいつか来た道』年齢のことばかり言うまいと思いますが、それでも別役実+本山可久子+金内喜久夫+藤原新平=337歳は稀有なことですね。昨年の公演をうっかり見逃しましたので、今度はぜひにと。
壽初春大歌舞伎
 松本白鷗、松本幸四郎、市川染五郎の三代襲名公演。心が躍ります。
劇団ロ字ック第12回公演『滅びの国』1,2,3,4,5,6,7,8
 下北沢・本多劇場に進出。
*こちらもしたまち演劇祭2018より 
 文学座有志による久保田万太郎作品『夜長』『あしかび』アフターイベントは朗読やトークも予定されており、浅草見番での上演も楽しみ。
*東京芸術劇場 RooTS VOL.5
 『秘密の花園』唐十郎作 福原充則演出 若い世代による唐十郎作品の上演は、作り手にとっても観客にとっても重要であり、見逃せない。

 俳句も新年から待ったなしの次から次です。
*かさゝぎ俳句勉強会「初夢」「初日」「年玉」
 この勉強会に参加される方々は、とにかく熱心で俳句好き。その雰囲気に引き上げられてご一緒させていただいております。でも発表の当番でないからといってのんびりしていると大変なことになりますぞ。
*十六夜句会 今月は「極句会」との合同新年句会で、20人近い参加者がありそう。ということは4句×20句=80句…。兼題はとくに出されていないが、新年の季語は清々しくて好きなものが多く、気持ちのよい句を詠みたい&出会いたいものです。
*本部句会「寒稽古」「蝋梅」(ろうばい)
 今年の目標は、できるだけ本部句会に出席するということなのですが…。
*演劇人句会「成人の日」「女正月」
*金星句会「海鼠」「楪」(ゆずりは)

 ずっと同じような形式では芸がないので、何か新しく…と思いながら年が明けてしまいました。取り急ぎのお知らせです。追加などありましたら随時更新いたしますね。

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2017年因幡屋演劇賞

2017-12-25 | 舞台

 感謝と喜びを以て次の舞台に。リンクは観劇時のブログ記事です。
*九十九ジャンクション 土屋理敬作 後藤彩乃演出『赤い金魚と鈴木さん~そして飯島くんはいなくなった~』伝説の名作の続編が描く人々の終わらない苦悩と、その先の希望。
*劇団東京芸術座アトリエ公演 内藤裕子作・演出『おんやりょう』町の消防署の人々の仕事と暮らしを生き生きと描いた内藤裕子初の外部書下ろしと演出。硬質な芸風の劇団ならではの緻密で誠実な姿勢を基本に、軽やかな面も見せて良質な舞台になった。
*新劇交流プロジェクト公演 三好十郎作 鵜山仁演出『その人を知らず』 文学座、民藝、青年座、文化座、東演の新劇5劇団が力を結集し、俳優諸氏は役の大きさに関わらず自分の持ち場を大切に演じた。客席にも長丁場を作り手とともに走り抜いた充実感があった。
*板橋ビューネ2017(1,2,3,4古今東西の戯曲を丁寧に、あるいは大胆に構築する作り手の心意気と、フェスティバル実現に力を尽くした制作の方々へ。

 ほかにはひとつの物語、ひとつのテーマを数年にわたって連作とし、演劇を見続けること、振り返ることの楽しみを味わったgreen flowers公演 内藤裕子作・演出『かっぽれ!締』、劇団フライングステージ公演 関根信一作・演出『LIFE,LIVE ライフ、ライブの2本も心に残りました。

 夥しい資料を丹念に読み込み、丁寧な取材を重ねて登場人物に新しい命を吹き込む戯曲で多くの人を魅了している劇作家が、「どの戯曲を書くのにも100冊くらい読む」と語っておられました。今年上演されたある作品においては殊更に大変で、「最後吐いていました」と。作り手の方々はここまで心身擦り減らし、舞台に精魂込めておられるのかと頭が下がる思いでした。というより、ほとんど青ざめました。

 こちらは指一本動かすことなく、その舞台を見る。それもご招待いただいた場合は「身銭を切る」痛みもないわけです。だからこそいっそう簡単におもしろかった、つまらなかった、自分の好みではなかったと括ることはできない。頭を働かせ、ぎりぎりまで言葉を探し、何より心を尽くして舞台に向き合いたいと思うのです。

 今年一年素敵な舞台に出会えて幸せでした。自分だけの情報網ではたどり着けないことも多々あり、さまざまな出会いや思いもよらぬきっかけが与えられたことに感謝しております。また因幡屋ぶろぐ、因幡屋通信をお読みくださった方々にも御礼申し上げます。ありがとうございました。どうか皆さま、よいお年を。来年もよろしくお願いいたします。

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劇団青年座スタジオ公演№124『眞田風雲録』

2017-12-20 | 舞台

*福田善之作 磯村純演出 公式サイトはこちら 青年座劇場 24日で終了
 開場するや、客席が見る間に埋まってゆく。初日の今夜は通常料金4000円よりぐっとお値打ちな2500円の有料公開稽古のせいもあろうが、観客からはこれから始まる舞台への強い期待、作り手からはまさに走りはじめようとする緊張と心意気で、小さなスタジオは熱気が溢れんばかりだ。これまで青年座のスタジオは文学座アトリエや民藝の稽古場、いまはないがステージ円ほど足を運ぶ機会がなかった。当日リーフレットに掲載の演出ならびに企画・製作の磯村純の挨拶文によれば、来年3月の本公演『砂塵のニケ』(長田育恵作 宮田慶子演出)を最後に、建て替えのため劇場としての使用を終了するとのこと。同じく企画・製作を担い、猿飛佐助役で出演もする久留飛雄己とぜひ『眞田~』を上演したいと意気投合し、今日の日を迎えられた喜びが生き生きと綴られている。
 その久留飛は、「この作品の登場人物たちが考えていることは全くバラバラです。そして私たちの1人ひとりが考えていることもバラバラです。そのバラバラな人たちがこの空間で一つになっていることを感じていただけたなら幸いです」と記す。芝居作りの内実は想像もできないが、一筋縄では到底いかない大変な労苦があるのだろう。それでもこの作品を上演したい、多くの人に届けたいという情熱あってこその今日の初日である。青年座だけでなく、文学座やテアトル・エコー、フリーなどさまざまな俳優が出演するのも興味深い。

 15分の休憩をはさんで2時間40分の上演は決して楽なものではないが、出演の俳優はじめスタッフのこれほどまでの熱意を受け取っては、こちらもしかと見届けようと力が入るというもの。互いの熱で舞台が一層盛り上がる幸福な観劇となった。

 真田幸村と十勇士たちの物語であるから時代劇、と単純に括れない作品だ。1962年の初演当時、60年安保闘争の様相が色濃く反映された本作がどのように受けとめられたのか、それから半世紀以上が経った今、個人と個人が属するコミュニテイー、そのなかで生まれる無数の衝突と和解、駆け引き、いつの時代でも無くなってほしくない人の心の交わり、情愛といったものが見る者を強く惹きつける。

 NHK大河ドラマ『真田丸』もまだ記憶に新しく、「あのときのあの役が目の前のこの人」と若干「照合」する箇所もあったが、人物の性格や造形が大きく異なることもあり、中盤以降は舞台に集中することができた。

 心に残る場面が多くあり、俳優についてもあのときの表情、声、しぐさなどあげていけば切りがないほどである。ひとりを例にあげれば、「あの人のあの場面もよかった」、「あれは忘れられない」等々、どの人物にも「とっておき」的なところがある。正直なところ、ここまで全体を「ぶっちぎり」でなく、もう少し抑制した造形で緩急、メリハリをつける方法もあると思うが、それを言うのは野暮というものかもしれない。

 別の演出において、舞台に大量の泥を敷き詰め、俳優たちがその中で七転八倒し、文字通り泥にまみれる演出もあったが(未見)、実際に水や火や泥を舞台に持ち込むのは、見た瞬間ははっとするものの、終始目にする状態であるのは必ずしも効果的ではないと思う。泥などなくても、泥沼のような戦国時代の混乱、もがき苦しむ人々を見せるには、まずは俳優のからだと声を根本に置き、音響や照明、さまざまな道具、ぜんたいの舞台美術など、「本物ではないもの」から、観客に想像させ、あたかもそのように見せることが可能なはず。そうするのが演出の手腕であり、舞台というものの旨みではないか。

 青年座の本作は徒手空拳、実に気持ちが良く、今年最後の現代劇の鑑賞を幸せに締めくくることができた。

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ハイリンドvol.18『あたま山心中 散ル散ル、満チル 』

2017-12-19 | 舞台

竹内銃一郎作 西沢栄治演出 公式サイトはこちら 下北沢・小劇場「楽園」24日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17
 
さくらんぼの種を食べて、頭に桜の木が生えてしまった男の悲喜劇を描いた古典落語の『あたま山』と、幸福のしるしを探すチルチルとミチル兄妹の物語、メーテルリンクの『青い鳥』が交錯する80分、伊原農、はざまみゆきによる「夫婦漫才」ならぬ「夫婦演劇」(公演チラシより)である。

 竹内本人のブログには、本作執筆のいきさつなどが詳細に記されており、落語と童話だけでなく、いくつもの作品からの引用を散りばめているとのこと。1989年に発表され、初演は串田和美と吉田日出子が共演、演出は鵜山仁である。2016年、寺十吾演出の舞台のために一部改訂されたとのこと。このときは劇団大人計画の同期である近藤公園、平岩紙が共演した。自分はいずれも未見、今回のハイリンド版が初見である。

 竹内銃一郎作品はほとんど見ていないと思っていたら、東京乾電池の月末劇場で数本は観劇している、当ブログに記載あるのはごくわずかで(1,2)、ブログを始める前の数本を微かに記憶している程度である。それなりに楽しんだのであろうが、残念ながら竹内戯曲に対して明確な認識を持てたとは言い難い。

 下北沢の小劇場「楽園」は演じ手にとって使いづらい空間であろう。入って正面に大きな柱が立っており、客席は否応なくその左右に分かたれ、舞台を見る視野が限られてしまう。一方で、観客の視点が左右から集中するので、それを活かした舞台美術や演出を工夫することはできる。今回は入って片方を「やわらぎ席」、もう片方を「あじわい席」として(実は記憶曖昧)、「ぜひつぎは反対側から」とのアナウンスも。

 演技エリア奥には山の見立てであろうか、いくつもの椅子や台、木枠が組み合わさった塔のようなものが作られ、そのオブジェを中心にふたりの人物が動く。旅支度に余念がない女、気づかいながら手伝う男。男に対する女の呼び方を何度か注意する。あなたと呼ぶな。兄さん。女は少し心を病んでいるのか。

 初日の気持ちの良い緊張が舞台にも客席にもあり、ハイリンドの大黒柱である伊原とはざまが、稽古のきっちり入った丁寧な芝居を見せる。

 このふたりは兄と妹であると思っていたが、女が「あなた」と呼びかけるたびに何度も「兄さんだろう」と訂正させる奇妙なやりとりや、過去の思い出を語りながらいつのまにか過去そのものの世界に入っていったりなど、物語の軸や流れは見る者を少しずつ惑わせていく。もしかしたら夫婦ものではないのか、いや母と息子のようにも見えるぞなどと次第に混乱し、終盤では病んでいるのは女ではなく、男のほうでは?との印象も。

 俳優の演技はもちろんのこと、音響や照明、舞台美術の細部に至るまで、非常に丁寧な演出が施されている。ハイリンド結成から、自分がこの劇団の舞台に対して感じているのは、戯曲を重んじ、演出を信頼するという姿勢であり、今回もまた揺るぎない。旗揚げメンバーの多根周作が劇団から離れ、枝元萌もテレビ出演のため今回の舞台には出演せず、伊原とはざまの二人芝居となった。劇団の運営は、こちらからは想像もできないほど困難な面があるのだろう。ずっといつまでも同じ顔触れで、毎回クオリティの高いものを作り続けていくのは至難のわざだ。変わらざるを得ない現実において、方向性を見極めること、ときには大胆な方向転換も必要だが、どうしても譲れないこともあるだろう。

 今回の作品は多くの人に受けとめられるタイプのものではない。困惑や疑問がどうしても出てしまうものであり、これまでの多くの公演がそうだったように、明るく朗らかに泣き笑いして劇場を後にすることはむずかしい。
 ハイリンドの方向が今後変わる可能性の兆しを見せるものとして、自分は味わうことができたが、改めて、この戯曲の落としどころは何だろう?

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文学座12月アトリエの会『鳩に水をやる』

2017-12-14 | 舞台

*ノゾエ征爾作 生田みゆき演出 公式サイトはこちら 信濃町・文学座アトリエ 21日まで 
 ちょうど1年前、文学座有志による自主企画公演、久保田万太郎作『霙ふる』において、演出の生田みゆきは大胆な切り口と細やかな情感のこもった舞台を構築した。夏目漱石の『夢十夜』に想を得てノゾエ征爾が書き下ろした作品と、どのような交わりを見せるのか。

 客席が左右から演技エリアを挟む対面式だ。舞台にはみごとなまでに何もない。天井から2枚の大きなパネルが吊り下がり、本作のモチーフの動画が蠢く。

 3つのエピソードが代わるがわる進んでいく。まずは老いた童話作家の家に押しかけてきた彼のファンであると言う若い女性、つぎはどこかの共同住宅で、訳あって自室に入れなくなった女性と、別の部屋に荷物の配達に訪れた男性、あと1秒後に死ぬ運命の男性が、過去に出会った女性との時間をさかのぼって追体験する話。これらのエピソードや人物がやがて近づいてひとつの物語に収れんしていく、と想像したが、なかなか一筋縄ではいかない。俳優はドアのサイズの枠を持って移動し、空間や時間が動かしていく。まさに自由自在。

 エピソードの一つひとつは面白く、ベテランから中堅、若手に至るまできちんと稽古を重ねた台詞や動きを見せるので、劇の進行は極めて不安定というか、あまり先が読めないにも関わらず安定感がある。もしかすると、この安定感が曲者なのかもしれない。話を追うことや、複数のエピソードの人物の相関関係を想像することをいつのまにかしなくなり、結果として舞台への集中が次第に緩んでしまったのである。休憩なしの2時間10分は、果たして必要な時間なのか。

 物語が起承転結をきちんと押さえてまとまらねばならない必要はないのだが、童話作家と配達員との関係に若干の劇的希望を持っていただけに、最後の場面において、登場人物の口から(つまり劇作家自身と考えてよいだろう)、この物語の総括的な台詞がつぶやかれてしまうと、客席に身を置いた者としては非常に残念なのである。生田みゆきが持つ音楽的舞台感覚、どんな音楽、音響効果を使うかではなく、台詞が客席にどう届くのか、舞台ぜんたいのテンポやリズムについて、変容の余地があると思われた。

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