いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

スペインの本屋

2007年08月01日 22時37分49秒 | 欧州紀行、事情

 

リブロってスペイン語って知らなんだ。 リブロって本屋がわれらがぬっぽんにあることはスペイン語人にとって名誉であろう。文明に不可欠な要素が、私的商業施設での店名ではあるが、スペイン語なのだから。でも、リブロって名づけた御仁はこの店を「まんま」パクッったんじゃないのか?

自国の言語でどれだけやれるかっていうのはその言語の力量を測るうえで重要。ここで、自「国」の言語と書いてしまったのは日本中心主義だからだ。つまりは日本語は事実上日本国のみで使われているから。もし、旧日帝支配地域で今も日本語がつかれていたなら、自国の言語とは言えない。自文明の言語、というべきであろう。一方、スペイン語は違う。旧帝国支配地で今でも使われている。これは意外にも、フランス語より規模が大きいのではないか?つまりは、カストロとかピノチェトとか、はたまた南米の無名の極左戦士諸君もみんな使っているスペイン語。

なので、スペイン語はノルウエー語とは大違い。ノルウエーみたい国では高等教育は英語で行われる。だから、中産階級はみんな英語を話す。ノルウエー人が世界を把握したいなら英語をまずは獲得しなければならない。だからノルウエーの本屋では英語の本がたくさん売っている。

世界の歴史や自国の歴史でさえ、自国の言語で本を持っている国というのは実は少ない。ノルウエーより極端なのはインドで、インド全史があるとしても自国の言語で書かれることは原理的にありえない。なぜなら、インド全史はヒンディー語だのベンガル語だのの地域を含むので、そもそも自国の言語がない。

このマドリードの本屋では、オスロの本屋と違って英語の本は、見た限り、ない。こんなに大量の本がすべてスペイン語の本。上述のごとくスペイン語使用人口が多いせいか、翻訳もさかんらしい。その点日本語と共通する。 ↓こういう翻訳本も出ていて、平積みだ。

 



実際にマドリードの本屋に行って気づいたこと。
西部の『発言者』(もうなくなったらしいね)は、オルテガが編集長で創刊した『Revista de Occidente/西洋評論』なのだ。パクリなのだ。



↑スペインの本屋で買うものもないので、店員に『Revista de Occidente/西洋評論』はないか?と聞くと、この売り場に連れて行ってくれた。これは季刊雑誌の売り場で中央に並んでいる3冊は『Revista de Occidente』のバックナンバー、それも号がとびとびの、売れ残りなのであった。


1冊買って帰っただよ。

Revista de Occidente



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