いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『勧進帳』を読み上げるヤルゼルスキ、でも、21世紀、『立ち往生』は免れる。

2013年08月18日 18時48分56秒 | 欧州紀行、事情

   
           ―ポーランドにて、 今年初夏―

▼ 今年、初夏、ポーランドに行った。 仕事だ。 今、普通の日本人に、「ポーランド人で知ってる人は?」と尋ねるとどういう答えが返ってくるのだろうか。 おそらく、ほぼ無回答なんだろう。 特に今、有名な人がいない。 普通のもの知りなら、ショパンとかキュリー夫人とかあたりか。 ずーっと知名度が落ちて、ヨハネ・パウロ2世とかワレサ議長(レフ・ヴァウェンサ wiki)とかかな。

さて、ヤルゼルスキ。 まだ存命である。

1980年代、ソ連崩壊の少し前、おいらが、ヤルゼルスキを認識した時、絵に描いたようなスターリニスト然としていたので、にこにこできた。 彼は、戒厳令を出した。


― 絵に描いたようなスターリニスト然 ―

でも、事情は複雑だったのだ。

1980年代初め、ソ連崩壊にさきがけて、ポーランドでは「民主化」が進展していた。独立自主管理労働組合「連帯」(wiki)の運動があり、体制を揺るがしそうであった。その体制とはソ連に裏打ちされた共産主義の体制だ。「連帯」運動が高まり過ぎ、このままではソ連軍が出動し、治安維持をするのではないかと世界は恐れていた。その時、ヤルゼルスキは、大統領として、戒厳令を敷いた。

 ▼勧進帳を読み上げるヤルゼルスキー

 この頃なのだろう、おいらは、雑誌、中央公論の巻頭近くの短い文章で「勧進帳を読み上げるヤルゼルスキー」(記憶)という題の文章を読んだ、と記憶している。書いた人の名前は覚えていない。ただし、その書いた人は北大のスラブ研の学者であったと記憶している。内容は、戒厳令を敷いているヤルゼルスキを歌舞伎の勧進帳[1]における武蔵坊弁慶になぞらえたもの。ワレサ議長(彼は拘束された)の連帯を弾圧し、戒厳令を敷くヤルゼルスキは世界=西側から批難を浴びていた。この「勧進帳を読み上げるヤルゼルスキー」はその状況と解釈、普通の人には気付きにくい隠された意味を解説した文章だった。すなわち、戒厳令を敷いたヤルゼルスキは単純な専制支配者ではなく、本当の専制支配者であるソ連の介入を招かないうちに、戒厳令を敷いたのだ。目的はポーランドと連帯を守るためだ。これは、義経を守るために弁慶が勧進帳を読んで、その場をしのいだようなものだ、と解説していたのだ。

[1] 勧進帳 あらすじ (wiki)

源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関(石川県小松市)での物語。義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。しかし関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いていた。焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると弁慶が言うと、富樫は勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。

なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問い質(ただ)すが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。富樫は通行を許すが、部下のひとりが義経に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、疑いを晴らす。危機を脱出した一行に、富樫は失礼なことをした、と酒を勧め、弁慶は舞を披露する(延年の舞)。踊りながら義経らを逃がし、弁慶は富樫に目礼し後を急ぎ追いかける(飛び六方)。

 やはり、今となってはwikiでこう解説されている;

ヤルゼルスキは、戒厳令を敷いたことで非難されており、事実、戒厳令中、民主化を主張するポーランド人を弾圧したが、熱心なカトリック信徒である彼は、教会に逃げ込んだデモ隊に対して弾圧を行なうことは決してなかった。またソ連の衛星国である当時の東欧諸国がその影響下から離脱しようとした時、ソ連が容赦なく軍事侵攻している事実がある以上(例、ハンガリー動乱、プラハの春)、戒厳令を敷かなければソ連政府はポーランドへ軍事侵攻を実行に移すことは明白であった。実際にソ連からは有効な対策を打たなければ実力行使を行うという期限付き最後通告を受けており、放置しておけばソ連の介入でポーランドが壊滅すると考えた末の決断であったとされる。

・この当時(1980年代のソ連崩壊前)、カチンの森事件 (wiki) だって、ナチス・ドイツがやったことになっていた時代だ。

 ■ そして、21世紀;

ヤルゼルスキがまだ生きていると知って驚いたが、去年(2012年)、ワレサと会っていたのだ(報道された公知です)。

知らなかった。


Walesa takes tea with former communist leader
そして弁慶は、無事関を越えられた後、主を殴った事について義経に泣きながら謝った。という筋である。 wiki 武蔵坊弁慶

このワレサ―ヤルゼルスキ会見は、死期を悟ったヤルゼルスキの意向と推定できる。なぜなら、この後の5月に、「ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ元大統領は、新聞「Super Express」のインタビューに応じた中で、自分は死に瀕していると語った」とされるからだ。


  ニュースソース

家で死を迎えるのだ。 立ち往生google 画像)ではないのだ。 ソ連崩壊の賜物だ。


 



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