いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「ディスカバー・ジャパン」は米国製

2016年08月16日 05時15分31秒 | 日本事情

 

 万博が終ったあとに、国鉄がはじめた「ディスカバー・ジャパン」の一大キャンペーンは、この資本と広告による民族の大量移動を恒常化するこころみといえます。それは直接には、アメリカの長距離バスの「ディスカバー・ジャパン アメリカ」の猿真似ですが、そこではもう日本のどこにも失われた故郷や辺境のイメージと、伝統的な情緒をもつ文化遺産と、Gパンやミニ・スカートの若者たちの姿が、川端康成の本をもじった「美しい日本と私」というキャッチ・フレーズと組みあわされています。
針生一郎、 日本人にとって自然とは何か (初出1971年)、 『文化革命の方へ』(1973年)

当時のテレビCMの動画がnetにあった;

 

 他のバージョンもある。当時の若手アーティスト系タレントがモデルだったようだ。今も活動しているところがすごい。国鉄は解体したが、彼らは生き残っているのだ。

 この「ディスカバー・ジャパン」は米国製ということは、極最近であるが、針生一郎の『文化革命の方へ』を読んで(愚記事;再見! 針生一郎)。

      ⇒ Google画像 [discover America]

さて、最近このことに言及している人を見つけた;

 広告批評懇談会は広告業界の内部の人とデザイナー、コピーライター、文芸批評家などが集まって企業が自分をどう見せたがっているか、何を隠したがっているかを研究しました。その時代に話題になった「モーレツからビューティフルへ」「あなた大変 電気が来ない」などを「企業の文学」としてどう読むかを研究しました。そして最初の焦点を当時の国鉄の「ディスカバー・ジャパン」に当て、それが「日本イデオロギー」をどのようにとりあげて、とくに若い女性に無自覚に押し付けようとしているかを暴露しました。川端康成のノーベル賞談話のタイトル「美しい日本の私」は「美しい日本"と"私」に一字違いで使われました。山口百恵は「いい日旅立ち」の歌を歌いました。民宿に指導された「東京人向けの料理」までがひとつのキャンペーンに使われていました。国民意識の形成です。
津村喬、 新版 まえがき、 『戦略とスタイル 増補改訂版』、2015年

この「ディスカバー・ジャパン」に言及する文章は1971年に出版された『戦略とスタイル』(「1968 年最大のイデオローグ」といわれる著者の代表作 [新版広告惹句])が最近、増補改訂され再出版された版のまえがきにある。1971年に出版された『戦略とスタイル』について当時の状況などを説明している。

おいらが、ぎょっとしたのは、「(大阪)万博」と「山口百恵・いい日旅立ち」のギャップである。

たしかに、おいらのかすかな記憶でも、「ディスカバー・ジャパン」と云えば山口百恵の「いい日旅立ち」という連想はある。1980年間近の頃と記憶している。でも、針生の文章では(大阪)万博の年=1970年とある。そして、上記YouTubeもそうだ。

調べた。wikipedia = [いい日旅立ち]。 国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンは10年続いたのだ。そして、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンにも2時代あるとのこと。「一枚のキップから」キャンペーンと「いい日旅立ち」キャンペーン。おいらがかすかに覚えているのは、「いい日旅立ち」キャンペーンなのだ。

■ まとめ

上記、1970年のCMを見て、終戦直後のパンパンのねぇちゃんかと思ったょ。

1970年の日本ってこんなんだんったんだろうか? びっくりした。

今日、おいらは、日本を発見した。

▼ 補遺

recover Japan で画像検索すると、⇒ こうなる