通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを獲らず

2019年01月26日 | まんが・テレビ・映画
立川文庫版『猿飛佐助』ことわざ紹介(その3)

幸村、家臣たちを従え猪狩りにやってくる

自分を見下ろす猿を幸村がにらみつけると、猿は木から落ちて、ひれ伏した






雪花山人『立川文庫傑作選 猿飛佐助』(角川ソフィア文庫 2003年)では、各章の冒頭部に、その章の内容にあったことわざが添えてある。

このことわざとともに、本の内容を紹介しています。








↓雪花山人『立川文庫傑作選 猿飛佐助』については、こちら↓

『猿飛佐助―立川文庫傑作選 (角川ソフィア文庫) 雪花 山人』amazon





前回紹介したのは、「人学ばざれば智なし。玉磨かざれば光なし」。

これは、「人学ばざれば智なし」と、「玉磨かざれば光なし」の、ふたつのことわざが合わさっとるんじゃの。

「人学ばざれば智なし」は、人は生まれた時、何も知らない存在だから、学ぶことを通してしか智恵を得ることができない、という意味。

「玉磨かざれば光なし」は、たとえすぐれた才能や素質を持つ人でも、努力して自分を磨かなければ、その才能や素質を活かせない、という意味。



この物語の主人公・佐助は、信州(しんしゅう)鳥居峠(とりいとうげ)のふもとに住む、鷲塚佐太夫(わしづか さだゆう)という郷士(ごうし)のせがれに生まれた。

毎日、山に入って猿たちと遊び暮らしていた佐助は、10歳になったある日、思い立って武術の修業を始める。

そこを通りかかったのが、後を託す若者を探して諸国を旅していた、忍術の第一人者・戸沢白雲斎(とざわ はくうんさい)。

その白雲斎の目に留まった佐助は、3年間忍術を仕込まれた。

そして、さきに紹介したことわざどおり、その才能を開花させた佐助は忍術の奥義を極め、免許皆伝の巻物を受け取る。





↓前回は、こちら↓

虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す





今回紹介することわざは、「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入る時は、猟師(りょうし)もこれを獲(と)らず」。

正しくは、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」という。

窮鳥、逃げ場を失った鳥が懐に飛び込んでくれば、鳥を撃つのが仕事である猟師であっても、これを哀れに思って殺すことはしない。

そこから、窮地に陥った者が助けを求めてきたら、どんな理由があろうと助けてあげるものだ、という意味なんじゃ。





白雲斎に鍛えられ、忍術の奥義を極めた佐助。

しかし、信州の片田舎にあってはそれを披露する相手もいない。

そんなある日、信州・上田の領主真田家の若君・与三郎(よさぶろう。真田幸村)が猪狩りで鳥居峠にやってくることになった。

万が一、失礼があってはならないので、この日は峠に近づかぬようにとのお達しがあった。

それを聞いた佐助は、手ぐすねを引いて待つ。

「もし、おれの遊び友だちの猿や猪を討つというなら、助けてやらねば」





そして、猪狩りの当日。

16歳の幸村は、

望月六郎(もちづき ろくろう)、

穴山岩千代(あなやま いわちよ)、

海野六郎(うんの ろくろう)、

三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)、

三好伊三入道(みよし いさにゅうどう)、

筧 十造(かけい じゅうぞう)

の6人の家来を従えてやってくる。

さらに、家来200人を勢子(せこ)として連れてきた。





勢子って何? という方のために説明しておくと…。

狩りに出かけても、獲物となる獣が、狩りをする人の前をうまい具合に通りかかるとは限らん。

そこで、狩りをしている人たちの前に獲物が行くように、獲物を囲い込んだうえで、狩りをしている人の前に追い出す人たちが必要となる。

その人たちのことを「勢子」と呼ぶんじゃの。





勢子たちが追い出す獲物を、幸村と家来たちは射倒し、それぞれ互いの手柄をたたえあった。

猪狩りも盛りとなったころ、幸村の頭上に一匹の猿がいるのに家来が気づいた。

目を爛々(らんらん)と輝かせ、自分たちを見下ろしているその猿を見つけた幸村。

「予(よ)の腕前を見よやッ」

と弓を引きしぼり、兵弗(ひょうふつ)と矢を放つ。

猿はしかし、飛び来る矢を右手(めて)で確(しっか)と受け止め、呵々(からから)と笑う。

次こそはと放った矢を、今度は左手(ゆんで)で丁(ちょう)と受け止める。

猿に矢を受け止められ、怒り心頭に発した(いかりしんとうにはっした。激しく怒る)幸村。

大喝一声(だいかついっせい。大きなひと声でしかりつける)して、猿をにらみつける。

その威光に恐れをなしたか、猿は木から落ち、幸村の足元にひれ伏した。

ここで、今回紹介することわざ、「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを獲らず」が出てくる。

追い詰められた猿が足元にひれ伏したのであれば、幸村はこれ哀れに思い、殺したりすることはない。

これにて一件落着。





…のでは、猪狩りの話はここで終わってしまう。

また、いざとなれば助けに行こうと待ちかまえていた佐助の出番もなくなる。

真田十勇士(さなだじゅうゆうし)をご存じの方なら、こういうときにこそ出張(ば)ってくる人は誰か、もうお分かりでしょう。

そう! その人こそ、「横紙破り」の三好清海入道。

横紙の紙とは、和紙のこと。

和紙は漉(す)いた目が縦に通っているので、縦に破るとすっと破れるが、横には破りづらい。

その破りにくいのを無理やり破ろうとするところから、自分の思ったとおりのことを無理に押し通そうとすること、また、そのような人のことを「横紙破り」と呼ぶんじゃ。





その横紙破りの清海入道は、幸村に向かって言いはなつ。

「こんな猿、煮て喰ってしまいましょう」と。





助けをこう猿はどうなる?

佐助は、そして幸村はどういう行動に出る?

というわけで、次回に続く。





…以下、余談。



みなさんは、真田十勇士をご存じでしょうか?

真田幸村に仕えたとされる10人の家臣(もちろん架空の人物)をこう呼びます。

本文中に出てきた、十勇士のうち6人を紹介すると…。



■望月六郎…真田家譜代の家臣の家に生まれた、幸村の側近の一人。

爆弾作りが得意。

大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。



■穴山岩千代…「岩千代」は幼名で、一般には「小助(こすけ)」の名で知られる。

武田信玄の重臣・穴山梅雪(あなやま ばいせつ)の甥ともいわれ、幸村の側近の一人。

大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。



■海野六郎…真田家譜代の家臣の家に生まれた、幸村の側近の一人。

大坂の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちのびた。



■三好清海入道…出羽国亀田城主の息子で、遠縁にあたる真田家を頼って幸村に仕えた。

坊主頭の大男で、18貫(かん。18貫=約68キロ。今でいえば、成人男性ひとりくらいの重さがある)の棒を振り回す怪力。

酒好きで単細胞な、どこか憎めない男。



■三好伊三入道…三好清海入道の弟で、兄とともに幸村に仕えた。

大坂夏の陣では、兄とともに切腹して果てた。



■筧 十造(蔵)…豊臣譜代の蜂須賀家の家臣だったが、幸村に心引かれ、志願して家臣となった。

当時、最先端の武器であった種子島を扱うことから、鉄砲隊を率いて活躍する。

大坂の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちのびた。




以上の6人に、

猿飛佐助幸助、(さるとび さすけ ゆきよし)、

由利鎌之助春房(ゆり かまのすけ はるふさ)、

霧隠才蔵宗連(きりがくれ さいぞう むねつれ)

の3人が加わった計9人が活躍するのが、この『立川文庫傑作選 猿飛佐助』という物語。



9人となると、真田十勇士の10人にはひとり足らん。

残るひとりは、根津甚八(ねづ じんぱち)。



■根津甚八…父と死別したのち、海賊の一味となり、首領にまで出世。

幸村が秀吉のもとにいた時、九鬼(くき)水軍の情勢を探ることを命じられ熊野灘に赴いたときに出会い、十勇士の一員となる。

大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。




余談ついでに…。



俳優・根津甚八(本名:根津透)さんの芸名は、真田十勇士の根津甚八からとったもの。

わしにとって根津さんは、NHK大河ドラマ『黄金の日日』(1978年)で石川五右衛門役以来の大ファン。

アニメ『天使のたまご』(1985年)での少年役、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)の柘植行人役が忘れられません。(どちらも押井守監督作品)

その根津さんは2016年12月29日、肺炎のため69歳で亡くなられました。

慎んでご冥福をお祈り申し上げます。





↓真田十勇士については、こちら↓

「真田十勇士」上田市デジタルアーカイブポータルサイト





今日は、立川文庫版『猿飛佐助』のことわざ(その3)「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを獲らず」について話をさせてもらいました。

次回は、(その4)「天から降ったか地から湧いたか」の予定じゃ。

ほいじゃあ、またの。
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広島県物産共進会

2019年01月22日 | 広島の話題
原爆ドーム物語(その1)

広島県物産陳列館として建設された

広島県産品の販売促進拠点として








(撮影日:2017年2月11日)


今、「原爆ドーム」と呼ばれとる建物は、「広島県物産陳列館」として計画され、今から104年前の1915年(大正4年)4月に竣工。

陳列館は、県内の物産を陳列(ちんれつ。人々に見せるために、物を並べて置くこと)することで国内外に知ってもらい、販売につなげるための勧業(かんぎょう。産業を奨励すること)施設として計画された。

これを計画したのは当時の広島県知事・寺田祐之(てらだ すけゆき。広島県知事は1913年~1916年)で、設計を手がけたのはチェコ人の建築家、ヤン・レツル。





↓原爆ドームについては、こちら↓

「原爆ドーム トップページ」広島市





その物産陳列館の落成記念と、大正天皇の即位記念として行われたのが、広島県物産共進会。

期間は、落成式が行われた4月5日から5月14日までの40日間。

広島県内はもとより、各都道府県や、当時の日本が支配しとった朝鮮・台湾からの品物も出展され、78万人近い人が訪れたという。





第一会場は当然、物産陳列館。

ここの2・3階、主に展示室として使われたスペースでは、県内の特産品がケースに入れて展示された。

このとき、その優秀性を認められて、創始者の大坂屋吉兵衛が功労者として表彰されたのが、安芸郡矢野村(現:安芸区矢野)のかもじ(髢)。

「かもじ」いうても、ご存じのない方がほとんどじゃろう。

女性がまだ日本髪を結(ゆ)いよったころ、髪型を整えたりするために使うた、いわゆる付け毛のことをいうそうじゃ。

JR呉線の矢野駅近くにある尾崎神社には、これを記念して建てられた「髢之碑」がある。




(撮影日:2010年5月2日)



余談じゃが、わしのおふくろも、わしを産んだころの写真(当時はまだ白黒写真!)を見ると、まだ日本髪を結うとった。

子育てに追われるようになって日本髪を結うひまものう(=なく)なって、髪を短く刈ってしもうたが。





第二会場は、西練兵場(れんぺいじょう)。

西練兵場ほ、今の紙屋町あたりにあった、陸軍の訓練場のこと。

ここでは、日光東照宮とその周辺を模型で再現した日光館が設けられたという。

そうそう、物産陳列館の落成式は、ここで行われたそうじゃ。





陳列館の北側にある商工会議所では、国産奨励展覧会。

立町にある崇徳教社では、自治民政資料展覧会。

宇品港では軍艦拝覧が、それぞれ行われた。





…以下、余談。



矢野かもじは今、広島県の指定伝統的工芸品に指定されとる。

が、その矢野かもじの唯一の製造業者で、かつらメーカーのクスノキが今年の3月をもって製造をやめる。

広島県は、クスノキの廃業後、矢野かもじの県としての指定伝統的工芸品の指定を解除するそうじゃ。





↓矢野かもじについては、こちら↓

「矢野かもじ」広島県





【参考文献】

広島市郷土資料館 調査報告書 第19集『大正時代の広島』広島市郷土資料館 2007年1月

『廣島から広島 ドームが見つめ続けた街展』広島県立美術館 2010年8月

「「矢野かもじ」製造業者、3月撤退」中國新聞 2019年1月7日






今日は、落成した広島県物産陳列館(現:原爆ドーム)を祝って行われた広島県物産共進会について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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人学ばざれば智なし。玉磨かざれば光なし

2019年01月20日 | まんが・テレビ・映画
立川文庫版『猿飛佐助』ことわざ紹介(その2)

猿飛佐助(さるとび さすけ)の生い立ち

戸沢白雲斎(とざわ はくうんさい)の下で修行する






雪花山人『立川文庫傑作選 猿飛佐助』(角川ソフィア文庫 2003年)では、各章の冒頭部に、その章の内容にあったことわざが添えてある。

このことわざとともに、本の内容を紹介しています。








↓雪花山人『立川文庫傑作選 猿飛佐助』については、こちら↓

『猿飛佐助―立川文庫傑作選 (角川ソフィア文庫) 雪花 山人』amazon





前回は、「虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す」

虎が死んだ後にはその美しい毛皮を残すように、人は死んだ後に名前を残すような生き方をすべき、という意味。

佐助が仕えた武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)をほめたたえるために使われたんじゃの。





↓前回は、こちら↓

虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す





今回は、「人学ばざれば智なし。玉磨かざれば光なし」



「人学ばざれば智なし」は、正しくは「人学ばざれば智無し、智無きを愚人と為す」という。

人は生まれた時、何も知らない存在だから、学ぶことを通してしか智恵を得ることができない、という意味。



「玉磨かざれば光なし」は、たとえすぐれた才能や素質を持つ人でも、努力して自分を磨かなければ、その才能や素質を活かせない、という意味。



これらのことわざは、この物語の主人公・猿飛佐助をたたえるために使われとるんじゃ。





というわけで、佐助の生い立ちについて紹介しよう。





佐助は、信州(しんしゅう)鳥居峠(とりいとうげ)のふもとに住む、鷲塚佐太夫(わしづか さだゆう)という郷士(ごうし)のせがれに生まれた。

佐助といえば、天涯孤独というイメージがあるんじゃが、この物語では父と姉・小夜(さよ)がおる。

小さいころから身軽だった佐助は、山に入っては猿たちと木から木へ飛び回ってあそんでいた。

これを見た村人たちは、「猿の生まれ変わりじゃあるまいか」とうわさする。

余談じゃが、まだ「猿飛」佐助じゃないんじゃの。





10歳になった佐助は、思うところあって、山の中で武術のけいこを始める。

そこを通りかかった老人から声をかけられ、佐助は答えた。


「小父(おじ)さん、私(わし)は武術の極意を覚えたいのじゃ」

「シテ、どうする積もりじゃ」

「腕前優れた人間となり、天下に名を揚(あ)げたい考えでございます」

「豪(えら)いッ、少年ながら天晴なる精神。ヨシ、其方の熱心なる志に愛(め)で、これから乃公(わし)が教えてやる」



…というわけで佐助は、その老人から昼は武術、夜は忍術をみっちりと仕込まれた。





3年後、佐助は修行のかいあって、その極意に達した。

その佐助に、老人は一巻の巻物を与える。

忍者が口にくわえて呪文を唱えると、ドロンと消えたりできるという、あの巻物じゃの。

よろんだ佐助は、「今まで教えてもらったお礼はけっして忘れません。つきましては、お名前をお教えください」と老人に頼む。

3年も一緒にいて修行をしていながら、お師匠様にあたる人の名前さえ知らなかったの?

老人はそれに答えて、


「成る程、今まで我が名を明かさざりし故、その不審は道理千万、今こそ名乗って利かす。我こそは摂州(せっしゅう)花隈(はなくま)の城主戸沢山城守(とざわやましろのかみ)の実父戸沢白雲斎(はくうんさい)といえる者である」



と名乗ったあと、



「お前の腕前なら、あらゆる術を使うことができる。

身の行いを慎み、よい主(あるじ)を見つけて奉公せよ。

さすれば、天下に名をとどろかすことができるであろう」



と言い残し、雲に乗って東の方へ飛び去っていった。

雲に乗って飛んでいくあたり、まるで西遊記(さいゆうき)の孫悟空(そん ごくう)。

このあたりの荒唐無稽(こうとうむけい。でたらめ)なところが、講談のおもしろいところでありますが。





というわけで、奥義を極めた佐助。

しかし、信州の片田舎にあってはそれを披露する相手もいない。

そんなある日、信州・上田の領主真田家の若君・与三郎(よさぶろう。真田幸村)が鹿狩りで鳥居峠にやってくることになった。

佐助はどういう行動に出る?





今日は、立川文庫版『猿飛佐助』のことわざ(その2)「人学ばざれば智なし。玉磨かざれば光なし」について話をさせてもらいました。

次回は、(その3)「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを獲らず」の予定じゃ。

ほいじゃあ、またの。
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拝殿はどっちを向いている?

2019年01月17日 | 見て歩き
饒津神社(その2)

拝殿が参道に対して斜めに建っているのは、なぜ?

ヒント:祭神は広島藩祖・浅野長政(あさの ながまさ)






エキキタ、JR広島駅北口側の二葉山(ふたばやま)のふもとに広がる二葉の里(ふたばのさと)。

そこには、ななつの由緒ある寺社・仏閣があり、七福神めぐりをすることができる。

そのうちのひとつが、饒津神社(にぎつじんじゃ)。








↓饒津神社については、こちら↓

饒津神社





↓七福神めぐりについては、こちら↓

「二葉の里歴史の散歩道 コース紹介 ~らくらく七福神コース~」広島市 東区役所





今回は、饒津神社の拝殿はどこに向かって建っているのか? という話。


饒津神社の本殿と拝殿は、参道に対して斜めに建っている。

そうなった理由はなにか? を解き明かしていこうという話。





以下、写真を使って説明しよう。







饒津神社の参道は、まっすぐに伸びていて、しかも長い。







向唐門(むかいからもん)から振り返る。

ここまでで、ゆうに100メートル以上はある。







向唐門をくぐってからも、参道はまっすぐに伸びる。

行きついたところには、とにかく幅の広い階段が見える。







階段の上から向唐門を振り返る。

向唐門の奥にあるのが、社務所。

こうやってみると、饒津神社の参道はまっすぐに、150メートル以上は伸びていると思われる。







階段を上ってみると、拝殿の前で、参道がいきなり右手側に曲がっていることがわかる。







拝殿側から見たところ。

まっすぐに伸びてきた参道を、ここにきていきなり曲げた、その理由はなんじゃろか?





前回、饒津神社には浅野家広島藩祖(はんそ)・浅野長政(あさの ながまさ)が祀られているという話をした。

長政は、初代藩主の浅野長晟(ながあきら)の父にあたる。

その長政を祀るため、浅野家第4代広島藩主・浅野綱長(つななが)が宝永3年(1706年)、位牌堂を建立した。

この位牌堂が饒津神社の始まりになるそうじゃ。





↓前回については、こちら↓

浅野家広島藩祖を祀る神社





饒津神社には、浅野家広島藩祖が祀られている。

ということは、広島城を見守るために建てられたのが饒津神社。

つまり、その拝殿と、その奥にある本殿は広島城を向くように建てられた、というわけなんじゃ。







境内には、それを紹介する解説板も立てられている。


3階以上の建物がなかった江戸時代には、五層(=5階建て)の天守を持つ広島城は、はるか遠くからでもよく見えたと思われる。

ということは、京橋川(きょうばしがわ)をはさんで、直線距離で1キロメートルくらいの距離にある饒津神社からは、広島城がくっきりと見えたことじゃろう。

高層ビル群が立ち並ぶ今では、広島城を見ることはかなわんが…。





…以下、余談。




参道の途中にある、とにかく幅が広い階段。

その幅は25メートルもあるといわれる。

これは、広島藩の藩士たちがそろって参拝できるようにと、この幅になったといわれる。

もしそれが本当じゃったとして、どれだけの人数で参拝されたんじゃろか?





訪問日:2018年11月11日





今日は、拝殿はどっちを向いている?ということで、拝殿と本殿が広島城の方向を向いて立っている饒津神社について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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双葉山の70連勝を阻止した力士、安芸ノ海

2019年01月15日 | 広島の話題
宇品で生まれる

双葉山に勝って大金星をあげる

広島出身で唯一の横綱






皆さんは、安藝ノ海(あきのうみ。以下、「安芸ノ海」と表記)という力士をご存じですかいの?

ちょうど80年前の今日、1939年1月15日、双葉山(ふたばやま)の70連勝を阻止。

そして、広島県出身で唯一、横綱(第37代)までのぼりつめた力士なんじゃの。

先日、広島市郷土資料館に行くと、その安芸ノ海を紹介した紙芝居が展示してあった。

今回は、それをもとに紹介していこう。





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館





安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお)、本名:永田 節男(ながた たかお)は、今から105年前の1914年(大正3年)5月30日、広島市宇品海岸で生まれる。

四股名(しこな。力士の名前)と本名とでは、「節男」の読み方が異なるのでご注意ください。

節男は、体格がよくスポーツ万能で、負けん気の強い子どもじゃったそうな。

宇品尋常高等小学校(現:宇品小学校)を卒業後は、実家の食料品の手伝いをする。

具体的にいうと、宇品の港に入ってくる艀(はしけ)に食料品を運ぶ。

艀とは、港と大型船との間を荷物や乗客を運ぶ小さな船のこと。

つまり、艀に運んだ食料品を、沖合に泊まっている大型船に積み替えるという作業をされとったんじゃの。

当然、重い荷物をかついで運ばにゃならん。

また、艀と桟橋(さんばし)の上にかけられた細い渡し板の上を、海に落ちんよう、バランスを取りながら運ぶ必要もある。

そこで節男は、自然と足腰が鍛えられたということじゃ。





1931年(昭和6年)、広島市内で開催された関西中学校相撲選手権を観戦中、出羽海(でわのうみ)親方にスカウトされて入門。

このとき17歳。

翌32年(昭和7年)2月場所で初土俵を踏む。

1933年(昭和8年)5月、序二段のとき「安芸ノ海」と改名。

1938年(昭和13年)、1月場所で新入幕を果たす。





そして、1939年(昭和14年)の1月場所の4日目(1月15日)、世にいう「世紀の一番」を迎える。

前頭三枚目だった安芸ノ海の相手は、これが初顔合わせで、69連勝中の第35代横綱・双葉山。

大相撲での「69連勝」という記録は、あれから80年たった今でも破られていないという、文字どおりの大記録なんじゃの。



右からすくいます、双葉山。

左足外掛けで防ぎます、安芸ノ海。

さらに再度、二度目、右すくい投げの強襲にて双葉山。

これで双葉山、堅固な腰が完全にくずれました。

得たりやおうと安芸ノ海、左足外掛けの強襲。

また、強襲。

ついに双葉山、独特の三枚腰も、激しく、雄々しくくずれさりました。

双葉山、敗る! 双葉山、敗る! 双葉山、敗る!

時に昭和14年1月場所4日目、ついに70連勝はなりませんでした。


(『紙芝居 第三十七代横綱 安藝ノ海物語』うじな通実行委員会)




横綱の70連勝を阻止するという大金星をあげた安芸ノ海。

この金星は、しかし、安芸ノ海にとって唯一の金星となる。

そして双葉山とはこの後9戦するも、二度と勝てなかったというから、勝負事はわからんもんじゃのう。


それはともかく、一躍英雄となった安芸ノ海の母校、宇品尋常高等小学校では、その功績をたたえて相撲場がつくられた。

その勝利から3か月後の1939年4月、安芸ノ海はその相撲場開きに出席、土俵入りを披露したそうじゃ。





↓世紀の一番、双葉山対安芸ノ海の映像は、こちら↓

「大相撲 双葉山 対 安藝ノ海」NHK名作選(動画他) NHKオンライン





双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れないと、安芸ノ海は精進を続ける。

1940年(昭和15年)の1月場所で関脇に昇進。

同年の5月場所では14勝1敗で初優勝を果たし、場所後に大関に昇進。

ちなみに、安芸ノ海の優勝は、この時1回だけ。

1942年(昭和17年)の5月場所後、横綱へ昇進する。

このとき28歳。





1943年(昭和18年)3月、宇品国民学校(現:宇品小学校)に屋根付相撲場がつくられときも土俵開きに出席、横綱土俵入りを披露した。

1943年といえば、太平洋戦争中。

兵隊たちを慰問(いもん。なぐさめる)するため、戦地である中国大陸で大相撲が行われた。

安芸ノ海はこのときマラリアにかかる。

その後、マラリアが再発したり、ケガに悩まされるようになった。





戦後、1946年(昭和21年)11月場所で現役を引退。

このとき32歳。

安芸ノ海の生涯戦歴は、209勝101敗38休。





…以下、余談。





(訪問日:2010年2月20日)


安芸ノ海こと永田節男の墓は、南区元宇品にある観音寺にある。











(訪問日:2018年2月12日)


広島高速3号線の高架下、宇品海岸2交差点内に安芸ノ海の生家があった。

その生家跡の近くには、安芸ノ海を紹介するパネルが設置されている。





↓安芸ノ海についての関連記事は、こちら↓

双葉山の70連勝を阻止した、広島県出身の力士は誰?





今日は、双葉山の70連勝を阻止した、広島出身唯一の横綱、安芸ノ海について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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