立川文庫版『猿飛佐助』ことわざ紹介(その3)
幸村、家臣たちを従え猪狩りにやってくる
自分を見下ろす猿を幸村がにらみつけると、猿は木から落ちて、ひれ伏した
雪花山人『立川文庫傑作選 猿飛佐助』(角川ソフィア文庫 2003年)では、各章の冒頭部に、その章の内容にあったことわざが添えてある。
このことわざとともに、本の内容を紹介しています。
↓雪花山人『立川文庫傑作選 猿飛佐助』については、こちら↓
『猿飛佐助―立川文庫傑作選 (角川ソフィア文庫) 雪花 山人』amazon
前回紹介したのは、「人学ばざれば智なし。玉磨かざれば光なし」。
これは、「人学ばざれば智なし」と、「玉磨かざれば光なし」の、ふたつのことわざが合わさっとるんじゃの。
「人学ばざれば智なし」は、人は生まれた時、何も知らない存在だから、学ぶことを通してしか智恵を得ることができない、という意味。
「玉磨かざれば光なし」は、たとえすぐれた才能や素質を持つ人でも、努力して自分を磨かなければ、その才能や素質を活かせない、という意味。
この物語の主人公・佐助は、信州(しんしゅう)鳥居峠(とりいとうげ)のふもとに住む、鷲塚佐太夫(わしづか さだゆう)という郷士(ごうし)のせがれに生まれた。
毎日、山に入って猿たちと遊び暮らしていた佐助は、10歳になったある日、思い立って武術の修業を始める。
そこを通りかかったのが、後を託す若者を探して諸国を旅していた、忍術の第一人者・戸沢白雲斎(とざわ はくうんさい)。
その白雲斎の目に留まった佐助は、3年間忍術を仕込まれた。
そして、さきに紹介したことわざどおり、その才能を開花させた佐助は忍術の奥義を極め、免許皆伝の巻物を受け取る。
↓前回は、こちら↓
虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す
今回紹介することわざは、「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入る時は、猟師(りょうし)もこれを獲(と)らず」。
正しくは、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」という。
窮鳥、逃げ場を失った鳥が懐に飛び込んでくれば、鳥を撃つのが仕事である猟師であっても、これを哀れに思って殺すことはしない。
そこから、窮地に陥った者が助けを求めてきたら、どんな理由があろうと助けてあげるものだ、という意味なんじゃ。
白雲斎に鍛えられ、忍術の奥義を極めた佐助。
しかし、信州の片田舎にあってはそれを披露する相手もいない。
そんなある日、信州・上田の領主真田家の若君・与三郎(よさぶろう。真田幸村)が猪狩りで鳥居峠にやってくることになった。
万が一、失礼があってはならないので、この日は峠に近づかぬようにとのお達しがあった。
それを聞いた佐助は、手ぐすねを引いて待つ。
「もし、おれの遊び友だちの猿や猪を討つというなら、助けてやらねば」
そして、猪狩りの当日。
16歳の幸村は、
望月六郎(もちづき ろくろう)、
穴山岩千代(あなやま いわちよ)、
海野六郎(うんの ろくろう)、
三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)、
三好伊三入道(みよし いさにゅうどう)、
筧 十造(かけい じゅうぞう)
の6人の家来を従えてやってくる。
さらに、家来200人を勢子(せこ)として連れてきた。
勢子って何? という方のために説明しておくと…。
狩りに出かけても、獲物となる獣が、狩りをする人の前をうまい具合に通りかかるとは限らん。
そこで、狩りをしている人たちの前に獲物が行くように、獲物を囲い込んだうえで、狩りをしている人の前に追い出す人たちが必要となる。
その人たちのことを「勢子」と呼ぶんじゃの。
勢子たちが追い出す獲物を、幸村と家来たちは射倒し、それぞれ互いの手柄をたたえあった。
猪狩りも盛りとなったころ、幸村の頭上に一匹の猿がいるのに家来が気づいた。
目を爛々(らんらん)と輝かせ、自分たちを見下ろしているその猿を見つけた幸村。
「予(よ)の腕前を見よやッ」
と弓を引きしぼり、兵弗(ひょうふつ)と矢を放つ。
猿はしかし、飛び来る矢を右手(めて)で確(しっか)と受け止め、呵々(からから)と笑う。
次こそはと放った矢を、今度は左手(ゆんで)で丁(ちょう)と受け止める。
猿に矢を受け止められ、怒り心頭に発した(いかりしんとうにはっした。激しく怒る)幸村。
大喝一声(だいかついっせい。大きなひと声でしかりつける)して、猿をにらみつける。
その威光に恐れをなしたか、猿は木から落ち、幸村の足元にひれ伏した。
ここで、今回紹介することわざ、「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを獲らず」が出てくる。
追い詰められた猿が足元にひれ伏したのであれば、幸村はこれ哀れに思い、殺したりすることはない。
これにて一件落着。
…のでは、猪狩りの話はここで終わってしまう。
また、いざとなれば助けに行こうと待ちかまえていた佐助の出番もなくなる。
真田十勇士(さなだじゅうゆうし)をご存じの方なら、こういうときにこそ出張(ば)ってくる人は誰か、もうお分かりでしょう。
そう! その人こそ、「横紙破り」の三好清海入道。
横紙の紙とは、和紙のこと。
和紙は漉(す)いた目が縦に通っているので、縦に破るとすっと破れるが、横には破りづらい。
その破りにくいのを無理やり破ろうとするところから、自分の思ったとおりのことを無理に押し通そうとすること、また、そのような人のことを「横紙破り」と呼ぶんじゃ。
その横紙破りの清海入道は、幸村に向かって言いはなつ。
「こんな猿、煮て喰ってしまいましょう」と。
助けをこう猿はどうなる?
佐助は、そして幸村はどういう行動に出る?
というわけで、次回に続く。
…以下、余談。
みなさんは、真田十勇士をご存じでしょうか?
真田幸村に仕えたとされる10人の家臣(もちろん架空の人物)をこう呼びます。
本文中に出てきた、十勇士のうち6人を紹介すると…。
■望月六郎…真田家譜代の家臣の家に生まれた、幸村の側近の一人。
爆弾作りが得意。
大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。
■穴山岩千代…「岩千代」は幼名で、一般には「小助(こすけ)」の名で知られる。
武田信玄の重臣・穴山梅雪(あなやま ばいせつ)の甥ともいわれ、幸村の側近の一人。
大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。
■海野六郎…真田家譜代の家臣の家に生まれた、幸村の側近の一人。
大坂の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちのびた。
■三好清海入道…出羽国亀田城主の息子で、遠縁にあたる真田家を頼って幸村に仕えた。
坊主頭の大男で、18貫(かん。18貫=約68キロ。今でいえば、成人男性ひとりくらいの重さがある)の棒を振り回す怪力。
酒好きで単細胞な、どこか憎めない男。
■三好伊三入道…三好清海入道の弟で、兄とともに幸村に仕えた。
大坂夏の陣では、兄とともに切腹して果てた。
■筧 十造(蔵)…豊臣譜代の蜂須賀家の家臣だったが、幸村に心引かれ、志願して家臣となった。
当時、最先端の武器であった種子島を扱うことから、鉄砲隊を率いて活躍する。
大坂の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちのびた。
以上の6人に、
猿飛佐助幸助、(さるとび さすけ ゆきよし)、
由利鎌之助春房(ゆり かまのすけ はるふさ)、
霧隠才蔵宗連(きりがくれ さいぞう むねつれ)
の3人が加わった計9人が活躍するのが、この『立川文庫傑作選 猿飛佐助』という物語。
9人となると、真田十勇士の10人にはひとり足らん。
残るひとりは、根津甚八(ねづ じんぱち)。
■根津甚八…父と死別したのち、海賊の一味となり、首領にまで出世。
幸村が秀吉のもとにいた時、九鬼(くき)水軍の情勢を探ることを命じられ熊野灘に赴いたときに出会い、十勇士の一員となる。
大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。
余談ついでに…。
俳優・根津甚八(本名:根津透)さんの芸名は、真田十勇士の根津甚八からとったもの。
わしにとって根津さんは、NHK大河ドラマ『黄金の日日』(1978年)で石川五右衛門役以来の大ファン。
アニメ『天使のたまご』(1985年)での少年役、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)の柘植行人役が忘れられません。(どちらも押井守監督作品)
その根津さんは2016年12月29日、肺炎のため69歳で亡くなられました。
慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
↓真田十勇士については、こちら↓
「真田十勇士」上田市デジタルアーカイブポータルサイト
今日は、立川文庫版『猿飛佐助』のことわざ(その3)「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを獲らず」について話をさせてもらいました。
次回は、(その4)「天から降ったか地から湧いたか」の予定じゃ。
ほいじゃあ、またの。
幸村、家臣たちを従え猪狩りにやってくる
自分を見下ろす猿を幸村がにらみつけると、猿は木から落ちて、ひれ伏した
雪花山人『立川文庫傑作選 猿飛佐助』(角川ソフィア文庫 2003年)では、各章の冒頭部に、その章の内容にあったことわざが添えてある。
このことわざとともに、本の内容を紹介しています。
↓雪花山人『立川文庫傑作選 猿飛佐助』については、こちら↓
『猿飛佐助―立川文庫傑作選 (角川ソフィア文庫) 雪花 山人』amazon
前回紹介したのは、「人学ばざれば智なし。玉磨かざれば光なし」。
これは、「人学ばざれば智なし」と、「玉磨かざれば光なし」の、ふたつのことわざが合わさっとるんじゃの。
「人学ばざれば智なし」は、人は生まれた時、何も知らない存在だから、学ぶことを通してしか智恵を得ることができない、という意味。
「玉磨かざれば光なし」は、たとえすぐれた才能や素質を持つ人でも、努力して自分を磨かなければ、その才能や素質を活かせない、という意味。
この物語の主人公・佐助は、信州(しんしゅう)鳥居峠(とりいとうげ)のふもとに住む、鷲塚佐太夫(わしづか さだゆう)という郷士(ごうし)のせがれに生まれた。
毎日、山に入って猿たちと遊び暮らしていた佐助は、10歳になったある日、思い立って武術の修業を始める。
そこを通りかかったのが、後を託す若者を探して諸国を旅していた、忍術の第一人者・戸沢白雲斎(とざわ はくうんさい)。
その白雲斎の目に留まった佐助は、3年間忍術を仕込まれた。
そして、さきに紹介したことわざどおり、その才能を開花させた佐助は忍術の奥義を極め、免許皆伝の巻物を受け取る。
↓前回は、こちら↓
虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す
今回紹介することわざは、「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入る時は、猟師(りょうし)もこれを獲(と)らず」。
正しくは、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」という。
窮鳥、逃げ場を失った鳥が懐に飛び込んでくれば、鳥を撃つのが仕事である猟師であっても、これを哀れに思って殺すことはしない。
そこから、窮地に陥った者が助けを求めてきたら、どんな理由があろうと助けてあげるものだ、という意味なんじゃ。
白雲斎に鍛えられ、忍術の奥義を極めた佐助。
しかし、信州の片田舎にあってはそれを披露する相手もいない。
そんなある日、信州・上田の領主真田家の若君・与三郎(よさぶろう。真田幸村)が猪狩りで鳥居峠にやってくることになった。
万が一、失礼があってはならないので、この日は峠に近づかぬようにとのお達しがあった。
それを聞いた佐助は、手ぐすねを引いて待つ。
「もし、おれの遊び友だちの猿や猪を討つというなら、助けてやらねば」
そして、猪狩りの当日。
16歳の幸村は、
望月六郎(もちづき ろくろう)、
穴山岩千代(あなやま いわちよ)、
海野六郎(うんの ろくろう)、
三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)、
三好伊三入道(みよし いさにゅうどう)、
筧 十造(かけい じゅうぞう)
の6人の家来を従えてやってくる。
さらに、家来200人を勢子(せこ)として連れてきた。
勢子って何? という方のために説明しておくと…。
狩りに出かけても、獲物となる獣が、狩りをする人の前をうまい具合に通りかかるとは限らん。
そこで、狩りをしている人たちの前に獲物が行くように、獲物を囲い込んだうえで、狩りをしている人の前に追い出す人たちが必要となる。
その人たちのことを「勢子」と呼ぶんじゃの。
勢子たちが追い出す獲物を、幸村と家来たちは射倒し、それぞれ互いの手柄をたたえあった。
猪狩りも盛りとなったころ、幸村の頭上に一匹の猿がいるのに家来が気づいた。
目を爛々(らんらん)と輝かせ、自分たちを見下ろしているその猿を見つけた幸村。
「予(よ)の腕前を見よやッ」
と弓を引きしぼり、兵弗(ひょうふつ)と矢を放つ。
猿はしかし、飛び来る矢を右手(めて)で確(しっか)と受け止め、呵々(からから)と笑う。
次こそはと放った矢を、今度は左手(ゆんで)で丁(ちょう)と受け止める。
猿に矢を受け止められ、怒り心頭に発した(いかりしんとうにはっした。激しく怒る)幸村。
大喝一声(だいかついっせい。大きなひと声でしかりつける)して、猿をにらみつける。
その威光に恐れをなしたか、猿は木から落ち、幸村の足元にひれ伏した。
ここで、今回紹介することわざ、「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを獲らず」が出てくる。
追い詰められた猿が足元にひれ伏したのであれば、幸村はこれ哀れに思い、殺したりすることはない。
これにて一件落着。
…のでは、猪狩りの話はここで終わってしまう。
また、いざとなれば助けに行こうと待ちかまえていた佐助の出番もなくなる。
真田十勇士(さなだじゅうゆうし)をご存じの方なら、こういうときにこそ出張(ば)ってくる人は誰か、もうお分かりでしょう。
そう! その人こそ、「横紙破り」の三好清海入道。
横紙の紙とは、和紙のこと。
和紙は漉(す)いた目が縦に通っているので、縦に破るとすっと破れるが、横には破りづらい。
その破りにくいのを無理やり破ろうとするところから、自分の思ったとおりのことを無理に押し通そうとすること、また、そのような人のことを「横紙破り」と呼ぶんじゃ。
その横紙破りの清海入道は、幸村に向かって言いはなつ。
「こんな猿、煮て喰ってしまいましょう」と。
助けをこう猿はどうなる?
佐助は、そして幸村はどういう行動に出る?
というわけで、次回に続く。
…以下、余談。
みなさんは、真田十勇士をご存じでしょうか?
真田幸村に仕えたとされる10人の家臣(もちろん架空の人物)をこう呼びます。
本文中に出てきた、十勇士のうち6人を紹介すると…。
■望月六郎…真田家譜代の家臣の家に生まれた、幸村の側近の一人。
爆弾作りが得意。
大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。
■穴山岩千代…「岩千代」は幼名で、一般には「小助(こすけ)」の名で知られる。
武田信玄の重臣・穴山梅雪(あなやま ばいせつ)の甥ともいわれ、幸村の側近の一人。
大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。
■海野六郎…真田家譜代の家臣の家に生まれた、幸村の側近の一人。
大坂の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちのびた。
■三好清海入道…出羽国亀田城主の息子で、遠縁にあたる真田家を頼って幸村に仕えた。
坊主頭の大男で、18貫(かん。18貫=約68キロ。今でいえば、成人男性ひとりくらいの重さがある)の棒を振り回す怪力。
酒好きで単細胞な、どこか憎めない男。
■三好伊三入道…三好清海入道の弟で、兄とともに幸村に仕えた。
大坂夏の陣では、兄とともに切腹して果てた。
■筧 十造(蔵)…豊臣譜代の蜂須賀家の家臣だったが、幸村に心引かれ、志願して家臣となった。
当時、最先端の武器であった種子島を扱うことから、鉄砲隊を率いて活躍する。
大坂の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちのびた。
以上の6人に、
猿飛佐助幸助、(さるとび さすけ ゆきよし)、
由利鎌之助春房(ゆり かまのすけ はるふさ)、
霧隠才蔵宗連(きりがくれ さいぞう むねつれ)
の3人が加わった計9人が活躍するのが、この『立川文庫傑作選 猿飛佐助』という物語。
9人となると、真田十勇士の10人にはひとり足らん。
残るひとりは、根津甚八(ねづ じんぱち)。
■根津甚八…父と死別したのち、海賊の一味となり、首領にまで出世。
幸村が秀吉のもとにいた時、九鬼(くき)水軍の情勢を探ることを命じられ熊野灘に赴いたときに出会い、十勇士の一員となる。
大坂の陣では幸村の影武者となって戦い、戦死。
余談ついでに…。
俳優・根津甚八(本名:根津透)さんの芸名は、真田十勇士の根津甚八からとったもの。
わしにとって根津さんは、NHK大河ドラマ『黄金の日日』(1978年)で石川五右衛門役以来の大ファン。
アニメ『天使のたまご』(1985年)での少年役、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)の柘植行人役が忘れられません。(どちらも押井守監督作品)
その根津さんは2016年12月29日、肺炎のため69歳で亡くなられました。
慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
↓真田十勇士については、こちら↓
「真田十勇士」上田市デジタルアーカイブポータルサイト
今日は、立川文庫版『猿飛佐助』のことわざ(その3)「窮鳥懐に入る時は、猟師もこれを獲らず」について話をさせてもらいました。
次回は、(その4)「天から降ったか地から湧いたか」の予定じゃ。
ほいじゃあ、またの。