「福岡県にあるテーマパーク・スペースワールドが、2017年12月末をもって閉園するじゃろ」
「スペースワールドいうたら、子どもたちが修学旅行で行ったところ。閉園するのはもったいないね」
「その最寄りの駅、JR鹿児島線の「スペースワールド駅」という駅名をどうするか? という記事が出とった」
↓スペースワールド駅については、こちら↓
「閉園で駅名はどうなる? スペースワールド駅」西日本新聞
「うちゃ、名前は変えた方がええと思うけど、やっぱりお金がかかることじゃけぇ難しいところもあるね」
「記事の中に、「他県の事例を探すと、施設がなくなっても名前は残る“名残駅”は多数、存在するようだ。」と書いてあった」
「名残駅って、イルカさんの歌う「なごり雪」みたい。
♪汽車を待つ君の横で 僕は時計を気にしてる~(作詞・作曲:伊勢正三)」
「そこで今回は、広島電鉄の市内電車の停留場名で、名前が変わったものを調べてみた」
「施設や学校がなくなったり、移転したことで名前が変わった停留場名を調べてみました。地名が変わったことによる変更は含めていませんので、あしからずご了承ください」
↓広島電鉄の路線図については、こちら↓
「電車情報:電車路線図」広島電鉄
「調べてみると宇品線(うじなせん)に多かったので、そこから紹介していこうかの」
「宇品線は、広島市の中心部・紙屋町(かみやちょう)から鯉城(りじょう)通り・千田通り・宇品通りを通って広島港を結ぶ路線です」
■中電前
「開業当初(1912年)は、西塔川(せいとうがわ)に架かる西塔橋(せいとうばし)という橋にちなんで、「西塔橋」という名前でした。…広島に西塔川って川があったっけ?」
「西塔川は天然の川じゃのうて、今から400年ほど前、広島城を築城するときに物資を運ぶのに作られた運河じゃった」
「へぇ」
「そこを埋め立てて作られたのが、今の鯉城通りじゃ」
「鯉城いうのは広島城の別名で、鯉=カープから、プロ野球・広島カープの名前もここからきとるんよ」
「市内電車自体が一部、広島城の堀を埋め立てたところを通っとるけぇの。余談じゃが、「鷹野橋(たかのばし)」も西塔川に架かっとった橋の名前からきとるんじゃ」
「1919年ごろ、「西塔橋」から「白神前」と名前を変えました。「白神」いうのは、NHK『ブラタモリ』でも紹介された、あの白神社(しらかみしゃ)」
「江戸時代よりも前、今の広島の街のほとんどは海の中じゃった」
「江戸時代から昭和にかけて、埋め立てたり干拓したりして、広島の街が作られていったんよね」
「ここには海の中に岩礁があって、その岩の上に白い紙を立てて船がぶつからないよう目印にした。そこから白神(紙)社という名前がついたということじゃ」
「…で、戦後「白神社前」になったあとの1971年、今の「中電前」という名前になりました」
■市役所前
「最初は「真菰橋(まこもばし)」という名前でした。真菰橋って、さっき出た西塔橋や鷹野橋と同じように西塔川に架かっていた橋のこと?」
「そのとおり。このあたりも真菰町と呼ばれとったんじゃが、1919年、町名変更で真菰町から国泰寺町に変わったんじゃ」
「真菰町から国泰寺町に変わったら、停留場の名前も変わった?」
「「真菰橋」から「公会堂前」に変わったんじゃの」
「広島市の公会堂って、この辺にあったん?」
「公会堂はこのころ、今の中区役所があるあたりにあったそうじゃ」
「今の広島市公会堂、広島国際会議場は、広島平和記念資料館の西側にあるね」
「戦後、1946年に「市役所前」と名前が変わったんじゃの」
「市役所はいつごろできたん?」
「1929年、広島市は仁保村・矢賀村・牛田村・三篠町・己斐町・古田村・草津町の隣接7か町村と合併。これで人口27万人、全国で7番目の市になった」
「へぇ」
「すると中島新町にあった旧庁舎では手狭になるので、1928年、今の場所に移ってきたそうじゃ」
■日赤病院前
「最初は「高等師範前」という名前でした。「師範」いうたら「先生」のこと」
「1902年に設置された広島高等師範学校(現:広島大学)は、東の東京高等師範学校(現:筑波大学)に対して「教育の西の総本山」と呼ばれる存在じゃったそうな」
「学校の名前が変わるのに合わせて、「大学前」(1936年ころ?)、「広島大学前」(1964年)と名前を変えていきました」
「1980年~90年にかけて広島大学が東広島市へ移転したのに伴って、2001年、今の「日赤病院前」という名前になったんじゃ」
「日赤病院(広島赤十字・原爆病院)は、戦前からこの場所にあったんよね」
「1939年、日本赤十字社広島支部病院として開院。1945年8月6日、原子爆弾が投下された後、調査団が広島を訪れた。彼らは病院にあったレントゲンフィルムが感光していたことで、使われた爆弾が原子爆弾であると断定したんじゃ」
■皆実町六丁目
「1935年、新線に移設されたときの名前が「皆実町(みなみまち)」でした」
「こうの史代さんの漫画『夕凪の街 桜の国』に出てくる平野皆実(ひらの みなみ)の「皆実」は、ここの町名からとられとるんじゃの」
「戦後に「専売局前」、「専売公社前」(1949年ごろ)と名前が変わりました」
「タバコを製造する専売局が、もとは段原にあったんじゃが、1922年、ここに工場を建てて操業を始めたんじゃ」
「むかしは専売公社、今の日本たばこ産業(JT)の工場があったね」
「広島の専売公社といえば、男子バレーボール部「専売広島」が強かった」
「今のJTサンダーズじゃね」
「ここには、世界一のセッターといわれた猫田勝敏にちなんだ猫田記念体育館があるんじゃの」
「工場が閉鎖になったあとの2008年、跡地にゆめタウン広島が開店したんよ」
「「専売公社前」の後、「皆実町三丁目」(1962年ごろ)と名前が変わって、1971年ごろ今の「皆実町六丁目」と名前を変えたんじゃ」
「そういや、広島電鉄の家政女学校があったのも、このあたりじゃったよね」
「家政女学校は太平洋戦争中、運転士や車掌さんたちが動員されて人手が足りなくなったとき、女子の乗務員を育成することを目的として作られた女学校じゃった」
「終戦後、運転士たちが復員してきたことで、1945年9月をもって廃校となりました」
「余談じゃが、わしは小学2年までこの近くに住んどったんじゃの」
■県病院前
「最初は「広陵中学前」という名前でした。広陵中学って、今の広陵高校のこと?」
「ほうじゃの。今のみゆきプラザがあるあたりにあったんじゃ。わしが小(こ)まいころ、親父に連れられて野球部の練習を見に行った記憶があるで」
「広陵高校いうたら今年(2017年)、夏の甲子園に出場して準優勝じゃったね」
「中村奨成選手が1大会で6本のホームランを打って、あのPL学園・清原和博選手の記録を破ったのは記憶に新しいのう」
「中村くんはプロ志望を出したし、今年のドラフト会議(10月26日)が楽しみじゃね」
「1973年、広陵高校が今の安佐南区に移転したのに伴って、1948年から今の「県病院前」に名前を変えたんじゃ」
「県病院(県立広島病院)はいつごろできたん?」
「1877年、公立広島病院として開院。このころは加古町、今の広島市文化交流会館があるあたりにあった」
「加古町には県庁もあったよね」
「近くに市役所が置かれたり、監獄(刑務所)があったりして、加古町は広島の行政の中心地でもあったんじゃ」
「へぇ」
「1945年8月6日、原子爆弾が投下されたとき、県庁ともども全焼・全壊。戦後の1948年、県病院は今の場所に移転したんじゃ」
「県庁は1956年、今の場所に移転したんじゃね」
「余談じゃが、この県病院でわしゃ産まれたんじゃの」
■宇品二丁目
「最初は「女専前」という名前でした。女専ってなに?」
「女専いうのは広島女子専門学校(現:県立広島大学)のことで、1928年に設置されたんじゃ」
「その後、学校の名前が変わるのに合わせて「女子大前」(1950年ころ)になったんじゃね」
「1968年から、今の「宇品二丁目」に名前を変えたんじゃの」
「こうやってみると、「高等師範」「広陵中学」「女専」と学校に関係する名前が多かったね」
「続いては、江波(えば)線にある舟入南町じゃ」
「江波線は、土橋(どばし)から江波を結ぶ路線です」
■舟入南町
「1944年に開業したときは、今と同じく「舟入南町」という名前でした」
「終戦後の1947年、江波線が運転を再開したとき、「江波口」と名前を変えたんじゃ」
「江波口って、江波の入り口のような名前じゃけど?」
「このとき、江波までは開通しとらんかったんよ」
「江波線なのに、江波まで通っとらんかったん?」
「江波線自体が、三菱重工業の広島造船所への通勤を目的として、軍の要請で1943年に開業したもんなんじゃ」
「戦争も終わりころじゃったけぇ、電車を通すだけの余裕がなかったと…」
「そのとおり。江波まで延長されたんは戦後、1954年なってから。で、このころ「グランド口」と名前が変わったそうじゃ」
「グランド口? …近くに大きなグランドがあったっけ?」
「ここから天満川を渡って、西に向かって1キロくらい歩いて行くと総合グランド(現:コカ・コーラウエスト広島総合グランド)があるじゃろ?」
「1キロって、そんなに遠いのに…?」
「このころはここが最寄りの駅じゃったんかもしれんの」
「広島カープも球団創設当時(1950年)から旧市民球場(1957年)ができるまでは、このグランドを本拠地に使いよったね」
「1960年、元の「舟入南町」という名前に戻ったんじゃの」
「最後は、ここ。やっぱりここは外しちゃいけんじゃろ」
「世界遺産のひとつ、原爆ドーム前じゃね」
■原爆ドーム前
「1912年、紙屋町から己斐(こい)まで開通したときは、「櫓下(やぐらのした)」という名前でした。…櫓ってなに?」
「城の中にあって、物見をしたり、武器を保存していた場所で、広島城には88基の櫓があったといわれとるんじゃ」
「ということは、このあたりも広島城の一部じゃったん?」
「ここには広島城の南側の外堀があって、そこを埋め立てて市内電車を走らせた。今の相生通りじゃの」
「おぉ、広島城ってこんなに広かったんかぁ」
「広島城を中心に約1キロメートル四方の広さがあったそうじゃ」
「へぇ」
「櫓下には変電所があって、ここから路面電車に電気を供給しとったんじゃ」
「1929年ごろ、「相生橋」と名前を変えます」
「今の平和公園があるあたり、中島本町は広島一の繁華街じゃった」
「映画『この世界の片隅に』で、すずさんがお使いで海苔を届けに行ったのが、年末大売り出しでにぎやかな中島本町じゃったね」
「その北にあって、太田川が元安川と本川に分かれるあたりは「慈仙寺(じせんじ)の鼻」と呼ばれとった。1878年、元安川、本川、それぞれに橋を架けたのが相生橋の始まり」
「橋が2本あった…」
「そのとおり。今のような太田川をまたぐ1本の橋は1912年、広電の市内電車が開通したときに電車軌道専用橋として作られたんじゃ」
「…人が歩く2本の橋と、電車が通る1本の橋とが、並ぶように架かっとったんじゃね」
「1932年、電車軌道専用橋を道路・軌道の併用橋に架け直した。1934年、この併用橋から慈仙寺鼻に向かって橋を架けたんじゃ」
「これで「H字型」の橋になった」
「1940年、最初に架けられた2本が撤去されて、今の「T字型」の橋になった」
「T字型の橋は上空からも目立つけぇ、広島への原子爆弾投下のとき、この橋が目標になったんよ」
「相生橋の東詰、元安川の左岸にあった広島県産業奨励館は、爆心地から約150メートルという距離にあったが、奇跡的に倒壊を免れた」
「この建物が戦後、原爆ドームと呼ばれるようになったんよね」
「原爆ドームについては、記念物として残す、被爆の悲惨な思い出につながるので取り壊す、という2つの考え方があったんじゃの」
「1955年、広島平和記念公園が完成したね」
「広島平和記念公園は、原爆ドーム・原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館の3つが、北から南に向かって一直線上に位置するよう設計されとったんじゃ」
「1966年、広島市議会が原爆ドームを永久保存することを決議」
「翌1967年、1回目の保存工事が行われ、その後、定期的に補修工事が行われとるんじゃの」
「1974年、原爆ドームと広島平和記念公園を訪れる人々への案内のため、「相生橋」から「原爆ドーム前」と名前を変えました」
【参考文献】
長船友則『広電が走る街今昔』JTBパブリッシング、2005年
「今日は、「こんな停留場名、知ってる?」ということで、広島電鉄の市内電車の停留場名で名前が変わったものを調べてみました」
「ほいじゃあ、またの」
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広島電鉄市内電車、停留場名の変遷
西塔橋→白神前→白神社前→中電前
真菰橋→公会堂前→市役所前
高等師範前→大学前→広島大学前→日赤病院前
皆実町→専売局前→専売公社前→皆実町三丁目→皆実町六丁目
広陵中学前→県病院前
女専前→女子大前→宇品二丁目
舟入南町→江波口→グランド口→舟入南町
櫓下→相生橋→原爆ドーム前