通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

大山峠、八本松側入口(その1)

2019年03月20日 | 見て歩き
西日本豪雨(その19)

西国街道 大山峠






かつて、日本の中心である京の都と、九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ西国街道という重要な道があった。

その途中にある、今の広島市安芸区瀬野(せの)から東広島市八本松を越える大山峠は、難所として有名である。



ここは今、昨年夏の豪雨(平成30年7月豪雨)で通行不能となっている。

前回は、西国街道の大山峠の瀬野側入口を見にいった。

今回は、八本松側入口を見にいってみた。





↓大山峠の瀬野側入口については、こちら↓

大山峠、瀬野側入口(その2)







(訪問日:2012年10月6日)




2016年、八本松駅の構内にあるキヨスクがセブンイレブン・キヨスクになった。







沓掛(くつがけ)踏切を渡る。



西国街道を東からやってきた旅人が、難所である大山峠を越えるために草鞋(わらじ)を履き替えたのがここ、沓掛あたりだったといわれる。







ミスターマックス八本松店の駐車場に建てられているのが、長尾一里塚跡石碑。







(訪問日:2012年10月6日)

その石碑はもともと、この場所に建てられていた。







(訪問日:2012年10月6日)




石碑が駐車場の端に移されたのが分かる。







石碑がもともと建てられていた場所に行ってみると…。

何らかの理由で根元から折れた(折られた?)らしい。







ミスターマックス八本松店から国道2号線をはさんで北側にある道が、かつての西国街道。

が、今はここを渡る道がない。







そこで、八本松交番前交差点を渡っていく。







突き当たりを右に曲がって、まっすぐに進む。







(訪問日:2012年10月6日)




昨年夏の豪雨の土のうが置かれたまま。



手前に新しくできたのが、東広島市八本松と広島市安芸区上瀬野(かみせの)を結ぶ安芸バイパス(未開通)。

奥にあるのが、志和インター入口と八本松を結ぶ県道83号志和インター線。





(訪問日:2012年10月6日)

ここから山道に入る。







(訪問日:2012年10月6日)

大山駅跡を過ぎると…、







道が途切れていた!







(訪問日:2012年10月6日)

むかしは、こんな道があったはずなんじゃが…。







土石流によって道がえぐり取られたのが分かる。







ここを越えようと試みるも、足場が悪く、先へ進むのをあきらめた。







ふりかえってみると…、







今でもこれだけの数の土のうが積んであった。





訪問日:2019年3月16日





今日は、通行不能になっている西国街道の大山峠の八本松側入口について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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大山峠、瀬野側入口(その2)

2019年03月19日 | 見て歩き
西日本豪雨(その18)

西国街道 大山峠






かつて、日本の中心である京の都と、九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ西国街道という重要な道があった。

その途中にある、今の広島市安芸区瀬野(せの)から東広島市八本松を越える大山峠は、難所として有名である。



ここは今、昨年夏の豪雨(平成30年7月豪雨)で通行不能となっている。

前回(2018年11月4日)、この大山峠の瀬野側入口を見にいった。

あれから4ヶ月。

どうなっているか、見にいってみた。





↓前回については、こちら↓

大山峠、瀬野側入口(その1)






前回と同じく、八本松駅から芸陽バスの広島バスセンター行に乗って、清山(せいざん)バス停で降りる。







(訪問日:2018年11月4日)






大山瀬野川橋りょうは工事中。







(訪問日:2018年11月4日)






国道2号線の上大山橋は、昨年末で工事が終わった。

橋の下をくぐる歩道も修理してあった。







(訪問日:2012年10月6日)






ガードレールはすべて流された。

このあたりの様子は、JR山陽本線(画面左側を通る)からも見ることができる。







(訪問日:2012年10月6日)




(訪問日:2018年11月4日)


西国街道の大山峠への道は、ここから先が通行止めになっている。







(訪問日:2018年11月4日)




前回は、通行止めから先へ行こうとは思わんかったが、今回は行ってみることにした。



工事車両が使っているであろう、大元谷川沿いへの道をくだっていく。







見上げると、そこには東広島市八本松と広島市安芸区上瀬野(かみせの)を結ぶ安芸バイパス(未開通)が見える。







その安芸バイパスの橋脚(きょうきゃく)には、土石流の跡が今もはっきりと残っていた。

高さは4メートル以上あるじゃろか?







振り返ってみると、通行止めのところには今でもこれだけの土のうが積んである。







(訪問日:2012年10月6日)




「代官おろし跡」の碑は根こそぎ流されて、そのまま放置されていた。

「代官おろし」とは、ふだんは駕籠(かご)に乗っている代官や大名たちも、ここから先は駕籠を降りて歩いたところからそう呼ばれるようになったそうじゃ。





「土石流危険渓流」とは、土石流発生のおそれがあり、人家や公共施設に被害のおそれのある渓流をいう。







西国街道は道の真ん中に亀裂が入っていて、まるで地震の跡のようじゃった。







(訪問日:2012年10月6日)




むかしと今を比べてみると、今の西国街道は明るい。

昨年夏の豪雨(平成30年7月豪雨)で、むかって右側を流れる大元谷川で土石流が発生。

木々がなぎ倒されたため、明かりが差し込むようになったんじゃの。







前回は見過ごした、賀茂郡と安芸郡の郡境を見ることができた。

よく見ると、土台ごと流された碑を、元あったところに据えなおしたと思われる。



ふつう、国や郡、村の境などは、峠や尾根、川をもって決められるが、ここは峠からかなり下ったところにある。









西国街道の瀬野側は、ここで行き止まり。



ここを乗り越えれば、この先も進めそうな感じがしたが、そこまでする勇気はなかった。







土石流の跡。







山側から谷(大元谷川)側を見下ろした。













西国街道から大元谷川へ降りる。

川下から川上を見たところ。







大元谷川を川下へくだっていく。

川沿いに、大きな岩がたくさん残されていた。







遠くに、なにか見える。









土石流を防ぐための構造物(?)が2基、設置してあった。



横に渡したパイプで、流れてくる岩や流木をせき止める(はず)。









今の大元谷川。







ヘビではありません。

曲がりくねって、さびた鉄筋です。



鉄筋がこれだけ曲がるとは!

一体、どれだけの力がかかったんじゃろか?





訪問日:2019年3月2日





今日は、通行不能になっている西国街道の大山峠の瀬野側入口について話をさせてもらいました。

次回は、八本松側入口の話をする予定じゃ。



ほいじゃあ、またの。

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かつて、桜川という地名があった

2019年03月17日 | 見て歩き
袋町小学校の正門前を通っていた水路あたり

袋町小学校の校章は桜

企画展「お城と城下の花見事情」広島城






広島城では今、企画展「お城と城下の花見事情~広島城周辺の桜の名所~」(2019年2月16日~4月7日)を開催中。

この企画展では、主に江戸時代の広島城下での桜の名所や花見の様子を紹介しとってんじゃの。





↓広島城については、こちら↓

広島城ホームページ





展示の中に、「桜川」という地名について説明があった。





桜川?

広島で桜川いう地名は、聞いたことがないが?





今の袋町小学校の正門前を南北に通る道に沿って水路(水通し)があった。

このあたりが「桜川」と呼ばれていたという。





へぇ、そうなんじゃ。

でも、なんで桜川いう名前になったんじゃろ?





江戸時代に編集された『知新集(ちしんしゅう。1820年ころ)』という書物によると、



水路に沿って桜が植えられていたから、

城内の武家屋敷に植えられていた桜の花びらが、城外へつながっていた川に流れていったから、



とあるそうじゃ。







桜川という地名があった証拠として今も残っているのが、水路が正門前を通っていた袋町小学校の校章。

ごらんのとおり、桜の花びらをかたどったものになっている。



へぇ~、こりゃ知らんかったのう。





袋町小学校の歴史を調べてみると…、



1873年(明治6)、就將館という名前で創立。

1876年(明治9)、この地に移転し、桜川学校(1879年に桜川小学校)と名前を変えた。

1890年(明治23)、袋町尋常小学校と名前を変える。



なるほど。

もともと「桜川」じゃったのが、今のように「袋町」と名前を変えたんじゃの。





↓袋町小学校については、こちら↓

広島市立袋町小学校











道路と建物との間に今も残る段差が、このあたりに水路があった証拠じゃそうな。







南側から見たところ。



左手側に、江戸時代の水路の名残りが残る。

右手側が袋町小学校。







…以下、余談。



袋町小学校があるあたりから南側には江戸時代、国泰寺(こくたいじ)というお寺があった。

ここは、藩主・浅野家の菩提寺で、西側の外堀に沿って桜川が流れていた。

本堂の北側には桜の木がたくさん植えてあったというから、ここで花見を楽しまれた方もおられたんじゃろうの。





訪問日:2019年3月9日





今日は、袋町小学校の正門前に水路があって、桜川と呼ばれていたことについて話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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難所・大山峠を越える(その2)

2019年03月14日 | 見て歩き
西国街道 大山峠

大山峠から清山バス停まで






かつて、日本の中心である京の都と、九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ西国街道という重要な道があった。

その途中にある、今の広島市安芸区瀬野から東広島市八本松を越える大山峠は、難所として有名である。



2012年10月、八本松から瀬野に抜ける、西国街道の大山峠越えをした。

前回は、八本松駅から大山峠まで。

今回は、大山峠から清山(せいざん)バス停までの話じゃ。











八本松駅から大山峠までは上り坂じゃが、峠を越えると下り坂。









このあたりには、清水が湧き出て旅人の喉をうるおした。

茶屋も置かれ、旅人たちはここで疲れをいやしたという。



その清水も、今では枯れてしもうとる。











伝大山刀鍛冶の墓


芸藩通誌に、大山刀鍛冶の祖は筑前左(さ)の一派で、建武年間(1334~37)守安というのが移り住んだのが初代であるといい、刀剣銘鑑(とうけんめいかん)などによると「大山荘守安」と刻んだと見えるが未だ発見していない。
つづいて重守(貞治年間)一守重(応安年間)一宗重(康正年間)…宗重(天正年間)とあるが、最後の宗重を除いては実物の刀が発見されておらない。

天正年間の宗重は現在県下で数振りが登録されていて、中には国の重要刀剣、県重要文化財指定のものもある。
毛利輝元の家臣鷲頭弘氏(わしづ ひろうじ)が、この宗重に注文した刀が現在しており、その銘には  大山住宗重延道彦三郎作、天正五年八月吉日  多々良朝臣鷲頭左馬助(紀要2所載)とあり、宗重の氏が延道であり、通称が彦三郎であったことがわかる。
なお、この付近に刀鍛冶の屋敷跡があってたたらなど出土していたが、昭和20年の水害の際流出してしまっている。
ここにある数基の五輪塔などは、これら大山刀鍛冶の墓だと伝えている。

また、ここに関の清水があった。


   東広島ウエストライオンズクラブ
   東広島市郷土史研究会

     昭和58年4月吉日 建

(案内板より)




今では想像もできないが、かつてここに刀鍛治の屋敷があって、刀を作っていたそうじゃ。



「関の清水」という言葉が出てきた。

ほかに「関平山」という地名もあって、このあたりに関所が設けられていたのでは? といわれとる。









刀鍛治の墓所







山道をさらに下っていく。







大山峠は、東の八本松側から上るよりも、西の瀬野側から上る坂の方が急だった。

そのため瀬野側から上るときは、ふだんは駕籠に乗る代官や大名たちでさえも、ここで降りて歩いたといわれる。















瀬野馬子唄発祥の地
大山峠入口(旧山陽道)


♪瀬野の三里とエー
  大山の峠(たお)とヨー
 大須(おおす)なわてがなけにゃエー

♪瀬野の馬さはエー
  金つき馬でヨー
 夜(ばん)になってもせいをだす

♪瀬野の大山はエー
  一石五斗のヨー
 米をふり分け馬の背に


瀬野馬子唄保存会

(案内板より)




馬子(まご)とは、馬をひいて人や荷物を運ぶ人のこと。

馬子たちが馬の綱を引きながら歌う唄を、馬子唄(まごうた)という。





瀬野-八本松間は、むかしの西国街道の大山峠で、今はJR山陽本線の瀬野八。

瀬野八は急勾配があるため、今でも上りの貨物列車は補助機関車なしでは走ることができない。

また、「代官おろし」という場所があるくらい急な坂が続く大山峠。

その大山峠を馬で荷物を運ぶ馬子たちには、大変な苦労があった。





馬はふつう、去勢(きょせい。動物の雄から生殖機能をなくすこと)をする。

去勢をすることで性質が穏やかになり、扱いやすくなるからじゃ。

ところが、大山峠のような急な坂道が続くところでは、力の強い馬が求められる。

そこで、去勢されていない馬を使って荷物を運んでいた。

唄の中の「金つき馬」とは、去勢されていない馬のことをいう。

去勢されていない馬は気性が激しく、扱いが難しかった。

「夜になってもせいをだす」というのは、ご想像のとおりそうじゃ。





歴史でよく出てくるのが、「石(こく)」という単位。

たとえば、毛利氏の最盛期は120万石あったという。

福島氏広島藩は50万石で、浅野氏広島藩は42万石といわれていた。



一石はおおざっぱ、ひとりの人間が一年間で食べる米の量と考えればええ。

…というても、ピンとんかもしれんのう。



唄の中で「一石五斗(=十五斗)」と歌われてた。

これを米俵で例えてみると…。

米俵ひとつは、4斗に相当する。

ということは、一石五斗は米俵4つ弱くらいの量になるんじゃの。

「一石五斗のヨー 米をふり分け馬の背に」というのは、馬の背の左右に米俵を2俵ずつ乗せる、とイメージすると分かりやすいかもしれんの。








山道が終わり、民家が見えてくる。

このあたりの家は、昨年夏の豪雨(平成30年7月豪雨)で流されてしもうそうじゃ。










(この写真のみ、撮影日:2018年11月4日)

西国街道の大山峠への道は、ここから先は通行止めになっている。







国道2号線の清山バス停(下り線側)に出る。







上り線側の清山バス停には食堂があった。

わしの記憶が確かなら、ここは4年くらいに前まで営業しとったはずじゃ。





訪問日:2012年10月6日





【参考文献】

『日本歴史地名大系35 広島県の地名』(平凡社 1982年)

梶本晃司(文・写真)・蒲田知美(イラスト)『西国街道を歩こう! 広島県内コース』(南々社 2003年)

『東広島てくてくマップ No2.西条駅』東広島市






今日は、西国街道の難所・大山峠を、大山峠から清山(せいざん)バス停まで話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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難所・大山峠を越える(その1)

2019年03月13日 | 見て歩き
西国街道 大山峠

八本松駅から大山峠まで






かつて、日本の中心である京の都と、九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ西国街道という重要な道があった。

その途中にある、今の広島市安芸区瀬野から東広島市八本松を越える大山峠は、難所として有名である。

明治になって、瀬野川に沿うように、今の国道2号線と山陽本線が整備された。

山陽本線では「瀬野八(セノハチ)」という難所として知られている。

かつて行われていた中国駅伝では、賀茂(かも)台地にある八本松から瀬野にかけての急な下り坂が、テレビ中継で見ると、文字どおり「駆け下りてくる」という感じじゃった。

中国駅伝とは、福山市をスタート広島市をゴールとする駅伝で、あの箱根駅伝に次いで日本で2番目に古い駅伝大会といわれる。

そして、朝日駅伝、全日本実業団駅伝と並ぶ日本3大駅伝のひとつでもあったんじゃの。





…前置きが長うなった。



2012年10月、八本松から瀬野に抜ける、西国街道の大山峠越えをした。

今回と次回の2回にわたって、その時の話をしようと思う。

今回は、八本松駅から大山峠までじゃ。







JR山陽本線の八本松駅を、北側へ(画面奥に向かって)降りると…、







そこが西国街道筋。









沓掛(くつかけ)踏切を渡って、溝迫交差点で2号線に出る。

ミスターマックス八本松店の駐車場に建てられているのが、長尾一里塚跡石碑。

江戸時代、一里(いちり。約4キロメートル)ごとに一里塚が設けられていた。

ここ長尾一里塚には、東側の飯田村に男松、西側の宗吉村に女松が植えられていたという。

この松は、ひとつの根から4本の幹に枝分かれし、四方に枝を張っていた。

計8本の松の枝が街道の上で重なり合い、陰陽和合の妙を表していたところから、「八本松」という地名がつけられたそうじゃ。





沓掛という地名が出てきた。

西国街道を東からやってきた旅人が、難所である大山峠を越えるために草鞋(わらじ)を履き替えたのがここ、沓掛あたりだったといわれとるんじゃの。





八本松交番前の交差点を南へ渡って、突き当たりが西国街道。

突き当たりを右へ曲がり、山へ向かって歩いていく。











県道83号志和インター線の下をくぐっていくと、大山峠への看板が立っている。







ここから山道に入る。









古代山陽道の大山駅が、このあたりにあった。

駅家には馬が20頭、馬子はほかの倍の120人が置かれていたという。

馬子(まご)とは、馬をひいて人や荷物を運ぶ人のこと。



1884(明治17)年に国道2号が作られてから、西国街道は寂(さび)れたそうじゃ。

今では、かつてのにぎやかさを感じることはできん。









道標に従って、山道を上っていく。











大山峠


日本書紀崇神(すじん)天皇(3世紀前半)の条に、「西道(にしのみち)」のことがあり、これは後の山陽道のことだといわれ、そうであればこの道もこの峠も弥生時代すでにあったことになる。
その後、山陽道は京と筑紫(つくし)大宰府(だざいふ)を結ぶ官道となり、道路区分では大道で、この付近に延喜式(えんぎしき)にいう大山駅がおかれた。
そしてこの道は、明治17年(1884)2号国道が新設されるまで、国の幹線道路としての役目を果たしたのである。

その間、九州へ派遣される防人(さきもり)もこの峠に立ったであろうし、元寇(げんこう)の急変を知らせる早馬も駆けすぎていったに違いない。
また明治維新の志士吉田松陰や高杉晋作らもここを通っているのである。

その他、多くの人々が希望や失望を胸にしながら越えていった峠で、その時代時代の歴史をみてきた重みをささえている峠でもある。
それに多くの人々が詩歌や紀行(きこう)文を残している峠でもある。
万葉の詠み人知らずの歌もあれば、応安4年(1371)4月、九州へ下向の今川了俊も軍の先頭にたちながらものにしを「道ゆきふり」の中の、大山峠を越える一文のようなものもある。
西から上がってくる坂を「代官おろし」と呼ぶが これは如何なる権威のある人でもカゴからおりたという難所であったことを意味し、峠より西10メートルの大山清水は、旅人の喉(のど)をうるおした名高い清水であった。
この位置は江戸時代憩亭(いこいてい)のあった位置で、参きん交代の大名が休息したところであるが、平素は村人が旅人にわらじやいり豆を売っていたという。


   東広島ウエストライオンズクラブ
   東広島市郷土史研究会
   昭和58年4月吉日 建


(案内板より)




ここ大山峠は、安芸の国で一番高いところで、標高337メートル。







ここまでは上り坂じゃったが、ここから先は下り坂になるんじゃの。





訪問日:2012年10月6日





【参考文献】

『日本歴史地名大系35 広島県の地名』(平凡社 1982年)

梶本晃司(文・写真)・蒲田知美(イラスト)『西国街道を歩こう! 広島県内コース』(南々社 2003年)

『東広島てくてくマップ No2.西条駅』東広島市






今日は、西国街道の難所・大山峠を、八本松駅から大山峠までについて話をさせてもらいました。

次回は、大山峠から清山(せいざん)バス停までじゃ。



ほいじゃあ、またの。
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