~称名寺(しょうみょうじ)から角屋釣井(かどやつるい)まで~
「前回は、西国街道にある大膳川(だいぜんがわ)から称名寺を紹介したんじゃけど…」
「今日は、称名寺(しょうみょうじ)から角屋釣井まで。玖波(くば)の宿場町を歩いて行きますけぇの」
「称名寺を出て元の道に戻り、JR山陽本線のガード下をくぐって…」
「この角を左に曲がると、玖波の街道筋に出る」
「玖波は宿場町として栄えとって、このあたり(広島信用金庫玖波支店。JA佐伯中央玖波支店の向かい側)に玖波本陣があったそうじゃ」
「宿場町というくらいじゃけぇ、それらしい町並みが残っとるよ。さぞにぎやかじゃったんじゃろうね」
「それなんじゃがの、玖波は幕末に一度、焼けてしもうとるんじゃ」
「ほんま?」
近世宿場町・玖波
近世における玖波の歴史は宿場町としての歩みでもあった。
江戸を中心とした五街道に次ぐ脇街道の一つである西国街道(大坂~下関)は町内を二十三丁三十間(二.六キロ)にわたって貫いていた。
寛永十二年(一六三五)に参勤交代の制度が確立されると、玖波は宿場町としての重要性を増し、本陣は幕吏や西国大名の参勤・下向並びに幕府賓客の宿泊や休息にあてられる新たな使命を帯びた。
駅所である本陣は寛永九年(一六三二)以降、本陣役新屋(平田)半左衛門宅の整備普請というかたちですすめられた。
その規模は、いまに残る天保十三年(一八四二)刻成の「玖波駅御本陣間取之図」(左図)によれば間口二十一間(三十八メートル)、奥行十六間(二十九メートル)からなる約三百四十坪の敷地に、平田家居宅の八室に加えて本陣用の七室を合わせた百五十坪の建物が建てられていた。
駅には伝馬、駕籠などが常備され、それらの手配をはじめ一切の駅務は近忖の村役人が当たり、人馬見届頭取役、添役としてもろもろの要請に応じ、交通の要衝としての中枢的機能を果たしたが、慶応二年(一八六六)の長州の役により多くの人家とともに本陣の全てが焼け落ち、いまでは往古の面影をしのぶことさえできない。
(以下略)
大竹市教育委員会
(案内板より)
「幕末にあった長州征伐のときに、本陣が焼けてしもうたんじゃね」
「このあたりも戦場になって、本陣はもとより、町自体が燃えてしもうたそうじゃ」
「それじゃ、今ある町並みは?」
「明治以降に再建されたものじゃそうな」
「これが、玖波本陣洪量(こうりょう)館の復元想定図」
「本陣というくらいじゃけぇ、立派なお屋敷じゃったんじゃね」
「さっきの説明板にも書いてあったが、間口が38メートルで、奥行が29メートル。340坪の敷地に、150坪の建物が建てられとったそうじゃ」
「洪量館っていう名前は誰がつけちゃったん?」
「宝暦9年(1759年)、広島藩の家老上田氏の家臣・福山貞儀が、本陣からの眺めが素晴らしいことをたたえて、「洪量館」と名づけたそうじゃ」
「道の左側に、高札場跡と角屋釣井がある」
高札場跡と角屋釣井
西国街道における近世宿場町として本陣が置かれた玖波は参勤・下向の大名や幕吏をはじめ多くの旅行者でにぎわい、同時に近隣地域からの諸物資の集散でも活況を呈していた。
なかでも、この地は廿日市、関戸へ向けて往来する旅行者のための人馬の継ぎ立てが行われた交通の要所であり、法度・掟・条目・禁令や次駅までの定賃銭等を記した多くの高札や制札が掲げられた高札場でもあった。
この井戸は「角屋釣井」とも呼ばれて宿場の貴重な飲料水として、また最近まで西山社行者堂の寒行の水垢離(みずごり)にも永く使われてきた共同井戸の一つでもある。
(案内板より)
「水垢離って?」
「神仏にお願いをする前なんかに、水を浴びて身を清めることじゃの」
「あぁ、お祭りの前に、ふんどし一丁で冷水を頭からかけよったりしよっての、アレじゃね」
「向かって右側の石柱に、「長岡酒造場」とあったので、探してみると…」
「ここで酒造りをされよっちゃったようで…」
「今はこういうお店をされよってんじゃ」
「「寒竹」いうお酒を造られよっちゃったんじゃね」
「浄土真宗本願寺派の壽海山 順廣寺がある」
「浄土真宗のお寺じゃけぇ、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像があるんじゃね」
訪問日:2014年4月19日
【参考文献】
梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年
下中邦彦/編『日本歴史地名大系第35巻 広島県の地名』平凡社 1982年
「今日は、西国街道にある称名寺(しょうみょうじ)から角屋釣井(かどやつるい)について話をさせてもらいました」
「次回は、角屋釣井(かどやつるい)から鳴川(なるかわ)の石畳までを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
「前回は、西国街道にある大膳川(だいぜんがわ)から称名寺を紹介したんじゃけど…」
「今日は、称名寺(しょうみょうじ)から角屋釣井まで。玖波(くば)の宿場町を歩いて行きますけぇの」
「称名寺を出て元の道に戻り、JR山陽本線のガード下をくぐって…」
「この角を左に曲がると、玖波の街道筋に出る」
「玖波は宿場町として栄えとって、このあたり(広島信用金庫玖波支店。JA佐伯中央玖波支店の向かい側)に玖波本陣があったそうじゃ」
「宿場町というくらいじゃけぇ、それらしい町並みが残っとるよ。さぞにぎやかじゃったんじゃろうね」
「それなんじゃがの、玖波は幕末に一度、焼けてしもうとるんじゃ」
「ほんま?」
近世宿場町・玖波
近世における玖波の歴史は宿場町としての歩みでもあった。
江戸を中心とした五街道に次ぐ脇街道の一つである西国街道(大坂~下関)は町内を二十三丁三十間(二.六キロ)にわたって貫いていた。
寛永十二年(一六三五)に参勤交代の制度が確立されると、玖波は宿場町としての重要性を増し、本陣は幕吏や西国大名の参勤・下向並びに幕府賓客の宿泊や休息にあてられる新たな使命を帯びた。
駅所である本陣は寛永九年(一六三二)以降、本陣役新屋(平田)半左衛門宅の整備普請というかたちですすめられた。
その規模は、いまに残る天保十三年(一八四二)刻成の「玖波駅御本陣間取之図」(左図)によれば間口二十一間(三十八メートル)、奥行十六間(二十九メートル)からなる約三百四十坪の敷地に、平田家居宅の八室に加えて本陣用の七室を合わせた百五十坪の建物が建てられていた。
駅には伝馬、駕籠などが常備され、それらの手配をはじめ一切の駅務は近忖の村役人が当たり、人馬見届頭取役、添役としてもろもろの要請に応じ、交通の要衝としての中枢的機能を果たしたが、慶応二年(一八六六)の長州の役により多くの人家とともに本陣の全てが焼け落ち、いまでは往古の面影をしのぶことさえできない。
(以下略)
大竹市教育委員会
(案内板より)
「幕末にあった長州征伐のときに、本陣が焼けてしもうたんじゃね」
「このあたりも戦場になって、本陣はもとより、町自体が燃えてしもうたそうじゃ」
「それじゃ、今ある町並みは?」
「明治以降に再建されたものじゃそうな」
「これが、玖波本陣洪量(こうりょう)館の復元想定図」
「本陣というくらいじゃけぇ、立派なお屋敷じゃったんじゃね」
「さっきの説明板にも書いてあったが、間口が38メートルで、奥行が29メートル。340坪の敷地に、150坪の建物が建てられとったそうじゃ」
「洪量館っていう名前は誰がつけちゃったん?」
「宝暦9年(1759年)、広島藩の家老上田氏の家臣・福山貞儀が、本陣からの眺めが素晴らしいことをたたえて、「洪量館」と名づけたそうじゃ」
「道の左側に、高札場跡と角屋釣井がある」
高札場跡と角屋釣井
西国街道における近世宿場町として本陣が置かれた玖波は参勤・下向の大名や幕吏をはじめ多くの旅行者でにぎわい、同時に近隣地域からの諸物資の集散でも活況を呈していた。
なかでも、この地は廿日市、関戸へ向けて往来する旅行者のための人馬の継ぎ立てが行われた交通の要所であり、法度・掟・条目・禁令や次駅までの定賃銭等を記した多くの高札や制札が掲げられた高札場でもあった。
この井戸は「角屋釣井」とも呼ばれて宿場の貴重な飲料水として、また最近まで西山社行者堂の寒行の水垢離(みずごり)にも永く使われてきた共同井戸の一つでもある。
(案内板より)
「水垢離って?」
「神仏にお願いをする前なんかに、水を浴びて身を清めることじゃの」
「あぁ、お祭りの前に、ふんどし一丁で冷水を頭からかけよったりしよっての、アレじゃね」
「向かって右側の石柱に、「長岡酒造場」とあったので、探してみると…」
「ここで酒造りをされよっちゃったようで…」
「今はこういうお店をされよってんじゃ」
「「寒竹」いうお酒を造られよっちゃったんじゃね」
「浄土真宗本願寺派の壽海山 順廣寺がある」
「浄土真宗のお寺じゃけぇ、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像があるんじゃね」
訪問日:2014年4月19日
【参考文献】
梶本晃司、蒲田知美『ひげの梶さんと西国街道を歩こう!広島県内コース (ひげの梶さん 歴史文学探歩シリーズ3)』南々社 2003年
下中邦彦/編『日本歴史地名大系第35巻 広島県の地名』平凡社 1982年
「今日は、西国街道にある称名寺(しょうみょうじ)から角屋釣井(かどやつるい)について話をさせてもらいました」
「次回は、角屋釣井(かどやつるい)から鳴川(なるかわ)の石畳までを紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」