「前回は、JR広島駅から、マツダスタジアムを紹介している看板までを紹介したんじゃけど…」
「今回は、歴代の名選手の球団記録の看板をしていこうかの」
18 長谷川 良平
14 外木場 義郎
8 山本 浩二
4 水谷 実雄
2 高橋 慶彦
14 津田 恒実
18 長谷川 良平 (はせがわ りょうへい)
球団最多勝利記録(シーズン)
30勝(1955年)
167cmと小柄ながら、独特の跳ねるようなフォームから繰り出す鋭いシュートを武器に、通算197勝をマーク。
チームの勝利数の半分を稼ぐ活躍で草創期のエースに君臨。
特に1955年はオールスターまでの前半戦で11勝。
後半さらに勢いを増し、30勝で最多勝利投手に輝いた。
最多投球回、最多完投など未だ破られていない数々の球団記録が”小さな大投手”の偉大さを物語る。
14 外木場 義郎(そとこば よしろう)
球団最多奪三振記録(シーズン)
260奪三振(1968年)
往年のファンが球団史上最速投手と評する昭和40年代のエース。
受けたキャッチャーが後ろに倒れるほど球威のあるスピードボールで三振の山を築いた。
生涯を通じて、ノーヒットノーラン3回、うち完全試合1回の大記録を残した伝説の豪腕。
1975年の初優勝は外木場なくして成し得なかったといわれている。
2013年、野球殿堂入り。
8 山本 浩二(やまもと こうじ)
球団最多本塁打記録(シーズン)
44本(1977、78、80年)
本塁打王4回、首位打者1回、打点王3回という輝かしい記録を残した「ミスター赤ヘル」。
1975年に初めて4番に座ると、衣笠とともに赤ヘル旋風を巻き起こし、チームを初優勝に導いた。
抜群の読みと広角打法で、チャンスになるほど勝負強さを発揮。
万年Bクラスのチームを黄金期へと導いた功績はあまりにも大きい。
4 水谷 実雄(みずたに じつお)
球団最高打率記録(シーズン)
.348(1978年)
山本浩、衣笠と並んで赤ヘル打線の中軸を担ったバッター。
入団直後に腎臓病を患うなど数々の逆境を跳ね返して、独自の打撃理論と猛練習で強打者へと上り詰め、首位打者と打点王のタイトルを獲得した。
悪い流れを断ち切る豪快なバッティングで名シーンを数多く演出。
引退後は前田、江藤らを育てた名コーチとしても名を馳せた。
2 高橋 慶彦(たかはし よしひこ)
球団最多盗塁記録(シーズン)
73盗塁(1985年)
スイッチヒッターに転向後、並外れた練習量で1番バッターに定着。
リードオフマンとして赤ヘルの機動力野球を担う存在となった。
1979年に33試合連続安打の日本記録を達成するなど、走攻守でチームを牽引。
盗塁時のスタートの速さ、守備範囲の広さ、そして甘いマスクで、全国区の人気を誇った。
今なおファンが多い、記憶に残る名選手のひとりだ。
14 津田 恒実 (つだ つねみ)
球団最多セーブポイント記録(シーズン)
40SP(1989年)
入団1年目に先発で11勝を挙げ、球団初の新人王を獲得。
その後ケガに悩まされたが、1986年リリーフとして復活し優勝に貢献。
89年には防御率1.63、12勝28セーブの活躍で、最優秀救援投手、ファイアマン賞に輝く。
150キロを超える剛速球と闘志むき出しのプレーで「炎のストッパー」と呼ばれ、ファンに愛されたが、脳腫瘍のため32歳という若さでこの世を去った。
愛宕踏切(あたごふみきり)
訪問日:2013年(平成25年)3月3日
「今日は、歴代の名選手の球団記録について話をさせてもらいました」
「次回は、監督以下、現役の選手を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
「今回は、歴代の名選手の球団記録の看板をしていこうかの」
18 長谷川 良平
14 外木場 義郎
8 山本 浩二
4 水谷 実雄
2 高橋 慶彦
14 津田 恒実
18 長谷川 良平 (はせがわ りょうへい)
球団最多勝利記録(シーズン)
30勝(1955年)
167cmと小柄ながら、独特の跳ねるようなフォームから繰り出す鋭いシュートを武器に、通算197勝をマーク。
チームの勝利数の半分を稼ぐ活躍で草創期のエースに君臨。
特に1955年はオールスターまでの前半戦で11勝。
後半さらに勢いを増し、30勝で最多勝利投手に輝いた。
最多投球回、最多完投など未だ破られていない数々の球団記録が”小さな大投手”の偉大さを物語る。
14 外木場 義郎(そとこば よしろう)
球団最多奪三振記録(シーズン)
260奪三振(1968年)
往年のファンが球団史上最速投手と評する昭和40年代のエース。
受けたキャッチャーが後ろに倒れるほど球威のあるスピードボールで三振の山を築いた。
生涯を通じて、ノーヒットノーラン3回、うち完全試合1回の大記録を残した伝説の豪腕。
1975年の初優勝は外木場なくして成し得なかったといわれている。
2013年、野球殿堂入り。
8 山本 浩二(やまもと こうじ)
球団最多本塁打記録(シーズン)
44本(1977、78、80年)
本塁打王4回、首位打者1回、打点王3回という輝かしい記録を残した「ミスター赤ヘル」。
1975年に初めて4番に座ると、衣笠とともに赤ヘル旋風を巻き起こし、チームを初優勝に導いた。
抜群の読みと広角打法で、チャンスになるほど勝負強さを発揮。
万年Bクラスのチームを黄金期へと導いた功績はあまりにも大きい。
4 水谷 実雄(みずたに じつお)
球団最高打率記録(シーズン)
.348(1978年)
山本浩、衣笠と並んで赤ヘル打線の中軸を担ったバッター。
入団直後に腎臓病を患うなど数々の逆境を跳ね返して、独自の打撃理論と猛練習で強打者へと上り詰め、首位打者と打点王のタイトルを獲得した。
悪い流れを断ち切る豪快なバッティングで名シーンを数多く演出。
引退後は前田、江藤らを育てた名コーチとしても名を馳せた。
2 高橋 慶彦(たかはし よしひこ)
球団最多盗塁記録(シーズン)
73盗塁(1985年)
スイッチヒッターに転向後、並外れた練習量で1番バッターに定着。
リードオフマンとして赤ヘルの機動力野球を担う存在となった。
1979年に33試合連続安打の日本記録を達成するなど、走攻守でチームを牽引。
盗塁時のスタートの速さ、守備範囲の広さ、そして甘いマスクで、全国区の人気を誇った。
今なおファンが多い、記憶に残る名選手のひとりだ。
14 津田 恒実 (つだ つねみ)
球団最多セーブポイント記録(シーズン)
40SP(1989年)
入団1年目に先発で11勝を挙げ、球団初の新人王を獲得。
その後ケガに悩まされたが、1986年リリーフとして復活し優勝に貢献。
89年には防御率1.63、12勝28セーブの活躍で、最優秀救援投手、ファイアマン賞に輝く。
150キロを超える剛速球と闘志むき出しのプレーで「炎のストッパー」と呼ばれ、ファンに愛されたが、脳腫瘍のため32歳という若さでこの世を去った。
愛宕踏切(あたごふみきり)
訪問日:2013年(平成25年)3月3日
「今日は、歴代の名選手の球団記録について話をさせてもらいました」
「次回は、監督以下、現役の選手を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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