御朱印蒐集をされている方で、同じ神社・仏閣の御朱印を何回か頂かれる方はおられるでしょうか。
毎年行われる祭典の時に頂かれたり、特別開帳の時などに改めて頂かれる方はおられるかもしれませんね。
御朱印友達が滋賀へ来ていたので案内を兼ねて、多賀大社に参拝したのですが、その方が書いてもらった御朱印を見ると当方が以前に頂いた御朱印と全く違っていたのには驚きました。
慌てて御朱印帳を取り出して書いてもらったのですが、禰宜の方に字体や言葉がなぜ違うのかと聞いてみると、“心の赴くままに書いています”と名回答を頂く。
御朱印の右上に「奉拝」や「参拝」と書かれることが多いのですが、この御朱印には「淡海國」と書かれてあります。
滋賀県はかつては「近江国」と呼ばれ、さらに古事記の時代には「淡海國」と呼ばれたことから、「淡海」とは滋賀の古称になります。
さて、多賀大社には「杉坂の御神木」という御神木があるということで、見に行ってきました。
多賀大社から直線距離で約6㌔(あくまでも直線距離です)の杉坂山にあるのですが、林道好きの当方もタジタジの細く曲がりくねった林道には苦戦しましたよ。
細く曲がりくねった林道で山を登っていくのですが、対向車とすれ違えそうな道巾もなく、途中から霧まで濃くなり、そもそもこの道でいいのか?と確信もなく、だんだんと視界がなくなってきて不安が高まる。
やっとたどり着いて見た光景は、霧の中にかすかに見える御神木でした。近くまで歩いていけそうな道をいくと神々しいその姿が見えてきます。
樹齢400年・樹高37m・幹囲約12mの巨木が霧に包まれた山中で見せてくれた、幻想的で神々しい姿に感動することしきり。
曇り空ではあったけど、3本に分かれた杉の間から太陽の光が差してくる。
聞こえてくるのは、わずかに野鳥の声とかすかな葉ずれの音だけで、神の憑代(よりしろ)と向き合える貴重な時間となりました。
帰り道に、御神木の感動の余韻を残しながらお礼を兼ねて、多賀大社の本殿へ参拝してきました。
多賀大社は何度訪れても清々しい空気の神社で気持ちのいい場所だと思います。
御神木は写真が下手なので大袈裟に書いていると思われるかもしれませんが、霧がかかっていたことが幸いして実に幻想的な光景でした。
日本人が古来から持っている感性というのは、こういうものかもしれないなと考えさせられます。
毎年行われる祭典の時に頂かれたり、特別開帳の時などに改めて頂かれる方はおられるかもしれませんね。
御朱印友達が滋賀へ来ていたので案内を兼ねて、多賀大社に参拝したのですが、その方が書いてもらった御朱印を見ると当方が以前に頂いた御朱印と全く違っていたのには驚きました。
慌てて御朱印帳を取り出して書いてもらったのですが、禰宜の方に字体や言葉がなぜ違うのかと聞いてみると、“心の赴くままに書いています”と名回答を頂く。
御朱印の右上に「奉拝」や「参拝」と書かれることが多いのですが、この御朱印には「淡海國」と書かれてあります。
滋賀県はかつては「近江国」と呼ばれ、さらに古事記の時代には「淡海國」と呼ばれたことから、「淡海」とは滋賀の古称になります。
さて、多賀大社には「杉坂の御神木」という御神木があるということで、見に行ってきました。
多賀大社から直線距離で約6㌔(あくまでも直線距離です)の杉坂山にあるのですが、林道好きの当方もタジタジの細く曲がりくねった林道には苦戦しましたよ。
細く曲がりくねった林道で山を登っていくのですが、対向車とすれ違えそうな道巾もなく、途中から霧まで濃くなり、そもそもこの道でいいのか?と確信もなく、だんだんと視界がなくなってきて不安が高まる。
やっとたどり着いて見た光景は、霧の中にかすかに見える御神木でした。近くまで歩いていけそうな道をいくと神々しいその姿が見えてきます。
樹齢400年・樹高37m・幹囲約12mの巨木が霧に包まれた山中で見せてくれた、幻想的で神々しい姿に感動することしきり。
曇り空ではあったけど、3本に分かれた杉の間から太陽の光が差してくる。
聞こえてくるのは、わずかに野鳥の声とかすかな葉ずれの音だけで、神の憑代(よりしろ)と向き合える貴重な時間となりました。
帰り道に、御神木の感動の余韻を残しながらお礼を兼ねて、多賀大社の本殿へ参拝してきました。
多賀大社は何度訪れても清々しい空気の神社で気持ちのいい場所だと思います。
御神木は写真が下手なので大袈裟に書いていると思われるかもしれませんが、霧がかかっていたことが幸いして実に幻想的な光景でした。
日本人が古来から持っている感性というのは、こういうものかもしれないなと考えさせられます。