日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「ことば」は、行動に影響を及ぼす

2020-06-16 20:55:29 | 徒然

今朝、FM番組を聞いていたら興味深い話があった。
先日亡くなられた、プロレスラーの木村花さんとSNSとの関係、という内容だった。

亡くなられた木村さんを追い詰めたのは、SNS特にTwitterによる誹謗中傷だと指摘されている。
Twitterだけではなく、Yahoo!のトピックスなどに書きこまれるコメント(=通称ヤフコメ)にも、辛辣というか誹謗中傷めいた内容のものがあるのは事実だ。
これらのコメントなどは、読んでいる側だけであれば「なるほどね~、そのような考えもあるのか」という程度で、終わってしまう。
何故なら、当事者ではないからだ。
そして今朝の話が興味深かったのは、「誹謗中傷が書きこまれるSNSなどへのアクセスが、アクセスする人へも影響をしている」という内容だった。
詳しく言うと、FM番組で指摘していたことは、「ネガティブな内容のSNSにアクセスする回数が多いと、ネガティブな思考に陥りやすく、又そのようなことばを使う傾向が強くなる」ということだった

仕事をしている中で感じることなのだが、「人は思考によって、使うことばを選び、そのことばによって行動をおこす」と感じる場面が多々ある。
回りくどい言い方なのだが、「考え→ことば→行動」は、別々ではなく一つの関連づけられたモノではないか?という、ことなのだ。
FM番組で指摘しているのは「行動→考え→ことば」という順番なのだが、これらの「行動・思考・ことば」は連続性の中で起きていることなので、どれか一つが始まりというわけではないのでは?と、考えている。

実際、SNSなどで誹謗中傷を書きこむ傾向の強い人は、社会だけではなく自分自身に対しても不満や不安が強くある、といわれている。
それがSNSという匿名性という条件により、人を攻撃しやすい環境をつくりだし、結果歯止めが利かない「炎上」という状況になってしまうのではないだろうか?

だからといって、「ポジティブであれ!」などという気は、さらさらない。
「ポジティブではない自分の存在」もまた、自分自身でありそれを認めることから、脱却することができるのでは?と、考えるからだ。
むしろ、社会全体が「ポジティブ思考」であることの方が、恐ろしい。
様々な考えが集まり、社会が構成されていると考えれば、極端な「ポジティブ思考賞賛」のほうが、「全体主義的思考」の始まりとなるような気がするからだ。

「ポジティブではない自分を認めつつ、ネガティブな情報に考えが浸食されないように、ことばを使う」だけでも、SNSに溢れる誹謗中傷は少しだけ減るのでは?という、気がしている。


思考力をつけよう!

2020-06-15 20:54:17 | 仕事のコツ

ここ数日、考えることがある。
それは「思考力と思考速度」ということだ。
何故、そのようなことを考えているのか?というと、時々「答えが分かっているのに、何故考え込むのだろう?」と、感じる方と出会ったからだ。
決してその方の学力などが、劣っているわけではない。
にもかかわらず、「答えが分かっているのに、熟考するのか」不思議でたまらなかったのだ。

会社員時代に、あるマーケティングについての勉強会に、出席したことを思い出したのだ。
勉強会そのものは、1日をかけて3人くらいの講師の先生に登壇いただき「マーケティングの基礎~ビジネスにおけるマーケティング」という幅広い内容で、大学の先生から実際にビジネスパーソンとして活躍されている方まで、経歴も様々な方々だった。

その中で、大学の先生(=教授)が、「君たち、熱心に僕の話をノートに書いるが、ノートに書くことで勉強をして気になっているのではないか?」と指摘されたことがあった。
考えてみれば、私たち(の世代?)は小学校の頃から「教科書と先生が板書した内容をノートに書く」という授業を受けてきた。
そしてそのノートを読み返し、覚えることが「復習」だとされてきたような気がする。
それは小学校から大学まで、ほぼ変わることが無かったように思う。

その大学の先生は「僕の話を聞きながら、自分の会社はどうなのだろう?このような考えはできないのか?と、疑問を持ったり、僕の話から何かを感じて、考えるということはしないのかね?大切なことは僕の話ではなく、僕の話から何を感じ・考えたのか?ということだ」と、言われたのだった。
もっとも随分前の話なので、記憶が定かではない部分もあるのだが、話の趣旨としてはそのような内容だった。

おそらく「答えが分かっているのに、熟考してしまう」と感じてしまうのは、「答えを提示されていない為に、自分で考える為の時間が必要」ということなのでは?という気がしてきたのだ。
上述したように、小学校の頃から「考える」というトレーニングを、余りしてきていないのかもしれない。
実際、マーケティングの話をすると「How toを教えてくれるだけで十分」という方は、世代に関係なく案外多い。
ビジネスのフレームを作ってもらい、How toに沿って仕事をすれば、成功する!と、考えている方は少なくないようなのだ。

だが、これから先AIがごく当たり前のように使われるようになると、How toの仕事はAIがするようになるだろう。
何よりAIは、経験を学習しその学習から様々な場面や状況の中で、ベストと思われる選択ができるようにプログラムされている。
まだまだAIの「思考プログラム」が開発途上だし、そのプログラムを作る人によって、随分AIの思考そのものが変わってしまうという問題もある。
BUZZFEED Japan:Microsoftの人工知能は、なぜ虐殺や差別を「支持」するようになったのか……

しかしながら、コミュニケーションという部分ではなく「データベースから推測し、ベストな答えを導き出す」という、部分に限って言えば、How toにしか興味のない人よりも遥かに短時間でその答えを導きだすだろう。
そう考えると、ビジネスという場面だけではなく、本や新聞を読みながらでも「背景となるモノは何?」とか「問題の本質はどこにあるのか?」という、思考をめぐらすトレーニングが必要なのではないだろうか?

最初に「答えが分かっている」と書いたのは、私が同じ話を聞きながら「何故?解決策はどこ?」と考えていたからだ。
そしてそれは、日々の「思考トレーニング」によって、身につくことでありこれから先のAI時代には、必要な力のような気がする。


今だから読んでみたい、ミヒャエル・エンディの「モモ」

2020-06-14 20:53:30 | ライフスタイル

讀賣新聞に「幸せの二極化」という、記事が掲載されていた。
讀賣新聞:リモートワークで起きた「幸せの二極化」分かれ目となるキーワード

掲載記事そのものは、有料会員向けなので全文を読むことはできないのだが、この紹介部分だけを読んで思い出した本がある。
児童文学の名著といわれる、ミヒャエル・エンディの「モモ」だ。

モモという孤児の女の子は、1日何をするわけではない。
モモのいる場所に、様々な人が来て話をしていくだけだ。
その話に、モモは聞くだけで何かアドバイスをするわけではない。
にもかかわらず、多くの人はモモと話す時間をとても楽しみにしている。

モモに対して正反対の存在となるのが「灰色の男たち」だ。
「灰色の男たち」は、町の人たちの時間を取り上げることで生きている。
「灰色の男たち=時間泥棒」の存在は、人の生活をあわただしくさせ、「忙しい=金儲け」ということに価値を置くことが、豊かさに繋がる、と街の人たちの時間を奪い取っていくのだ。
「灰色の男たち」が言うように、豊かさを実感できれば人は「幸福」だと感じるはずなのに、街の人たちは「幸福」を感じることができない。
できないのではなく、そのようなことを考える時間さえも無くなっているのだ。

話の筋としては、大体このような内容だと思うのだが、この掲載されている「一人当たりのGDPと日本人の生活満足度」というグラフは、図らずも「灰色の男たち」が示す「豊かさと生活の満足度」と似ているような気がしたのだ。
1981年から1996年の15年間で、一人当たりのGDPは飛躍的に伸びている。
その伸びは、一時期的に落ち込むことはあっても、基本的には「右肩上がり」になっている。
少なくとも1981年よりも現在のほうが、一人当たりのGDPは増えている=経済的に豊かになっている、はずなのだ。
にもかかわらず、「生活満足度」はむしろ下がっている。

その理由を考える必要があると思うのだ。
その答えの一つが、ミヒャエル・エンディの「モモ」のような気がしている。
もちろん、理由は一つではなく様々な要因が複雑に絡み合い、生活者の価値観をこの40年近い時間で変わっていったはずだ。
「昔はよかった」的な懐古調的発想ではなく、「生活の満足度」とは何か?ということを、「新型コロナ」の感染拡大によって大きく価値観を変えざる得ない今だからこそ、考えるチャンスなのではないだろうか?
少なくとも、日本では「国はさほど当てにならないかもしれない」という認識から、「共助」という行動が生まれやすい環境になりつつあるだろう。
その「共助」を自主的にできる人は、「幸福度(生活の満足度)」が高い、という指摘は様々な論文が指摘している。
何より、近江商人の「三方良し」という考えは、今のビジネスには必要な考えのように感じている。

リモートワークによって、暮らしと仕事が接近したことで見えてくる「新し価値観」。
その「新しい価値観」の中に、「共助に参加することで、生活の満足度が上がる」という価値観が、これからは重要になってくるような気がしている。


電通と広告、そして国からの事業案件

2020-06-12 22:31:34 | アラカルト

Yahoo! のトピックスに、「時代の変化」を感じさせる記事が取り上げられていた。
元となった記事は、共同通信社の記事だ。
共同通信社:電通、3年で経産省事業42件 団体通じ請負

この見出しを見て、「あ~~、今話題になっている給付金などの事業請負に関連する問題か?!」と思われた方も、多いと思う。
確かにこの「給付金事業」の請負に関して、様々な問題が指摘されている。
東京新聞:「給付金」法人に14件1576億円 経産省が委託 7件は電通などに再委託

この「給付金」の問題を含め3年間で、経産省関連の事業42件を一般社団法人を通じて、請け負っていたということのようだ。

ここで「電通って、広告代理店なのに、何故?」と、疑問に感じられる方もいらっしゃると思う。
確かに、電通そのものは広告代理店であり、主な業務というのは広告主といわれる企業から、テレビCMや雑誌広告などを造り、テレビCMであれば放映時間枠をテレビ局から取り、雑誌広告であれば掲載ページを獲得する、というのが一連の仕事、ということになる。

しかし、スマホ利用者が増えたことで、これまでのテレビCMや雑誌広告では、これまでのような「広告の効果」が期待できなくなってきた。
社会の変化が大きくそしてゆっくりと進む中、電通自身が時代の変化についていけなくなっていった、ということが大きかったのではないだろうか?
事実、広告がどのような媒体(=テレビ、ラジオ、雑誌、新聞、インターネット)に移っているのか?というデータを見るとインターネットを媒体とした広告が急激に伸び、雑誌や新聞などの媒体の落ち込みが激しいことがわかる。
電通:2019年 日本の広告費 媒体別広告費-ナレッジ&データ

媒体別の広告データを作っているのが、電通というのもどこか皮肉な気がしない訳でもないのだが、逆に言えばこのような「公共性の高いデータ」というモノは、国の関連する団体(主にデータをつくるとすれば、経産省関連ということになるだろう)が作成するのでは?という気もする
ということは、このような公共性の高いデータ作成も、国の関連する団体から電通が請け負っているのか?という、気がしない訳ではない。

何より、このデータで示されている通り、これまで電通が得意とされてきたテレビCMなどの媒体の落ち込みが、大きくなり、インターネットなどの媒体が強くなったことで、電通の収益は減っていると言われている。
インターネットでの広告は、海外の高級ブランドがクリスマスシーズンに展開するような、膨大な費用が掛かっているモノから、さほど費用をかけずに制作されたのでは?と感じるモノまで、様々だ。
その傾向が特に強いのが、SNSにランダムに表示される広告だ。

テレビCMなどを通して培ってきた、政府とのコネクションをフルに使い、経産省関連の事業を請け負うことになったのは、そのような「広告と社会の変化」があり、それに対応できなかったという側面もあるような気がしている。
だからこそ、「広告代理店」という誇りをもって、「新しい広告」というイノベーションを示してほしかった、というのが個人的な思いだ。


「ポストコロナ」の音楽の楽しみ方?

2020-06-11 17:58:00 | ビジネス

昨日、サントリーホールで「ポストコロナ」を見据えたコンサートがあった。
サントリーが定期的に開催している「アフタヌーン・コンサート」のライブ配信だ。
サントリーホール:【ライブ配信】日本フィル&サントリーホールとっておきアフタヌーン オンラインスペシャル

これまで「新型コロナウイルス」の感染拡大で見られたyoutubeなどでの無料配信ではなく、事前にチケットを購入してもらい、購入者に対してライブ配信をする、という企画コンサートだった。
チケットの価格も席種でははく、「日本フィル応援チケット」と「通常チケット」という2種類。
「日本フィル応援チケット」というのは、今回の「新型コロナ」によって、中止になった公演や開催目途が立たない為に日本フィルを支援するためのチケット、というものだ。

実は、このサントリーホールの「有料ライブ配信」と同じように事前に有料のライブ配信を予定しているバンドがいる。
サザンオールスターズだ。
サザンオールスターズ:サザンオールスターズ特別ライブ2020「Keep Smilin'~皆さん、ありがとうございます!!~

ライブ配信の一部収益は、「新型コロナウイルス」で孤軍奮闘している医療関係や研究機関への寄付を目的としている。
サントリーホールやサザンオールスターズが予定している有料ライブ配信はで示されていることは、チャリティーという側面はあるが、きちんと収益を出す、ということに主眼を置いている点だ。

この「収益を出す」ということが、これまでyoutubeなどで無料配信されていたライブ映像と大きく違う一つだろう。
「収益を出す」という考えがこれから先、重要になっていくのでは?と、考えている。
これまで、拙ブログでは「マズローの欲求の5段層」の中で、音楽や映画などは様々なモノが満たされた後で起きる欲求であるという指摘をさせて頂いてきた。
だが、音楽や映画を創る為に働いている人たちの「最低限の生活保障」がされなければ、社会が「新型コロナ禍後」音楽や映画などの文化を求めるようになった時、支える人達がいなくなるという指摘をしてきた通りだからだ。
その意味で、無観客とは言え「収益を出す」ために、チケットを販売するということは、とても重要なことのはずだ。

もう一つ有料ライブ配信のメリットがあるとすれば、ライブ配信そのものが「グローバルである」という点だ。
確かに、チケット代は日本円となっているので、海外から視聴するということは難しいように思える。
ただ、海外旅行をした時クレジットカード決済をするように、チケット代を決済時のレートで換算する、ということもできるのではないだろうか?
今や、日本のミュージシャンがbillboard誌のグローバルチャートに登場するのが、当たり前になりつつあることを考えれば、日本の音楽家がネット上のワールドツアーのような感覚で、有料ライブ配信をするということも考えられる時代になってきているのでは?

「新型コロナ」によって、ライブが中止になってしまったが、サントリーホールと日本フィルの協同の「有料ライブ配信」やサザンオールスターズの無観客有料ライブ配信などは、「ポストコロナ」の音楽を届ける一つの方法なのでは?と、考えるのだ。





ビジュアルイメージは大切

2020-06-10 11:03:15 | マーケティング

Huffpostを見ていたら、「へ~~~」と思う記事があった。
Huffpost:キンカン、94年の歴史で初めてファッション雑誌に広告掲載。その悲痛な理由とは・・・

見出しにある「悲痛な理由」というのは、やや大げさな気がしない訳でもないのだが、虫刺されの塗り薬として古くからある「キンカン」が、新しい顧客層を獲得する為に、パッケージなどを一新し新商品を発売することになったのだが、今回の「新型コロナ禍」により、当初予定されていたプロモーションを取りやめざる得なかった。
その代わりとして、ファッション誌への広告掲載となった、というのが記事の内容になる。
ただ、商品企画担当者はこのプロモーションに相当な力を入れていたようだ。
金冠堂:キンカン渋谷の夢-KINNKAN's DREAM

まず注目すべきは、新商品のパッケージだ。
「キンカン」といえば、黄色を基調に赤い文字などが使われている、馴染みのパッケージだ。
そのパッケージそのものも、大きな変化が無く、むしろ「キンカン」という商品名を見なくてもパッケージを見るだけで、「キンカン」とわかるほどだろう。
それほど、多くの人にとって馴染みがあり、定着したイメージのパッケージだと言える。

これほど定着したイメージの商品となると、新商品のイメージづくりは、これまでの商品イメージを全く変えてしまう必要がある。
何故なら、現行の商品と新商品を区別するためには、現行商品のパッケージイメージをそのまま使っては、新商品という新鮮さが無いからだ。
それは同時に、これまでの「キンカン」という商品イメージを捨てる、というリスクもあるということになる。

今回の「KINKAN Noir」は、商品名に使っている「Noir=黒」という言葉そのものを全面に押し出し、黒を基調としたパッケージデザインにしている。
しかも商品の購入対象者を、家庭薬を使う家族世帯や高齢者世帯ではない、若い世代としている為にこのようなパッケージデザインにし、広告イメージも商品に合わせたファッション性の高いビジュアルにしている。

パッケージを一新したからといって、どれだけ若い世代に受け入れらるのかは、まだ分からない。
若い世代が「キンカン」という商品に、古臭いというイメージを持っているのであれば、たとえ同じ成分であってもこの位大胆なパッケージ変更をし、イメージを変えなくては新しい顧客層を獲得することは難しいだろう。
そのイメージ一新ができたのは、やはり「キンカン」という商品が、94年というロングセラー商品だからできることなのだ。

個人的には「キンカン」の効果の一つ「肩こり、腰痛」をもっと強調し、独特の香りが薄まれば需要の掘り起こしは、もっとできるのでは?と、思っていたりするのだが・・・。





「あつ森」とファッション。「新型コロナウイルス」が創り出したモノ

2020-06-09 19:41:46 | ビジネス

今人気のニンテンドーSwitch用ゲーム「あつまれ、どうぶつの森」のアバターに着せる服が、話題になっている。
WWDJapan:「あつ森」の”マイデザイン”に「ヴァレンティノ」や「マーク・ジェイコブス」も注目 SNSで紹介

昨日になってウエディングドレスデザイナーのYumi Katsuraさんも、「あつ森」の”マイデザイン”に参加する、と話題になっている。
ねとらぼ:ウエディングドレスブランド「Yumi Katsura」があつ森マイデザを公開 
     ジューンブライドのイベントにぴったりなロングドレスがすてきです

「新型コロナウイルス」が世界的流行になった頃から、「コロナ禍で売れている商品」として、ニンテンドーSwitchと「あつまれ、どうぶつの森」の名前が挙がるようになった。
理由を改めて説明する必要は無いと思う。
「#stayhome」が世界的キーワードとなり、家で過ごす時間が当たり前になった。
自宅で過ごす為に、人気となったのが上述したニンテンドーSwitchとそのゲームソフト「あつ森」だったのだ。

私自身は、「あつ森」に限らずゲームそのものをしないので、ゲーム内容を知る由もないのだが、ファッション業界がこれほどゲームに興味を示すことは無かったのではないだろうか?
その理由として考えられるのは、RPGのゲームのような「試練を乗り越え目標を達成する」というような内容ではなく、「無人島生活から始まる」という「自分の暮らしを創っていく」というというゲーム(のよう)だ。
どこか時間の流れがとしているだけではなく、ゲームとはいえ「人としての生活」を創り出すという点が、ファッションデザイナーの興味を引いたのかもしれない。

それだけではなく、今回の「新型コロナ禍」により、来シーズンの欧米のファッションショーの発表がどうなるのか?という不安もあるのでは?と、考えている。
今年の7月開催予定のパリ・メンズコレクションは「デジタル」での開催が決まっている。
VOUGE:パリメンズコレも7月にデジタル開催が決定!
ウィメンズの関しては、ミラノとロンドンが7月のデジタル合同開催を決めている、という状況になっている。
もちろん、これらのコレクションは「プレタポルテ」と呼ばれる「既製服」であって、コレクションの中心となる「オートクチュール(注文服)」はほぼ全面的に中止となっている。
プレタポルテがデジタル開催なのに、オートクチュールが中止となったのは、やはり来場者の客層が違うからだろう。
オートクチュールの来場者の多くは、実際に注文をする人であり、プレタポルテはバイヤーやファッションジャーナリストが中心だからだ。

もう一つ考えられるのは、ファッション業界全体が「ファストファッション」が市場の中心になっているのでは?という、危機感もあるのではないだろうか?
確かにヴァレンチノやマークジェイコブスの服は、気軽に購入できる価格ではない。
デザイナー側としては、新しい購入者層(というよりも、デザイナーのファンというべきか?)を獲得したい、という思いがあるのではないだろうか?
まして、若い世代にとってファッションには興味はあっても、コレクションの映像などを見たるする機会は、ほとんどないのでは?と、考えるからだ。
新しい購入者層獲得の一つとして「あつ森」を考えている、とも思える。

ファッションショーのデジタル化とこれまでファッションには興味はあっても、その接点がほとんどなかった若い層の獲得という点で、ヴァレンティノをはじめとする有名ファッションデザイナーたちが、積極的に「あつ森」のアバターへの衣装提供をし始めているように思えるのだ。

 


「学び続ける」ことの大切さ

2020-06-07 20:17:32 | 仕事のコツ

スポーツ紙に、意外といっては失礼だが、面白い記事があった。
スポニチ:吉村府知事の”名参謀”大阪のコロナ対策を支えるスーパーウーマンは「いくつになってもチャレンジ」

大阪の吉村府知事といえば、政府がなかなか発信しない「新型コロナウイルス対策」に対して、積極的に発言をし独自の支援策や対策を次々と打ち出し、今や首相の安倍さんよりも存在感のある政治家として、注目されている。
その吉村さんを支えるブレーンの一人が、この記事で紹介されている「健康医療部」の部長・藤井睦子さんだ。

藤井さんの経歴を見ると、流石の出身大学!と思うところは十分にあるが、それ以上に素晴らしいのは、行政職として常にその職場で最大限の力を発揮し続けていた、ということなのだと思う。
最大限の力を発揮するための、努力は大変なモノであったのでは?と、想像することはできる。
その「努力」の一つが、学び続けるという姿勢なのだと思う。

随分前、日経新聞が「諸君。学校出たら、勉強しよう」という広告を春に出したことがあった。
宣伝会議:日経新聞のコピーから読む「勉強」のこと

「諸君。学校出たら、勉強しよう」という広告が掲載されたのが、1982年。
今から38年前ということになる。
長い社会人生活の中で、不思議に思っていることがある。
その一つに「社会人になると、勉強をしなくなるのは何故か?」ということだ。
日経の広告が、今でも見る人に強く訴えかける力があるのは、この広告がでた頃から「社会人が変わっていない」からだろう。
もちろん、この広告が出た頃は「就職すれば、一生安泰。年功序列で定年までにそれなりの経済保証はある」という時代だ。
何より企業側も「学生時代に学んだことは、一旦リセットし改めて企業にあった人材教育をする」という、時代でもあった。
社会人になれば、積極的に学ぶ必要は無く、ある程度は企業側が用意した「営業の仕方」等のノウハウを理解すれば、それで大丈夫だったのだ。
だからだろうか?社会人になると途端に「職務に必要な勉強とは何か?」ということを、考えることなく惰性のように会社員生活をする人は多かったように感じる。
そしてそれは、男性が多かったように感じている。

理由は、女性が男性と同じ土俵で仕事をするためには、それ相応の覚悟と実績を残す必要があったからだ。
そのため女性の方が、職務を果たすための勉強を欠かすことなく、全力で取り組む必要があった、という点が大きいように実感している。
私自身、マーケティングという仕事に携わるようになると、「一般教養」と呼ばれる芸術文化の分野はもちろん、経済や社会情勢、時には「クラスター分析」を理解するために高校生の時以来、物理を学び直すということまで、当たり前にしてきた(物理はすっかり、忘却の彼方に去ってしまったが・苦笑)。
それが「偉いでしょ!」という気は、さらさらない。
仕事をするのだから、当然のことだろう(と考えていた。のだが・・・どうやら違うようだ、とここ数年で気が付いた)。

性差でも飛びぬけたセンスも関係ない。
藤井さんのように、新たな職務を任命されれば、それを「チャレンジ」と受け止め勉強し続けることができる人が、これから先必要な人財となっていくのでは?と、感じている。




これからは「データが読める」ことが、重要になるかもしれない

2020-06-06 21:17:20 | ビジネス

朝日新聞のWEBサイトを見ていたら、「これからのビジネスパーソンに必要なことかもしれない」と感じる、記事があった。
朝日新聞:場当たりな人気より、データに基づく日常を 宮田裕章氏

タイトルを見ると「データ分析ができることが重要」という気がするが、注目する内容はタイトルではなく次の表題である「平均値ではなく『個別最適』へ」という点だ。
有料会員の記事なので、全文を読むことはできないのだが、書きだしの部分だけでも読んでいただきたい。

「データに基づく」という点で名前が挙がっているのが、ドイツのメルケルさんだ。
ご存じの方も多いと思うのだが、メルケルさんは大学で物理学を専攻していた。
いわゆる「リケジョ」の元祖のような首相だ。
そのため、今回の「コロナ禍」の政策では、データを基にした政策を打ち出すだけではなく、根拠としたデータも開示していた。
そのデータが意味するところが十分理解できなくても、データが開示されたことで多くの人たちは、メルケルさんの政策や方針を支持することができたのでは?と、考えている。
それは単に「数字」という分かりやすさという点だけではなく、根拠となるものが分かったからだろう。

一方手厳しい評価を受けたのは、米国のトランプさんであり安倍首相だ。
特にトランプさんの場合、科学的根拠が認められないモノを政策として進めようとするだけではなく、以前から気に入らないとTwitterなどで、人を攻撃する等、気分のムラがある傾向が見られ、政策そのものも支持基盤となっている南部のラストベルトの人たちへ手厚い内容であったのか?という、疑問も感じている。
データを使う云々ではなくトランプさんの場合、自身の気分による発言が目立って多いということだろう。

安倍さんについては、改めて書く必要は無いと思う。
ただ日本の政治家の場合、「情緒に訴える」政治家は多いような気がしている。
むしろ「数字を出して演説をする」という政治家は、故田中角栄氏くらいだったのではないだろうか?
そのため、日本の政治家が「根拠となるデータを開示し、政策を説明する」ということが、苦手なのだと思っている。
しかし、今回の「コロナ禍」のような状況では、メルケルさんのような「根拠となるデータの開示とデータ分析による、政策」という力が必要になってくる。
それは受けてとなる生活者を説得・納得させるための材料だからだ。

それだけではなくメルケルさんの政策で注目すべき点は、「データを開示・分析」したうえで「一番必要としている人・業種・企業は何か?」というところまで読み込んでいる、という点だろう。
日本では「データ分析」といったとき、どうしても「平均値」に注目してしまう傾向がある。
日本の人口が1億人を突破した頃、「一億総中流」という言葉が頻繁に使われた。
多くの国民が「平均値内の暮らしをしている」という、意味でも使われた言葉だ。

しかし今となっては「一億総中流」から、どんどん格差が生まれ「格差社会」が当たり前になってしまった。
だからこそ「データ」の平均値ではなく、データを構成する個別に注目する「データを読む力」が、必要となってくるのだ。
そして「データを構成する個別」に注目し、「データを読み解き、その個別の人たちの暮らしを考えた政策(企業であれば企画)」を考えることが重要になっていくのでは?と、考えている。



経済のV字回復を目指すよりも・・・。

2020-06-05 20:20:18 | ビジネス

休校が続いていた小中高校なども、今月から本格的再開となった。
「緊急事態宣言」から解放され、先週末の繁華街は久しぶりに活気が戻ったようだ。
そして、テレワーク・リモートワークなどが続いていた企業も、一部業務は出勤という形態になったと聞く。
もちろん、テレワーク・リモートワークを継続している企業や担当部署もあるだろう。
「人が動き出した」という点で考えれば、今月からが「新型コロナウイルス」の影響を受けた経済の回復期に入るのでは?という状況だと思う。

「経済の回復」という言葉が出る様になると、経済誌だけではなく一般誌でも「V字回復」という言葉が、使われるようになる。
だが「V字回復」できるほど、日本だけではなく世界の経済は力があるのだろうか?という、疑問がある。
もちろん、経済の回復は1日も早い方が良いということは、分かっている。
分かっているが、急激な回復などは望めないという状態が、今の世界的な経済状況なのではないだろうか?
「V字回復」という発想は、怪我や病気をした人に、いきなり富士山登山をさせるような発想、のような気がしてならないのだ。

実際、観光業などは需要が回復するまでに1~2年は必要だろう、と考えているようだ。
日経新聞:新型コロナ観光業100社「需要回復1~2年後」過半に 本社調査

需要が1~2年後と見ている観光業者が過半数を超える、ということだが一応、来年には延期となった「東京オリンピック」が開催されることになっている。
現実問題として、開催できる・できないではなく、あくまでも「予定」として開催されることになっている。
それを考えると、観光事業者の方々も「東京オリンピック需要」への期待も僅かでもあるのかもしれない。
需要を掘り起こす切っ掛けとしての、「東京オリンピック」という位置づけも、考えられる。
もしかしたら、観光業者としても1~2年の需要回復は「観光業におけるV字回復」のような、ニュアンスがあるかもしれない。

今回の「コロナ禍」によって、改めて知ったことは「生産拠点の海外移転」という点だろう。
経済のグローバル化によって、日本企業は日本国内から海外へと生産拠点を移していった。
ところが、今回の「コロナ禍」によって、海外から材料や部品、製品が届かないという状況に陥ってしまった。
顕著な例が「マスク」ということになるだろう。
何気なく「花粉症対策」として使っていた「サージカルマスク」が、中国からの輸入に頼っていた、ということを私をはじめ初めて知った、という方も少なくなかったのでは?

そこから始まった「マスク狂騒」。
原材料となる不織布も中国からの輸入に頼っていた為に、国内で生産したくてもできない。
と同時に原材料の高騰により、1箱500円程度だったマスクが2,000円、3,000円と跳ね上がった。
今は値崩れを起こしているようだが、値崩れを起こしている「マスク」を買いたいという人は少ないようだ。
理由は「製品としての品質」への疑問だ。
同時に起こってきたのが「国内産布マスク」だ。
不織布が手に入らないなら、国内でつくられた布マスクのほうが、安心できる、という生活者が急激に増えたのだ。
そのため、全国各地の縫製業者さんだけではなく異業種とも思える企業も、次々と参入し人気となっている。

一連の「生活者の気持ち」を考えた時、経済のグローバル化で海外に生産拠点を移すというリスクを、これからの企業は考える必要がある、ということになる。
これは「マスク」に限ったことではなく、経済のグローバル化が進めば進むほど、国内で生産する力を持ち続ける必要がある、ということだと思う。
それらの生産基盤があればこそ、国内の景気回復も早くなるのでは?と、考えるのだ。