日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

耳障りの良い「カタカナ語」で、人を惑わすことは止めて欲しい

2021-04-29 19:59:34 | アラカルト

世間はGWということらしい。
とは言っても、昨年と同様に「ステイホーム」という名の、「自粛生活」を余儀なくされている方も、多いだろう。
この「ステイホーム」に限らず、「耳障りの良いカタカナ語」が、生活に溢れているな~と最近感じる事があった。

それは、あるラジオ番組の「相談コーナー」でのコトだった。
相談者は、現在就活中の学生さんで「キャッチコピーが上手く作れない」という、相談内容だった。
この相談を聞きながら、「今時の学生は、キャッチコピーを作らなくてはいけないのか?!」と、驚いたのだった。
「キャッチコピー」とは、10~20文字程度の言葉で、商品やサービスのアピールをするための短い文のことだ。
受け手となる人に対して、印象に残るような言葉を選び、商品やサービスの本質を伝えなくてはならない。
日ごろこのような仕事に携わっている者であっても、なかなか大変な仕事であることには変わりない。
そのような大変なことを、今時の学生さん達は就活でしなくてはならないのか?と、驚いたのだった。

ところが、よくよく聞いてみると「あなたの長所や短所を一言で言ってください」ということの様だった。
気になって、「就活・キャッチコピー」とネットで検索してみると、「自分の長所をまとめる」と「キャッチコピーのつくり方」にあった。
であれば、何故「長所を一言で言い表す」という言葉を使わなかったのだろう?

ここ10年くらいの間で、ビジネス、特にマーケティングや広告制作で使われる言葉が、一般に使われるようになってきた、ような気がしている。
その顕著な例が「セルフ・ブランディング」という言葉だろう。
しかも就職活動中の学生さんに「セルフ・ブランディング」を勧めるような、傾向があるようだ。
仕事として「ブランディング」や「ブランド管理」をしている側として、「学生にセルフ・ブランディングなど必要ない!」と、言いたくなるのだ。

そもそも「ブランディング」の意味を、学生たちは理解しているのだろうか?
マーケティングや広告の仕事をされている方ならご存じだと思うのだが、「ブランド」は、牛などの家畜に「個体識別のために焼き印する」行為からきている、と言われている。
「個体識別=区別あるいは差別化」という意味で使われるようになったのが「ブランド」であり、その「ブランド」を構築し、管理することを「ブランディング」ということになる。

言い方を変えれば、就職活動中の学生さん達は、他の学生さんと自分の違いを構築し、管理しなくてはならない、ということになる。
あくまでも、個人的意見として「存在そのものが、特別なひとり」でなのに、改めて「他者と自分を区別し、商品化する必要」があるのだろうか?という疑問と違和感がある。

それだけではなく、そのような「セルフ・ブランディング」をすることによって、「私って、○○な人なの」という、枠を自分にはめてしまい、時にはそれを言い訳として使い、新しいことに挑戦をしなくなってしまうのでは?という、気がするのだ。
社会に出れば、それまで経験をしたことが無いようなことに、挑戦しなくてはならないことが多々ある。
その意味では、常に「先入観にとらわれない自分」で、あり続けなくてはならない。
逆に言えば、社会が必要とする人財は「自分自身はもちろん、様々なモノ・コトに対して、先入観を持たず、挑戦できる人物」なのだ。

マーケティングという実学は、アメリカで生まれ・新たな考えがアメリカから発信されている。
そのため英語を和訳(あるいは意訳)しなくてはならない。
それでも難しい場合は「カタカナ」で表記されることになるし、「カタカナ表記(=カタカナ語)」のほうがニュアンスが分かりやすい場合も多々ある。
反面、やたらと「(聞き慣れない)耳障りの良いカタカナ語」で話し相手を煙に巻くような、使い方をする人も少なくない。
しかし「耳障りの良いカタカナ語」を多用する人に限って、その本質的意味を十分理解してない場合が多い。
そうすると「言葉の齟齬」が生まれ、全く違う理解をしてしまう場合も起きてしまう。
であれば、誰もが理解しやすい「日本語」を使う方が、コミュニケーションという意味で効果的なはずだ。

「耳障りの良いカタカナ語」を多用するのは、様々な場面で良いとは言えないのでは?
特に就職活動をしている人たちに対して、ビジネス用語やマーケティング用語を基にした「カタカナ語」は、不要だと思うし、本質的な意味を理解せず(あるいは「相手に理解させず」)、「耳障りの良いカタカナ語」を多用することは、とても危険な気がするのだ。





インタビュアーが悪いのか?答えた政治家の発想力がファンタジーなのか?

2021-04-28 22:28:00 | 徒然

先日、環境大臣をされている小泉進次郎氏のテレビインタビューが、話題になっていた。
実際のテレビを見てはいないのだが、小泉氏が「温室効果ガスを46%削減する」ということに対して、その理由らしきものを尋ねた回答に、世間が「???」となっているという。
TBSニュース:小泉環境大臣単独取材「46%削減をメダルに例えると?」

ただこのことに対して、小泉氏は「一部分だけを切り取られている」と、反論をしている。
朝日新聞:小泉氏「おぼろげ」発言を釈明「切り取られている」

リンク先のTBSニュースサイトでは、動画と文字おこしをした内容がみられるので、確認をしたのだがどうやら、小泉氏が言っている「46%削減」という数字は、何かしらの実績から積み上げた数字ではない、ということだけは確かなようだ。

最近の日本の政治家の発言を聞いていると、「数値目標に対して、根拠ある数字」というよりも、「気合の数字」を「数値目標にしているのでは?」と、感じる事が多い。
それは今回の「新型コロナ感染対策」についてもいえる事で、「変異株」の爆発的な流行により、昨年よりも感染者数が全国的に急増している、という状況にもかかわらず、明確な「自粛緩和」となる「数的指標」等が発表されていない。
とにかく「自粛にご理解とご協力を」というスタンスだ。

このような発言が数多くされている中での「数字は具体的でも、その根拠がボンヤリ。ファンタジー」という印象を与えてしまうような発言は、いかがなもの?と、感じる生活者は多いのではないだろうか?
それを「一部だけを切り取られている」と言われてもな~という、気持ちになってしまうのだ。

「切り取られている」という発言の記事にしても、菅総理をはじめ「積み上げた数字」となるモノが、全く見えてこないのだ。
このような場合端的に「現在の数字+今後の環境対策+環境対策によって見込まれる数字」という流れで、話をまとめられると、全体に「何故46%なのか?」ということが分かりやすい。
しかし、その「積み上げたはずの数字」が見えてこないために、「根拠がボンヤリ、ファンタジー」と言われてしまうのだ。

もちろん、インタビュアーの質問の仕方にも、問題があったのかもしれない。
意図的に、具体的な数字を引っ張り出すような質問をしなかった、というところもあったのかもしれない。
例え意図的にインタビュアーが、フンワリとした質問を投げかけたからと言って、「おぼろげに数字が浮かんだ」という回答はいかがなものだろう?

小泉氏の発言だけではなく、「新型コロナ」の一連の対策などで感じることは、日本の政治家はいつの頃から「数字に弱くなったのか?」ということだ。
田中角栄氏は、数字を出しながら演説をしていた記憶がある。
他の政治家の方々も「目標」となった時には、ある程度「具体的な積み上げた数字」を根拠として話していたような、気がするのだ。

感覚・感性は「時代の空気感」を読み解く力として必要だが、一方では「論理的な思考」を基にした発言もまた、重要なはずだ。
その「論理的な思考」の基になるのは、根拠ある数字の積み重ねだと思うのだが、違うのだろうか?

明日から世間ではGW。
やたらと「不要不急の外出を控え、ステイホーム」という政府広告が、流れている。
それでも1年間、我慢に我慢を重ねてきた生活者には、どれほど響く言葉なのだろう?


「均一感染対策」の危険性

2021-04-27 21:35:25 | アラカルト

東京をはじめとする1都2府1県に出された「緊急事態宣言」。
この「緊急事態宣言」によって、様々な業種が「半ば強制的な営業自粛」の対象となっている。
特に拘束されているのが、お酒などを提供する「飲食店」ということになる。
この「飲食店」の営業時短要請には、小池東京都知事の「20時以降は看板などを消灯して欲しい」という、内容のものまである。
この「20時以降の看板消灯」については、感染拡大抑制効果には疑問の声があったように感じている。
何故なら、今「感染クラスター」が起きている場所が「飲食店」とは、かぎらないからだ。

地方では、新学期が始まったことで、遠方から進学するために学校の寮などに入り、寮がクラスター要因になった、というケースも出ている。
集団で生活を始める事で、目に見えない様々な感染リスクが重なり「クラスター」が発生した、と考える必要があるのでは?という印象を持っている。

一方、今回の「緊急事態宣言」により、「演芸場」や「映画館」、「美術館・博物館」そして「図書館」等も閉館の対象となってしまった。
「演芸場」等は閉館要請ではなく、無観客での営業は認められている、ということだが「演芸場」で無観客というのは、演芸場を閉めろ、と言っているようなものだろう。
何故なら、「演芸場」での楽しみは、落語や漫才だけではなく、様々な芸を披露してくれる場所であり、何より来ているお客さんとの掛け合いのような空間が、「演芸場」という場所の醍醐味だからだ。
音楽の様に、オンラインライブというアイディアもあるとは思うのだが、来場者であるお客さんとの掛け合いのようなものからつくられる「空気感」を伝える事は難しいのではないだろうか。

そしてもっと不思議なのは「美術館・博物館・図書館」も対象に含めている、という点だ。
何故なら、これらの施設で大声で話すような人はいないし、元々一人か二人で来館する人達が多いからだ。
「美術館・博物館・図書館」そのものは、収蔵品の保管・管理の為に空調もしっかりと整えている。
その意味では、「飲食店」よりも「クラスターが発生しにくい場所」だと言えるはずだ。
何より、これらの施設の多くは、事前予約という方法をとるコトで「3密」を防ぐ努力も、してきている。
にもかかわらず「緊急事態宣言」によって、閉館になってしまっているのだ。

1年前の今頃は「新型コロナウイルス」という、今まで経験したことが無い「ウイルス感染」に、戦々恐々としていた。
それが1年経過し、ある程度の「予防策」が見えてきて、実行できるようになってきている。
にもかかわらず、「緊急事態宣言」だからという理由だけで、これまで様々な対策をし、それなりのリスクを減らすよう工夫をしてきている施設にまで「均一」の対応を迫る、というのは、いかがなものだろう。
むしろ、対策ができている施設に関しては、通常の営業・開館という方法をとるだけで、生活者の気持ちは随分変わるだろうし、行動そのものが変わり、「予防対策」にも協力的になるような気がしている。

「息の詰まるような生活」ばかりを要求され、しかもその要求される対策に効果を感じられないとすれば、人はその要求を無視するようなカタチで、新たな行動をするようになるのでは?
むしろ、懸念されるのは「無視された新しい行動」なのだと思う。


感染症の基本を、もう一度確認したい

2021-04-26 17:08:18 | アラカルト

 

昨日から始まった、東京・大阪・京都・兵庫の1都2府1県の「緊急事態宣言」。
お昼のニュースでは、出勤時の光景は相変わらずだったようだ。
毎日新聞:3度目の緊急事態宣言、通勤の様子は?東京・大阪

昨年の今頃は、大手企業を中心に「リモートワーク」への切り替えで、てんやわんやという状態だったように思う。
解除後は、徐々にオフィスに人が戻り、昨年の秋ごろには「新型コロナ」の感染拡大前のような状況になったのでは?という、気がしている。
2回目の「緊急事態宣言」の時も、ある程度の電車などの通勤利用は減ったのかもしれないが、3回目となるとこれまでの経験から「リモートワーク」への切り替えではなく、出勤の継続を判断する企業が多かった、ということが、毎日新聞の通勤風景から読み取ることができるのでは?と、感じている。

その一方で、宣言前の人々の行動は、政府の呼びかけはあまり効果が無かったのでは?ということのようだ。
讀賣新聞: 「川崎に来るしかない」改札からあふれる人…宣言初日、都民押し掛けた神奈川

「緊急事態宣言」による行動の制限がされる前に、出かけたい!という気持ちが強かったのか?
「東京がダメなら、緊急事態宣言が出ていない地域ならOK」と考えたのか分からないが、東京都民が「緊急事態宣言」が発令されない隣接県・神奈川県に移動したようだ。
もちろん、移動したのにはそれなりの理由があり、例えば、映画館が閉館していた為、開館している映画館を探したら、隣接県にあったとか、開いている商業施設に買い物に来たなどだ。

「映画を観る」とか「食品や日用品以外の買い物」は、「不要不急」なのではないか?という、指摘があると思う。
思うのだが、「3回目の緊急事態宣言」となると、その緊張感は以前より随分低く、生活者の受け止め方も違うと思う。
このような「宣言」は、何度も根拠なく行われると、効果が薄れていく、ということを指していると思うのだ。
「根拠なく」というと語弊があると思うのだが、「感染者数と医療崩壊状態である」と言うだけでは、効果が薄いということなのだ。

逆に「収束の為のロードマップ」等を示し、生活者に協力をお願いするという姿勢があれば、まだ人の行動は違っていたのでは?と、考えるのだ。
何故なら、この1年で多くの生活者は「人の移動で感染が拡大する」ということを、「Go Toキャンペーン」を通して十二分に知ったからだ。
にもかかわらず、その自制が効かなかったというのは、「自粛疲れ」もあるだろうし、「これまでの宣言でどれだけ効果があったのか?実感がない」ということも、あったのではないだろうか?

「効果が感じられない宣言」ということになれば、いくら担当大臣が「1年前を思い出して、自制を持って行動して欲しい」ということを話したところで、人の気持ちには響かない。
響かないから、行動の制限には結びつかない、ということになってしまうのだ。

ワクチン接種にしても、各自治体に丸投げ状態で、オリンピック前までに接種できるのか?という疑問も出てきている。
オリンピック・パラリンピック開催に向け、邁進し続ける政府の態度を見てしまえば、「オリンピック・パラリンピックがOKなら、この程度の行動は問題無し」と、生活者が判断しても仕方ないという状況にある、ということを国は考える必要があると思うのだ。



日本人女性が、クルマのプロダクトデザインをする

2021-04-24 22:02:05 | ビジネス

あるサイトを見ていたら、とても興味深い記事があった。
design stories:The Interview「シトロエン新型高級車C5X開発に関わる日本人女性の活躍」

見出しにある通り、フランスの自動車メーカー・シトロエンのカーデザインを日本人女性がした、ということで始まったインタビュー内容だ。

クルマそのものに興味がないので、そのプロダクトデザインをされた場所などはよくわからないのだが、少なくとも日本ではこのようなクルマのプロダクトデザインは、男性の独壇場なのでは?と、想像している。
何故なら、クルマのユーザーの中心はやはり男性だと思うからだ。
「ファミリーカー」や日本独特の「軽自動車」であれば、ユーザーに女性が多いことから、女性がプロダクトデザインをすることはあると思う。
それがこの「シトロエンC5X」という車種は、いわゆる「ファミリーカー」と呼ばれるタイプではない。
外装のデザインを見る限りでは、どちらかというと購買層となるのは中高年のクルマ好きの男性なのでは?という、気がしている。
だからこそ、この内装のプロダクトデザインを女性、しかも日本人女性がした、ということに驚きを感じたのだ。

このデザインを担当した女性は、元々日産自動車で同様のデザインをされていた、ということだが、カルロス・ゴーンという人物だったからこそ、彼女はルノーへ行くことができ、それがシトロエンのプロダクトデザインに、結びついたのでは?という気もしている。
これが日本のトヨタだったら、どうなのだろう?
トヨタが悪い訳ではない。
ただ日本の企業の多くは、企業規模に関係なく「〇〇の仕事は男性向き。✖✖の仕事は女性向き」という潜在意識のようなものがあるのでは?という場面が多々あるからだ。

私の会社員時代よりも、随分女性のマーケターが増えたとは言え、まだまだ男性の独壇場の様な状況だ。
女性のマーケターが活躍する場面の多くは、女性向けの商品という場合のほうが、まだまだ多いと実感している。
だからこそ、男性の独壇場のような「クルマの車内のプロダクトデザイン」を、若い日本人女性がしている、ということにフランスと日本のジェンダーギャップの差を感じたのだ。

そして、このような「女性がクルマのプロダクトデザインをしている」ということが、話題になるコト自体、日本のジェンダーギャップの問題なのかもしれない。
クルマ云々ではなく、またプロダクトデザインという分野に関係なく、本来であれば「性差に関係はない」のはずなのだ。
「男性だからできる・女性だからできない」のではなく、あくまでも「個人のセンス」なのだと、改めて気づかされる。

「性差」という思いこみを外したとき、個人のセンスや実力というモノが見えてくるはずだ。
残念ながら、日本ではまだまだ「性差」による仕事の区別があり、それはルール決めなどでは解消されない問題のような気がする。
さて、「その壁」を打ち崩すのは、女性自身なのだろうか?それとも・・・。



対効果はどれほどあるのだろう? 飲食店看板などの20時消灯指示

2021-04-23 19:29:03 | ビジネス

東京と京都、大阪、兵庫の1都2府1県に対する「緊急事態宣言」が、出された。
大阪を中心に関西地区では、変異株の感染者が急増しているので、当然と言えば当然という気がする。
特に3月以降の感染者の急増は、これまでと比べようもないほどの増加だ。
大阪都知事の吉村さんも、有効な手立てを打つ暇なく感染拡大となってしまった、という気持ちかもしれない。
京都、兵庫の2県は、大阪と隣接しているだけではなく、通勤や通学など人の行き来も多い。
そのため、関西圏として歩調を合わせる必要があったのだろう。

東京に関しては、今月に入るまで異様に感染者数が少ないような印象を持っていた。
ところが、今月に入り急増している。
まして、東京2020オリンピック・パラリンピック開催に向け、中止などの検討をしていないかのような「開催ありき」で、進んでいるような印象がある。
「これ以上、感染者を増やさないため」という目的で、「緊急事態宣言」ということになったのだろう。

ここの事情は分かるのだが、今回の「緊急事態宣言」で、東京都知事の小池さんが今日「20時以降看板などの消灯」ということを言い始めた。
THE PAGE:午後8時以降「看板、ネオンは消灯を」コロナ対策で小池都知事

これは「まん防」等との関連もあるのだと思うのだが、「消灯して効果があるのだろうか?」と、疑問に感じたのだ。
確かに「看板やネオンなどを消灯」することで、「営業をしていない」という社会的アピールになると思う。
ただ、それが効果的なのだろうか?と考えると、疑問を感じてしまうのだ。
何故なら20時以降営業の自粛を続けてきた数多くの飲食店側とすれば、「今まで努力してきたのに、コロナの感染者は増え続けているではないか?!」という、疑問を持っているのでは?という気がするからだ。
違う言い方をするなら、「飲食店が20時に営業を終了しても、コロナの感染拡大は止まらなかったではないか!?」という、疑問を持っているのではないだろうか?

確かに、今月に入ってから判明した「クラスター」の多くは、「飲み会」等に関係したものが多かった。
それは「少人数・短時間・騒がない」等のルールが守られなかったために、「クラスター」が発生したのでは?
「飲食店を20時に閉店させれば、クラスターが発生しなかった」という、理由にはならないと思うのだ。
飲食店ではなく、BBQやピクニックなどであれば安全なのか?と言えば、決してそうではないはずだ。
朝日新聞:盛況の野外飲み、さらに増?富岳が導き出すそのリスク

富岳が導き出したデータから考えれば、飲食店を20時に閉めさせても、外飲みで騒げば関係が無い、ということになる。
1年以上「自粛生活」を送ってきた生活者にとって、既に「我慢の限界」は超えてしまっているのだ。
そのように考えると、「飲食店への20時消灯」のお願いは、対効果があまり期待できないような気がするのだ。


「広告」の難しさ

2021-04-21 12:09:24 | マーケティング

朝日新聞系にGLOBE+という別紙がある。
そのGLOBE+に「なるほどね~」という、記事があった。
GLOBE+:みんなが絶賛するポカリCM、友だち失う覚悟で批判した塩谷舞さんの思い

おそらく、記事の内容を読んで「あぁ~、テレビCMの想定購買層ではない人からか…」と感じた方は、マーケティングや広告制作に関わっている方だろう。
実際記事を読んだとき、私自身「テレビCMで想定している購買層ではない方から見ると、そんな感じなのか!」と、少し目から鱗が落ちた気がした。

テレビCMに限らず、広告を制作する時「中心となる想定購買層」を中心に考える。
今回のポカリスエットのCMについて言うなら、想定購買層は「中高校生」ということになる。
だからこそ、ポカリスエットのCMはほぼ一貫して中高校生世代に人気がある、あるいは現役高校生のタレントを起用してきたのだ。
何故なら、「想定購買層」となる中高校生から共感を得やすいからだ。
ポカリスエットCM:「でも君が見えた」篇60秒

「みんなが絶賛」しているかどうかは、分からないがテレビCMとして、よくできていると思う。
新学期が始まった中高校生の持っている不安や希望、そして若さの中に秘めた躍動感…そんな印象を持つことができるCMだと感じる事ができる(あくまでも個人的感想です)。
「想定購入層」ではない生活者層が見ても、「青春の爽やかさ」のようなものが感じられると思う。

塩谷さんが指摘しているように、今のSDGsなどの視点から考えると、ペットボトル飲料のCMは「今時のCM」ではないのかもしれない。
記事中にある通り、ポカリスエットに限らずスポーツドリンクの粉末タイプを、各メーカーは発売しているし、部活などでは専用の大型ボトルで溶かして飲んでいる、という生徒たちも多いだろう。
それだけではなく、これから暑くなってくると「熱中症対策」として、高齢者もスポーツドリンクを飲む機会が増えてくる。
これまでとは違う「購買層」が既に市場にあり、その生活者の生活スタイルに着目したCMなどが必要だとも考えられる。

気になるのは、「ペットボトル飲料=✖」という感覚には、抵抗感がある。
例えば上述したように、高齢者がスポーツドリンクを飲む場合、粉末と水の分量が分からず過剰に濃かったり、逆に薄かったりということがある。
そのような心配がないのが、ペットボトル飲料のメリットでもあるのだ。
それだけではなく、日本の場合ペットボトルの回収率は諸外国に比べ高い。
PETボトルリサイクル推進協議会:日米欧のリサイクル状況比較(統計)

「リサイクル率が高いから問題ない」という気はないが、ペットボトルのメリットも考えてバランスの良い使い方をする時代がきている、と考えたほうが「SDGsを考えながら両立させ、生活を窮屈にさせない方法」だと考えるからだ。

とすれば、それを両立するためには何が必要なのか?と考えれば、CMの最後に商品ラインナップを出すことだろう。
加えて言うならば「粉末でつくるスポーツドリンク」という、作り方ポイントのCMなども必要かもしれない。
そして、絶賛されているテレビCMはあくまでも「商品イメージ」のCMという位置づけだと思われるので、具体的な商品よりのテレビCMを制作し、流すという方法だろう。
個人的には「テレビCM」には、ある程度の夢や希望の表現が必要だと考えている。
何故なら、いくら虚構の世界であっても、時には人を勇気づけ前を向く力を与えてくれる力を持っていると、信じているからだ。





「ことばの使い方」で、広告や企業の印象が変わる

2021-04-20 19:43:20 | マーケティング

しばらく前に、シャープのあるTwitterが目に留まった。
「コロナ禍でふんばる飲食店さんへ」というTwitterだ。
このTwitterについて、毎日新聞が記事を掲載している。
毎日新聞:コロナ禍でふんばる飲食店さんへ シャープが粋なプレゼント企画

企画そのものは、飲食店がシャープのtweetをretweetすると抽選で、シャープ製の空気清浄機が当たる、という販促キャンペーンだ。
とはいえ、「コロナ禍」で経営が厳しい状況が続く飲食店にとって、販促企画であってもこのようなプレゼントキャンペーンは嬉しいだろう。
設備投資したくても、なかなか空気清浄機購入ができる経営状況ではない、という飲食店が多いのでは?と、想像できるからだ。

まして、第4波が起き、全国各地で「まん防(新型コロナまん延等防止重点措置)」が適用される自治体が増えるという状況では、飲食店のみならず「空気清浄機」は必須品となっている。
そのような状況の中での販促プレゼントキャンペーンは、効果的だろう。
ただそのようなキャンペーン内容だけではなく、キャッチコピーそのものが飲食店だけではなく今の日本人の心情を的確につかんでいるように思えるのだ。

この1年、私たち生活者は「国民の良心的行動」によって、「コロナ禍」拡大防止に努めてきた。
その時、散々言われた言葉の一つが「がんばれ」だったように思う。
しかし1年という時間「がんばれ」という言葉に、押しつぶされそうになりながら、なんとかやってきたがその先が見えない、という状況にあるのが今という時だ。
むしろ、シャープがキャッチコピーとして使った「(何とか、ギリギリ)踏ん張っている」というのが、生活者の心情のような気がするのだ。
「頑張る」のではなく、「土俵際ギリギリのところで踏ん張っている」という生活者の気持ちをすくいとることで、高い共感性を呼び、飲食店以外の業種の人たちに対しても、一つの「エールを送る」ことばとなっているのだ。
逆に「踏ん張りがきかなくなった」時は、総崩れになってしまうという危険もはらんでいる、というようにも受け取れる。
これは、シャープが訴える飲食店だけではなく、現場の医療関係者はもちろん、生活者全体に言えることかもしれない。
果たして、の危機感を感じ取れる政治家は、どれだけいるのだろう?

少なくともこのキャッチコピーで、シャープという企業が生活者の側にいて、一緒に「コロナ禍」に立ち向かっている、という印象を与える事に成功している。
「ことば」の使い方一つで、その広告や企業に対するイメージが変わる、という好例だと思う。


フロントランナーのつもりが、いつの間にか周回遅れ、という日本の現実

2021-04-17 22:51:51 | ビジネス

「新型コロナ」の接触確認アプリ「COCOA」の不具合が判明してから、しばらく経つ。
その後、「アプリの修正などについての情報は?」と、疑問に思っていたら、朝日新聞になかなか衝撃的な見出しで「COCOA」の現状を報じる記事があった。
朝日新聞:「人も専門知識も足りず」COCOA業務のお寒い体制

この見出しを見た時、LINEが日本の企業ではなく中国企業に業務の一部を、委託していた理由が分かったような気がした。
実際、LINE側の発表の中に「日本で委託できる企業が無い」という趣旨のコメントを出していたように思う。
残念なことに、今の日本は「情報産業」あるいは「IT産業」と呼ばれる産業分野において、フロントランナーのつもりで走っていたら、いつの間にか周回遅れになっていた、という気がしたのだ。

一体いつ頃から、周回遅れになってしまったのだろう?と、考えると、なんとなくだが「iPhone」が登場した頃から、徐々に遅れ始めたのでは?という気がしている。
というのも、Appleの「iPhone」が登場した時、日本の携帯電話(=ガラケーあるいはフィーチャーフォン)を製造していた企業の偉い方々は「技術的にはわが社にもあった」という趣旨の発言をしていたからだ。
「わが社にもあった」という技術が活かされるようになる前に、多くの企業は携帯電話の製造から撤退をし、今では極一部の企業が、シニア向けあるいは子供向けの携帯電話を製造しているにすぎず、主流のスマホとなればお寒い限りだ。

これは何もスマホを含む携帯電話市場に限らず、「半導体」についても同じだろう。
「半導体」に関しては、今やIT機器だけに搭載されるものではなく、様々な家電や自動車などにも使われるようになっている。
先日のルネサスの火災により、自動車メーカーの生産に支障をきたす、というニュースがあったばかりだ。
そのルネサス自体も「世界の半導体」の中では、台湾や韓国、中国の後塵を期す、という状況に陥っている。
今台頭している台湾などの半導体メーカーは、日本企業の下請けとして成長し、様々な企業の要望に応える事で、力をつけ今では下請け企業のほうが、世界の中心的メーカーとなっているのだ。
言葉が悪いが「軒先を貸して母屋を取られた」ような状況にあるのが、日本の半導体ということになるのかもしれない。

上述したように「半導体」だけではなく、ソフトウェアの開発についても日本では遅れを取ってしまっている、ということになるだろうし、「新型コロナ」の感染拡大により、「戦後日本企業がリードしてきた」と、自負していた産業が、「ガラパゴス化」し、世界の標準から後れを取り、いつの間にか周回遅れになってしまっているのでは?ということが、露呈した感がある。
独立行政法人経済産業研究所:自動車産業すら負け組に・・・IT産業が弱い日本、コロナ禍で”大失業時代”が現実味

その現実を直視することが「バブル経済崩壊」から30年経っても、浮上できない大きな理由のような気がしている。


 


テイクアウトのスタイルを変えよう

2021-04-15 21:44:03 | ビジネス

讀賣新聞のWEBサイトを見ていたら、スターバックスが「冷たい飲み物の容器を紙製に変える」という記事があった。
讀賣新聞:スタバ、冷たいドリンク全23品目の容器を紙製に…年間6700万杯のプラゴミ削減期待

「コロナ禍」になる前から、スタバに行くことがほとんどなく、行ったとしても店内で飲むだけだったので、テイクアウト用の容器にはさほど興味が無かった。
確かに、スタバの冷たい飲み物の容器は、透明なプラスチックだったな~ということに、記事を読んで思い出した位だった。
そのプラスチック容器から紙の容器に変える事で、プラゴミを大きく減らすことができる、という期待がある、ということのようだ。

1週間ほど前に、Huffpostに韓国のスタバの「プラゴミ削減」についての記事があった。
Huffpost:スタバ、使い捨てカップを初めて廃止。韓国で2025年までに。導入されるディポジット制度とは?

こちらは、冷たい飲み物用だけではなく、暖かい飲み物も含めた「使い捨てカップ」が、対象のようだ。
どちらがSDGsに対して積極的な取り組みなのか?と言えば、韓国の様にも思える。
思えるのだが、韓国の場合2025年までという猶予期間を考えると、どちらが積極的なのか?とは、言えないような気がする。

ただ、韓国で始める「ディポジット制度」というのは、ある意味興味深い。
「ディポジット制度」というのは、持ち帰り用のコーヒーを買ったとき「容器代」を支払い、次回その容器を返却することで、「容器代」を払い戻す、という制度だ。
確かに「ディポジット制度」そのものは、悪いものではないと思うし、利用者の意識が「容器代返還」というメリットを感じ、積極的に利用するなら効果は期待できると思う。
思うのだが、その「メリットと手間」という天秤にかけた時、どちらを選ぶのか?ということが、気になる。

日本のプラスチック容器から紙容器というのは、確かにプラゴミの削減にはなるはずだ。
だが、その紙容器は何からつくられるのだろう?という疑問が出てくる。
海外から輸入される木材チップを加工して作られた紙容器であれば、それはSDGsの考えからは外れる事になるし、牛乳パックなどの再生紙からつくられるのであれば、環境に優しいという建前にはなる(現実問題として牛乳パックなどからの再生紙が、本当に環境に優しいのか?私自身よくわからないのだ)。

ただこのような動きの中で、もう少し踏み込んだ「容器の持ち込み」という方法もあるはずだ。
実際、ヤフコメなどでは「水筒やポットの持参」によってポイント付与や容器代を値引くなどの、意見が出ている。
「環境問題への取り組み」という点で考えれば、「水筒やポットなどの持参」を推進するほうが、アピールになるだろう。
そこまで積極的に踏み込めないとすれば、それは「提供するコーヒーの味」等の点で、保証ができないということだと思う。
それだけではなく、スタバの主力商品の一つである「フラペチーノ」は、水筒やポット向きの商品ではない、という点も大きいだろう。

しかし、スタバに限らず「容器持参」という方法は、環境問題という視点だけではなく、「カスタマイズ」という視点でも、面白いのではないか?と考えている。
昭和の中頃までは、自宅にある空き瓶を持ってソースなどの量り売りをしてもらっていた。
その時は「中濃多めでウスターを混ぜて」と注文すると、中濃ソース6:ウスターソース4位の割合の「我が家のソース」を買うことができた。それはお味噌なども同じだった。
そしてこのような「カスタマイズ」という方法は、「環境」という視点からも古くて新しいスタイルになるかもしれない。
そしてこのようなビジネスは、昔ながらの商店街などがノウハウなどを含め有利かもしれない。