日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

侮れないコンビニお菓子

2006-05-31 22:43:00 | マーケティング
今日の新聞などに、「セブンイレブンのお菓子がモンドセレクション最高金賞受賞」と言う記事が掲載されていた。
この「モンドセレクション」という賞は、昨年サントリーの「ザ・プレミアムモルツ」が、ビールの部門で最高金賞を受賞している。
今年も、同賞を受賞しV2となったようだ。

それにしても、今回驚くのはコンビニエンスストアーオリジナルの商品が、このような小を受賞したことだろう。
コンビニエンスストアーは、数年前から「オリジナル商品」開発に力を入れてきた。
顕著なのは「調理パン」や「おにぎり」といった「ランチ向け」の商品。
他にも店頭調理を売りにしている、コンビニエンスストアーもある。
またメーカーとの共同開発商品として、ポテトチップスなどの「限定スナック菓子」などもある。

これらの商品に共通していることは、「マーケット・イン」という視点だ。
日本人の味覚には、甘味・塩味・苦味・酸味・辛味のほかに「旨味」がある、と言われている。
この「旨味」や食文化の豊かさが、日本人の味覚を発達させてきた。
それがコンビニお菓子を、このような海外の食品賞の最高賞を受賞させるコトになったのだろう。

だが、不安が無い訳ではない。
昨今の「味覚障害」や、ファーストフードやインスタント食品頼りの、「貧弱な食事」の一般化だ。
別に「お袋の味」となるような食事だけを、奨励する気はない。
「お袋の味」そのものも、大きく様変わりしていると考えるからだ。
ただ、折角日本人の持っている味覚や多様な食文化を大切にできる、様々な提案を「食」に携わる人たち・企業がもっとして欲しいのだ。
例えば、高齢者世帯の「ミールサービス」には、「栄養を摂る」だけではなく「食事をする」ということそのものに、大きな意味がある。
高齢者=和食と言う発想ではなく、「噛む・飲み込む」という食事行為+食事での会話を豊かにするための「ミールサービス」という視点だ。

あくまでも一例なのだが、ビジネスチャンスはこのようなところに、あるのではないだろうか?


 

人材と言う名の企業資産

2006-05-30 21:18:57 | アラカルト
一昨日のエントリにコメントをくださった、カミナリ弟さんありがとうございました。
「学生サークル」のノリで、起業化したIT企業といえば「Google」等がありますね。
大切なことは、「Google」にできたことが何故、ライブドアができなかったのか?ということだと思います。

カミナリ弟さんが、提議してくれたテーマは実は今の日本企業が抱えている大きな問題のように考えますし、感じます。

バブルの頃、OJTで新人研修を担当したことがありますが、「人を教える」ということの難しさを痛感しました。
当時私が勤務していた企業は、名古屋でも古い企業だったこともあり基本的には「女性は男性のサポート業務」という意識が、根強くありました。
ただ、意外にも当時50代だった役員のオジサンたちは「女性の能力を使い切れない男は、マネジメントもできない」という考えが強く、女性が様々な企画業務に携わることを評価していました。問題だったのは、保身に走る「中間管理職のオジサンたち」だったのです。
そのような人は、どうしても柔軟な発想を育てる気も無ければ、そのための努力もしない。
それが、昨日のエントリ「仕事をしない上司」へと繋がっていくのです。

バブルの頃、人材に対しての考えの一つとして「使い捨て」的なトコロが若干なりともあったように思う。
この頃から「転職」そのものの意味も、「キャリアアップ」という言葉に置き換えられるようになったように思うし、キャリアと言っても半年~1年未満でも十分「キャリア」と評価するような風潮があった。
嫌な言葉だが、「使う側と使われる側の利害が、一致していた時代」だったように感じるのだ。
ところが、バブルが崩壊してから企業は急速に、人件費の安い若年で十分キャリアを積んだ人材を求めるようになった。
考えてみれば、おかしな話で「社会経験がさほどない若年者が、十分なキャリアを持っているはずはない」のだ。
その代わり、キャリアも技術も十分持ち合わせている人材を「リストラ」という名前で、職場から追い出してしまったのも事実だろう。
結局職場に残った人材の多くは、「何もしない保身的な、可もなく不可もない人」ということになってしまったのだ。

バブル崩壊以降、日本企業の多くが「人材と言う企業資産」を増やす努力を、してこなかったように思う。
その背景には、それまでの企業に対する社員の忠誠心を、当たり前だと思っていたからだろう。
本当はバブルの頃、既に企業も社員もそれを放棄してしまっていたのだ。
挨拶一つできず、お金儲け第一主義的思考の社員を作ってしまったのは、企業にも責任があるように感じる。

ちなみに、私が勤めていた企業は「女子社員教育」についてはとても厳しく、「お茶汲み・コピー取りはできて当然。ふきんと台ふきの洗濯、雑巾がけなど、雑務+自分の仕事」が、求められていました(笑)。
おかげで「気持ちよく仕事をする」という心遣いだけは、キッチリ教育されたように思いますね。

こういう上司って、いるよね~

2006-05-29 21:07:21 | アラカルト
讀賣新聞のWEBサイトに、「発言小町」という読者相談の企画記事がある。
毎日新聞のWEBサイトのチェックはしていたのだが、今日気になるタイトルだった。
それが「仕事をしない上司」
この相談者の手紙を読みながら、「今でもこういう人っているのね~」と思わず呟いてしまった。

私の会社員時代でも、このような上司はいた。
一緒に仕事をする身としては、モチベーションだけではなく、仕事を見ていないから評価も他部署に比べ低い。
私も、そんな上司に嫌気がさして、半ば会社を辞めたようなところがあった。
ところが・・・いざ会社を辞めるとなると、他部署の偉いさんから「そんなに、彼が嫌なの?」、「嫌なのはわかるが、もう少し我慢できないか?」と言われた。
案外、人は見ているものなのだ。

ただ問題なのは、実態を知っていても「減点対象」となるような仕事のミスがない限り、大胆な降格人事が行われないことだろう。
「リストラ」という嵐の中でも、この手の人は「無関係」な存在となって、企業の不良資産となっているはずなのだ。
そろそろ「何もしない=事業の後退」と言う、判断基準が企業マネジメントとして必要なのではないだろうか?

見た目と言葉-堀江さんとマイケル・ジャクソン-

2006-05-28 23:18:30 | アラカルト
先週、ライブドア事件の初公判があった。
そこで明らかになった事件の一部内容に、やや驚いた。
それは、堀江さんの企業経営の感覚が「学生サークル」的だったこと。
あくまでも主観なので、反論される方も多いとは思うがあえて「学生サークル」という言葉を使わせてもらいたい。
その一つが「俺マター」という言葉。
訳すなら「俺様主義」というのか、「俺様第一」ということになるだろう。
企業経営者の中には、「自分が一番」という感覚を持っている人は少なくないが、実際言葉にすることは少ないように感じる。
と言うのは、企業経営のトップとなれば一緒に仕事をするスタッフから反発を買っては、企業が目標としている様々なコトを実現するのに、支障をきたすからだ。
もう一つが「俺って知らないよね。知らないから」という言葉。
余りにも企業経営者として、「責任」が無さ過ぎる。
この言葉が側近と呼ばれる、旧経営陣が反旗を翻した理由のようだ。

昨年秋から、朝日新聞のテレビCMで「言葉の力を信じている」と言うキャッチコピーを使っているが、「言葉の力」というのは「相手」を常に意識しなくてはいけない。ということだろう。

もう一つ、気になったこと。
昨日日本で行われた音楽賞の授賞式に出席した、マイケル・ジャクソン。
「ジャクソン5」からソロになって、「オフ・ザ・ウォール」という大ヒットアルバムを出していた頃に比べると・・・見た目の劣化が激しい。
激しいどころではない。
別人と言うか・・・人的ではない。
アンドロイドの金属疲労のような印象なのだ。
マイケル・ジャクソンが、あのような容姿になり始めた頃から音楽的な活躍よりも、ゴシップのほうが目立つようになってきた。
ミュージシャンとしては、決してプラス材料ではないし、実際彼の作り出す音楽も面白さがなくなってきたように感じた。
人間的創造性が外見とシンクロした、ミュージシャンと言う印象だ。

人の持っている表現方法は、様々だ。
ただ、言葉や見た目は、強く印象に残る。
堀江さんにしても、マイケル・ジャクソンにしても「自分をよりよく見せる」という、プロデュース力に問題があったということだろうか?

ゴーン氏的発想?-多様性の大切さ-

2006-05-26 22:22:22 | ビジネス
朝日新聞のWEBサイトasahi.comに「関西の多様性生かして」 ゴーン氏、太田府知事に助言と言う記事が、掲載されていた。

カルロス・ゴーン氏といえば、日産自動車をV字回復をさせた経営者として評価されている。
ゴーン氏自身、ブラジル生まれ日産自動車の社長に就任する前はフランスのミシュラン社で副社長をされていた。
まさに「多用な価値観の中で、経営手腕を磨いてきた人物」だと言える。

日本ではどうだろう?
バブル崩壊後「成果主義」という言葉のもと、「合理性」という名の「均一化」が図られ過ぎてきたような気がする。
元々、日本の経営(行政なども含む)マネジメントの基本には、「減点主義」というモノがある。
「失敗」ということに対して、過剰なほどネガティブだ。
「失敗した人=能力がない」的なレッテルを組織の中で貼られ、セカンドチャンスすら奪う傾向が強い。
その結果「何もしない」ことが、将来安泰と言う保険となってきたのではないだろうか?
「均一化された中で、何もしない」というのは、ある意味マネジメントをする側からすれば、楽だ。
そこに突然「成果主義」という、「結果(時には、お金儲け)万能」的な尺度が登場し、社会全体が持て囃されるようになった。
その良い例が、書店に並ぶ「HOW to成功談」だろう。
「こうすれば、儲かる」・「これが成功する方法」的な書籍が、書店のビジネスコーナーに平積みされ、ベストセラーリストの上位にランキングされる。
それは他人の成功談であって、自分の成功へと結びつく発想や考えではないはずなのだが、「均一化」された社会の中では有効な方法論として受け止められるのだろう。

今、大阪は(産業的に)元気がない。
かつて大阪は、東京とはまったく違う文化を育くんできた。
それは、江戸(東京)の官僚的な文化ではない、町民文化だったはずだ。
町民と言う多様性の中から大阪独自の、地域文化が薄れたことで大阪は元気がなくなってきた。

ゴーン氏の「多様性を生かす」ということが、大阪だけではなく地方が元気になるキーワードのような気がする?
東京だけが、日本ではないのだから。

脳に効く?朝食-朝型生活と創造性-

2006-05-25 20:47:56 | ライフスタイル
GWの頃だっただろうか?「独身男性の3人に1人が、朝食抜き」と言う記事が新聞に掲載されていた。
しばらくしてから、毎日新聞のWEBサイトに欠食児童:やせ細った新入生…校長、見かねて牛乳飲ます--都内の公立小と言う、ややショッキングな見出しの記事が掲載された。
この飽食の時代に、欠食児童・・・と言う印象がある見出しなのだが、どうやら親の都合で朝食抜きの子供たちが増えているようなのだ。
そして、今日同じ毎日新聞のWEBサイトに川島隆太・東北大教授に脳を聞く 創造すれば活性化、朝食抜くとガス欠と言う記事が、掲載されていた。

それにしても、一体いつ頃から「朝食抜き生活」が一般化・定着したのだろう?
昭和30年代から40年代初め、子供の朝の仕事の一つは宅配牛乳を取って来るということだった。地域によっては、鍋やボウルを持って近所のお豆腐屋さんにお豆腐と油揚げを買いに行くという仕事も、あったかも知れない。
それが、朝の食卓に並べられるのだ。
もちろん、家族がほぼ揃った状態で食べるのが、当たり前の風景だったのではないだろうか?
それが普通といってしまうのは、やや乱暴だとは思うのだが、今でもお味噌(インスタント味噌汁も)やインスタントだしのCMなどでは、使われるシーンである。
それが、ダイエット目的で朝食抜きのライフスタイルが女性の間で、当たり前になってきた。
と同時に、(当時の)若年層で深夜型生活へとシフトしはじめたのではないだろうか?

「一分でも寝ていたい」というのは、よく分かる。
でも、これからは「朝型ライフスタイル」=「創造性のある質の高い仕事」となるのかも知れない。
それは、子供であっても同じということだ。

街づくりって・・・

2006-05-23 22:42:37 | アラカルト
土曜日、年に1回ほどドライブに出かける友人と一緒に、「浜名湖ガーデンパーク」に行った。
一昨年「浜名湖花博」となった会場を再整備し、県民公園となった「花をテーマにしたパブリックパーク」だ。
実は、ここの入場料も駐車代も無料。
広大な公園を維持するだけでも、それなりの経費がかかると思うのだが・・・といらぬ心配をするのだが、実際行ってみるてわかったことがあった。
それが「市民ボランディアの活用」ということだ。

この公園を訪れる人の多くは、花博会期中も話題となっていた「モネの庭」と呼ばれるゾーンがお目当て。
私も、友人もこの庭がお目当てだった。
午前の雨も上がり、五月の日差しの中で咲きはじめた、薔薇やモネの代表作「睡蓮」の池などを見て回ったのだが、その来訪者とは一見して違う人達が、庭でなにやら作業をしている。
それも、1人2人ではない。
数人のグループが、それぞれの持ち場で花を入れ替えたり、剪定したりしている。
まるで、自分の庭を手入れしているように、時には一緒に作業をしている仲間たちとおしゃべりをしながら、楽しそうにしているのだ。
どうやら、ボランティアとして参加しているらしい。
他にも、会場案内などもボランティアが担当している。
ボランティアの多くは、花博で活躍した人達のようだった。
と言うのも、花博の施設の多くを残し、維持・管理に大変だと思われる箇所を撤去しているようなのだ。そのため、花博の印象を大きく変えることなくボランティアも活動できるのだろう。

それだけではなく、園芸店や市民サークルの花壇などがあり、会場内の花が途絶えないような工夫がされていた。
モネの睡蓮の池にかかる橋には、「身障者の方が困っていたら、皆さんで助け合ってこの庭を楽しんでください」という趣旨の、小さな看板があった。
有給スタッフがサービスを提供するのではなく、来場者にもこのような行動のお願いをしているのだ。
「心のバリアフリー」を行動に移すことを促していると言うのだろうか?

もちろん、市民ボランティアや市民サークルなどの協力だけで、広大な公園を維持・管理することは難しいだろう。
ただ、行政が提供するサービスを期待するだけではなく、行政と一緒になってサービスを創りだしていくシチズンパワーを、もっと活用すべきではないだろうか?

華やかなアトラクションのある「アミューズメントパーク」ではなく、市民が自由に楽しめる公園が身近にある街づくりのほうが、都市としての快適度が高いように思えた。
何よりも「自分達の公園」という意識が、ゴミなどがほとんど落ちていない快適な空間と時間を、市民が創りだしているような気がしたのだ。

携帯電話もコンテンツ産業

2006-05-22 21:41:10 | マーケティング
今日、一般紙・経済紙に「auがウォークマンブランドの携帯電話発売」という記事が、掲載されている。
その前には、ボーダフォンとiPodを搭載した携帯共同開発が発表された。
他にもauは、Googleとボーダフォン(=ソフトバンクモバイル)は、Yahooと業務提携を発表した。

ここにきて、携帯電話サービスの方向が変わってきていると、拙ブログでも指摘させていただいた。
それは既に多くの人が指摘しているように、今秋始まる番号ポータビリティー制度を、見込んでのことだろう。
これまで、「携帯電話を購入すること=新しい携帯番号を購入する」ということだった。
機種変更には、安くても1万円近くの手数料を支払うことになるが、新機種はタダというある種の矛盾があった。
機種変更も新機種購入も実際の手間は、さほど変わらないと思うのだが・・・。
この違いについての、説明をできる販売担当者にもあったことがない。
ただ、携帯電話番号が増えること=企業収益となる要素があるのではないか?というある程度の想像はできるのだが、あくまでも想像の範囲だ。
それが、これからは携帯電話そのものと提供するサービスによって、企業の差別化がはかられることになるのだ。

とすれば、行き着くところまで行き着いた感のある「割引サービス」ではなく、携帯電話のデザイン(=使いやすさ)と割引以外でのサービスの充実が必要となってくる。
「ユビキタス社会」と言われるように、「いつでもどこでも情報収集+情報発信」が、当たり前になってくるのは確実だろう。
それだけではなく、ウォークマン~iPodへと技術的・機能的変化が、日本人の生活ですっかり当たり前となった「音楽を持ち運ぶ」ということも必須となるだろう。

ということは、携帯電話という事業は「携帯電話を販売する」のではなく「携帯電話で使える情報・音楽などのコンテンツ提供」事業へと変わってきていると言うことになる。
auやボーダフォン(=ソフトバンクモバイル)は、次々と割り引き以外の新サービスや生活スタイルを提案してきている。
果たしてDocomoはどう動くのか?

「TUBAKI」現象?-黒髪回帰-

2006-05-20 21:52:12 | ライフスタイル
毎日新聞のWEBサイトに、黒髪回帰:若い女性中心に チェ・ジウら影響か…老若逆転と言う記事が掲載されている。
拙ブログでも幾度かエントリさせてもらっている、資生堂の新しいヘアケア商品「TUBAKI」の店頭用小冊子にも、「日本女性の美しさ」として「烏の濡れ羽色」という表現を使って,黒髪の美しさを言っている。
これまでの茶髪一辺倒から、艶々と輝く黒髪が美しさの基準だ!という新しい方向性を打ち出している。

そう言えば・・・「天使の輪」という言葉が、いつからかテレビCMで聞かれなくなった。
「天使の輪」というのは、艶々と輝く健康的な髪の毛に見られる光沢の輪のことだ。
おそらく花王の「メリット」のキャッチコピーとして、1970年代から使われ始めたのではないだろうか?
当時の10代の女の子にとって、この「天使の輪」が綺麗にできるか・できないかは、結構重要なおしゃれポイントだった。
今の女子高校生が、茶髪にしコテでクルクルカールを気にするのと同じ感覚だった。
その「天使の輪」が、おしゃれの基準から外れたのは、茶髪の一般化と同じ頃だったように思う。
そして「烏の濡れ羽色」という言葉とともに、茶髪人気が翳りはじめた。
「おしゃれ」の時代変化というか、女性の美意識変化と言うべき現象だろう。

このような美意識の変化は、女性生き方としての変化でもあると言うのは、以前にも書いているが、今は「茶髪も黒髪も時々で楽しむ」ということなのかもしれない。
それは、女性の生き方の多様化にも反映されている。

私事だが、美容院のお勧めでオレンジ(!)のヘアマニュキアを使っている。
それは、中途半端な白髪が「やつれた様に見える」という理由から。
30代~の女性のおしゃれの基準は、若々しくと言うよりも「やつれた様に見えない、ある程度のキチンと感がある私らしさ」ということだろう。
女性は、自分らしさのおしゃれを求めはじめている。
さて、男性はどうだろう?

ユビキタス社会?-携帯とPC-

2006-05-19 22:10:01 | トレンド
Yahooのトピックスに総務省調査、携帯からのネット利用がパソコンを上回ると言う記事が掲載されていた。
総務省の詳しい調査は、平成17年「通信利用動向調査」の結果を見ていただきたい。

実際、様々な動きが始まっている。
ボーダフォン日本支社を買収したソフトバンクは、ヤフー、「ソフトバンクモバイル」とのサービス連携始動(日経WEBサイト)を開始する。
10月1日からの新会社スタートに向けての顧客新サービスということになるだろう。
記事中にもあるが、ライバル企業auはGoogleと業務提携を発表している。
このような動きは、やはり「ユビキタス社会」をにらんでのことだろう。
事実、PCから携帯へとネット情報の利用方法が変わってきている、というのが裏付けられた調査結果だ。

反面、情報差別と言う問題も出始めているような気がする。
PCや携帯を持たない人達と、持っている人達との差だ。
もちろん、PCや携帯を持っていても、そのような情報サービスを必要と感じない人達もいるだろう。

様々な情報を簡単に手に入れることは、とても便利なことだ。
実際、拙ブログを書く場合、いろいろなサイトを巡り情報を収集している。
仕事となれば、もっと様々な情報収集や裏付け調査の情報が必要となる。
ただ、便利になればなるほど考えてしまうことがあるのだ。

それは、必要な情報を収集する力だ。
これほど便利ではなかった30年位前、ピンポイントのキーワードで幾つモノ情報を得ることが出来なかった。
そのため、周囲の情報や知識、背景となる出来事まで「関係がある」と思われることは、何でも調べる対象となった。
もちろん、ノートに書きとめ、キーワードとの関連図みたいなものまでメモる。
そんな繰り返しを、高校生の頃からやってきたのだ。
それが、マーケティングと言う仕事をするにはプラスとなるのだが、今はピンポイント情報をネットで見ただけで、関連・周辺情報まで知った気になってしまうと言う傾向が、あるように感じるのだ。

いつでも・どこでも、簡単に様々な情報をキャッチできる「ユビキタス社会」は、便利だ。
でも、決してそのような人たちばかりではない。
場合によってはそのような情報社会を拒絶している人もいる。ということを、知ったうえで情報を使うことを考える時代なのかも知れない。
そう感じるのは、私だけだろうか?