日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

安倍元首相の国葬に思う

2022-09-26 20:18:17 | 徒然

明日、いよいよ「安倍元首相」の国葬が、日本武道館で行われる。
海外からの要人と言えば、G7からは誰も参列をせず、米国からはハリス副大統領が参列。
ただ、先般行われた英国のエリザベス2世の国葬に参列をされなかったインドのモディ首相などが参列をされる。
インドと英国との関係の難しさを感じるのは、私だけではないと思うのだが、もしかしたら安倍元首相は、国内よりもアジア諸国での評価が高かったのかもしれない。

国内においては、「モリカケ、桜を見る会、自己満足で終わった感のあるアベノマスク」等「説明責任」を十分にされず、都合がよいように法律を解釈し、周囲から忖度をさせる事で、問題を乗り切った感がある。
何より、安倍元首相が胸を張っていたはずの「アベノミクス」は、実質的には大失敗だったと感じている。
改めてその理由を言うまでもないと思うのだが、大企業への優遇により大企業の内部留保はどんどん増えたが、それが給与や設備投資に回る事は無かった。
むしろ、ここ30年間の間で日本の労働賃金は、OECD諸国の中でも最低に近い状態に陥っている。
違う言い方をするなら、「アベノミクス」で生活が豊かになるどころか、国民の多くは貧しくなったと言えるかもしれない。

とすると、安倍元首相は国内政策はことごとく失敗したが、対外国政策は一定の成果があった、ということになるのかもしれない。
これほど、両極に振れる首相も珍しいと思うのだが、安倍元首相を始め現在の岸田首相に至るまで、「国民を見る目」が昭和なのかもしれない。
というのも、先日の英国・エリザベス2世の国葬を見た岸田首相が、「見栄えの良い国葬にするように」と指示をしたとか、しなかったとか…という週刊誌報道があったからだ。

今の若い方からすれば、「何を見栄を張って」などと思われるかもしれないが、盛大な葬儀というのは故人の業績や人柄などが良かった、という意味合いを持っていたのが、昭和だったからだ。
そのための「箔付け」が必要だと、考えたのかもしれない。
だからこそ、参列者の人数の多さにもこだわったような、気がしている。
故人に対する業績や人望というだけではなく、立派なお葬式を出すことは、お葬式を出す側もまた「立派な人」という見方をするのが、昭和だったからだ。

岸田さんの目的の一つが「弔問外交」ということのようだが、人数が多ければ多いほど、立ち話だけで内容のある話等は、できないだろう。
「国葬」という場で、自分を売り込みたい!という、岸田さんの考えも透けて見える。
岸田さんご自身は、「安倍元首相の後継者」というアピールをしたいのかもしれないが、多くの有権者は「国葬」を力づくで行うことを決めたことで、むしろ反感を持ってしまった。

半ば都市封鎖に近いような厳戒態勢で行われる「安倍元首相の国葬」、果たしてどのような成果が生まれるのだろうか?
そして「費用対効果」は?



「日銀介入」という言葉を、久しぶりに聞いた

2022-09-23 20:22:19 | アラカルト

昨日、「久しぶりに聞いたな~」と思う言葉を、ニュースで聞いた。
それが「日銀介入」だ。
久しぶり過ぎて、以前「日銀介入」という言葉を聞いたのか?と思えば、24年も前だった。
朝日新聞:政府、日銀が24年ぶりの円買い為替介入 財務官「断固たる措置」 

財務官の「断固たる措置」という言葉から、相当な危機感を持って円安傾向を抑えようとした、意思が伝わってくる見出しだ。
何故ここにきて、日銀が円安傾向に歯止めをかける為に、介入したのか?と言えば、「これ以上の円安が続くと、日本経済に与える影響が大きい」と判断したからだ。
そんなことは、拙ブログで言わなくても、わかっていらっしゃる方ばかりだろう。

では、何故今まで「円安傾向」の野放しにしてきたのか?という、疑問が次に出てくる。
これまで言われていたことの一つに、「輸出産業にとっては、メリットが高い」という点があった。
ここでいう「輸出産業」とは、今や日本経済の屋台骨となっている、自動車産業等のことを指していた。
しかし、日本経済が強くなってきたころから、「日米経済摩擦」という問題が起き、その矛先となったのは自動車産業だった。
そのため、自動車メーカーは積極的に現地法人をつくり、日本から輸出をするのではなく、消費地となる現地で自動車をつくり・販売をするという体制を整えてきた。
今や「自動車産業」は、日本の輸出産業の中心ではなくなったのである。

とすれば、どのような産業が「輸出産業の中心なのか?」ということになる。
残念ながら、そのような産業がパッと思いつかないというのが、現状なのではないだろうか?
1980年代までであれば、半導体などがあったはずだが、ご存じの通り日本の半導体産業は、台湾をはじめとする諸外国から遅れを取ってしまい「日本一人負け」のような状態になってしまっている。
家電にしても、多くは海外で生産されたものを日本のメーカーの名前で、販売されているというのが現状だ。

逆に、日本の生活者は様々な輸入によって支えられている。
食品原材料しかり、電力をはじめとする様々なエネルギーなどなど、円安が進めば直接的に打撃を受けるのは、生活者という状態にある。
実際、円安傾向になってから様々な商品やサービスが、値上げされている。
生活に直結する商品やサービスの値上げは、実質賃金が上がっていない日本では、「景気の冷え込み」になってしまう。
だからこそ、日銀が円安傾向に歯止めをかける為に、為替介入をしたのだ。

考えなくてはならないのは、「何故、急激な円安いになったのか?」ということだと思う。
米国をはじめ、欧州でも金利を上げている。
先進諸国の中では、日本だけが「0金利政策」を続けている。
日銀の黒田総裁は、「0金利政策を続ける」という趣旨の話をしている。
NHKニュース(7月21日付):日銀 黒田総裁「金利引き上げるつもりはない」金融緩和継続方針 

「金利を引き上げれば、円安傾向が収まるのか?」という点においては、なんとも言えない部分が多いと感じている。
というのも、政府から明解な「経済政策」が打ち出されていないからだ。
そのような、日本から発信されるべき「経済政策」が全くと言っていいほど無い、ということが問題なのでは?という気がしている。

「アベノミクス」による、大企業に対する税優遇措置の見直しなどを含め、抜本的な「日本経済対策」が政府から発信されない限り、この傾向は続くのではないだろうか?


広告制作で注意したいこと

2022-09-21 17:05:04 | マーケティング

Yahoo!のトピックスに取り上げられていた、ベルメゾンの通販カタログの記事を読んで、改めて広告の難しさを感じた。
共同通信:千趣会、ナチス本写真掲載で回収 通販カタログ「ベルメゾン」 

実は、この問題になった「ベルメゾン」のカタログが、我が家にもあった。
問題となったページを見ると、いわゆる洋書の古本で、本のタイトルには「ナチス」という文字は無い。
「第三帝国の建築」というタイトルの本で、しかも英語ではない。
表紙を見る限りでは、海外のオシャレな通りや建物を、紹介しているような感じだ。
語学に堪能であれば、わかったかもしれないが、そうではないスタイリストさんでは、気づくことは無いと思う。
当然、千趣会側も気づかなかったのでは?という、気がしている。

その一方で、ヒットラーがかつて自分が住んでいた、オーストリアのリンツの都市計画を立てていた、ということが分かっている。
この話を知ったのは、数年前に「アルスエレクトロニカ」というイベントを中心にした、街づくりというテーマの市民公開講座だった。
元々工業都市として発展してきたリンツは、「公害の街」として知られるようになった。
そして産業構造の変化により、街の高齢化が進み「人が住みにくい街」となる。
その「住みにくい街」を、「自然と文化(特に科学)が融合できる街づくり」に変化させていく為の起爆剤となったのが、「アルスエレクトロニカ」という、科学を中心としたイベントだったのだ。
Huffpost:アルスエレクトロニカとは?オーストリアの都市・リンツが「文化都市」として蘇った理由

この話の中で、講師をされていた方が見せてくれた「都市模型」の写真が、まさにヒットラーが考えたリンツの都市計画だったのだ。
それほどヒットラー自身は、都市計画や建築等に興味を持っていた、ということなのだ。
建築や都市計画ではないが、ヒットラーは若い頃ウィーンの美術学校を受験し、失敗をしている。
この時の美術教師の一人が、クリムトであり、受験生の中でトップの成績を収め入学したのが、エゴン・シーレであった。
この美術学校の受験に失敗した話は、比較的有名な話なので、ご存じの方も多いと思うのだが、「リンツの都市計画」については、建築等を専攻していた経験のある方ならともかく、多くの人は知らない話なのでは?という、気がしている。

ただ、広告では「知りませんでした」では、許されないこととなってしまう。
今回の千趣会の通販カタログは、その一例だろう。
と同時に、広告に携わるクライアント側も、撮影時に立ち会う時には、もう少しリスクの少ない写真集等を使うという配慮が必要だったのかもしれない、という気がしている。
そのためには、「社会の変遷」ともいえる「歴史」の分野の知識も必要なのだ。
私のようにそれなりの年齢になり、自分がリアルタイムで経験した社会的問題等は知って当然であっても、それらの社会問題が「教科書の中にあった(=歴史の出来事)」という若い世代では、受け止め方も違うし、問題意識も当然違う。

今回の件は、「知らなかった」ということが。このような問題となったわけだが、広告に携わるということは社会的問題となったことの周辺的知識も過去のモノとしてとらえず、考える必要がある、ということを示しているような気がしている。






「国葬」のあるべき姿を感じさせていただいた、エリザベス2世の葬儀

2022-09-20 20:52:45 | 徒然

日本時間の昨日の19時から始まった、英国のエリザベス2世の国葬。
BBCの中継をネットで拝見させていただいていたのだが、「国葬とは、こうあるべき」という「荘厳で格調高い葬儀」だったような印象を受けた。
エリザベス2世の国葬なのだから、当然と言えば当然なのだが、国葬が始まる前エリザベス2世の棺が置かれていたウェストミンスターホールには、13時間余りかけて最後のお別れをしようと、一般国民が長蛇の列を作っていた。
そしてハイドパークを始めとする、様々な場所に設置された大型ビジョンで、ウェストミンスター寺院での様子を思い思いに見ている、市民の姿があった。
君主として70年余り英国連邦に君臨をした、という時間の長さはもちろんだが、多くの国民に愛されてきた国王であった、ということを印象付けた国葬でもあったように思えたのだ。

その一方で来週予定されている、「安倍元総理」の国葬で、国民に愛された首相という葬儀になるのだろうか?と、疑問に感じたのだ。
エリザベス2世の国葬のように、宗教的な荘厳さのある葬儀にはならないにせよ、問題なのは「国民から支持されてきたのか?」ということなのだ。
エリザベス2世の場合、確かに宗教的儀式に持っとった葬儀ではあった。
「宗教的儀式」があったから、荘厳だったのか?と言えば、決してそうではない。
会場や葬儀の雰囲気が、国葬として相応しいのか否か、ということではないのだ。

上述したように、エリザベス2世へ最後の別れを伝えたい、という人達が13時間近くの時間と労力をかけた、という事実が「国葬とは何か?」ということを示しているような気がしたのだ。
岸田首相は、「在位の長さ」により「国葬に値する」という趣旨のことを話しているようだが、「在位の長さ」という点では、エリザベス2世のほうが遥かに長い。
ただ長かったから、多くの国民があのようなお別れを告げに長蛇の列を作ったのか?と言えば、それは違うだろう。
いくつかのテレビ局が取材・インタビューを受けた英国民の多くは「愛している」という言葉を使い、エリザベス2世の死を悼んでいた。
この「愛している」という言葉が象徴するように、君主として多くの国民から愛されてきたからこそ、「国葬」に値するのではないだろうか?

エリザベス2世自身は、第二次世界大戦直後から現在に至るまで「国民に捧げる生き方」を実践されてきた(ように思う)。
だからこそ、国民が信頼し、エリザベス2世という国王を愛することができたのだ。
では安倍元総理は、同なのか?
16億円という費用をかける事にも、疑問を感じるところはあるが、安倍元総理は、エリザベス2世のように多くの国民から支持され、愛されるような政治家だったのか?
そこが問題なのだ。

自民党葬で行うのであれば、それは自民党の問題だ。
おそらく、安倍元総理の下でオイシイ思いをされた議員さんや行政にかかわる方々は、いたはずだ。
そのような方々が、自主的に「自分たちなり葬儀をし、安倍元総理を悼みたい」というのであれば、それはご自由に!ということになる。
それを「国葬で執り行う」と、閣議決定をしたことで、問題となっているように思うのだ。

岸田首相を始め「国葬」に賛同された方々は、エリザベス2世の国葬を見て、どう感じ・どう思ったのだろう?


安倍元総理の国葬に思う、岸田総理の焦り

2022-09-17 20:52:56 | 徒然

今日、天皇皇后両陛下が、エリザベス女王の国葬に参列するために英国へ向かわれた。
天皇皇后両陛下は、ご存じの通り英国とのご縁が深い。
Yahoo!のトピックス等でのコメントを読むと、「参列されることが決まってよかった」という内容が、多いような印象がある。

そして、エリザベス女王の国葬については、岸田総理も参列を検討していた。
「天皇皇后両陛下が行くのに、なぜ、岸田総理まで?」という、疑問を持たれた方も多かったようだ。
目的は「弔問外交」だったと、一部では報道されている。
確かに、エリザベス女王の国葬となれば、世界各国の首脳や元首となる方々が参列される、ということは想像するまでもない。
それほど世界に影響力のあった人物なのだから、当然だろう。
直接そのような人達と挨拶をする機会など、今後ないかもしれない(おそらくないだろう)。
だからこそ、この時をチャンスとしてとらえ、英国訪問を検討したのではないだろうか?というのが、大方の見方の様だ。

その理由の一つに、今月27日に予定されている「安倍元総理の国葬」が、思いの他評判が悪いということと関係しているのでは?という、気がしている。
「評判が悪い」という表現は、乱暴だとは思うのだが、国民の半数以上は「国葬は取りやめるべき」と新聞各社のアンケート結果で出ている。
それどころか、国連総会と日程が被っている、という痛恨のスケジュールミスをしているようだ。
Yahoo!(女性自身記事):国連総会と日程丸被りで海外要人から総スカン・・・岸田首相「国葬」の大誤算 

「安倍元総理の国葬」自体、唐突に決まった感があったのだが、国葬が決まる前に国連総会の日程は、既に決まっていたのではないだろうか?
少なくとも、年間スケジュールの中に組み込まれるような国連の会議なので、安倍元総理の国葬が決まるより前に日程が決まっていた、と素人考えをしてしまうのだ。
閣議決定で決まった、安倍元総理の国葬だが、閣議決定をする前にそれが分からなかった、ということも解せないのだ。

そして今日朝日新聞のWebサイトに、北朝鮮との対話に対する意気込みのような記事があった。
朝日新聞:岸田首相「条件をつけずに金正恩氏と直接向き合う」平壌宣言から20年 

北朝鮮による拉致問題は、20年前に帰国された方々から進展はしていない。
今朝、北朝鮮から拉致被害者の内2人を一時帰国させる、という話があったが、これで幕引きをさせるわけにはいかないと、安倍政権が断ったというニュースがあった。
KYODO:拉致被害者2人の一時帰国拒否 安倍政権時、幕引き警戒 

今朝このようなニュースを聞いてから、朝日新聞の記事を読むと、岸田さんの焦りのようなものを感じるのだ。
それは、「安倍元総理の国葬」に始まり、エリザベス女王国葬参列の検討等の一連の岸田さんの決定や希望等ことごとく失敗をし、「首相就任後目立った成果を出していない」ことに繋がっているのでは?という、気がするのだ。

首相就任当時、岸田さんのキャッチフレーズは「人の話を聞く」だった。
安倍さんや菅さんは、自分の意に反する人を受け入れない、という評判があった。
それはある意味「自分で判断する力がある」ともとらえられていた(とは個人的には思わないが、強権的な印象はあった)。

それに対して、岸田首相は「人の話は聞くが、決められない・判断できない」という印象が、徐々に強くなっていった感がある。
そこで起死回生として打ち出したのが、安倍元総理の国葬であったり、エリザベス女王の国葬への参列(=弔問外交)だったのでは?
確かに成果を出すことは重要だが、焦りのあまり行き当たりばったりのような印象を持たれるようなことは、単なる焦りのようにしか見えない。
それは「成果」とは言わず、単なる「空回り」のような気がするのだ。


「データ」を扱うことが苦手な日本?

2022-09-15 20:22:16 | アラカルト

毎日新聞のWebサイトに、新型コロナ対策についての記事があった。
毎日新聞:データを示してコロナ対策議論を「日常」を取り戻した米国からの提言 

有料会員記事の為、全文を読むこと自体はできないのだが、この見出しを見て「今更感」を持たれた方は、少なくないと思う。
拙ブログでも、繰り返し書いているのだが「陽性者(=感染者数)と死亡者数」だけで、対策を考えるということ自体が無理なのだ。
大切なことは、多角的データを集め・分析をし・実態を把握することで、対策の議論を始める、ということのはずなのだ。

「感染者数が急増している」ということばかりに焦点を当て、具体的な対策を示すことをせず、「個人の気合と根性で乗り切る」という姿勢は、決して建設的だとは言えないと思うのだ。
にもかかわらず、「感染者数が急増している」「〇〇でクラスタ―が発生した」という、報道ばかりで「クラスタ―が発生した問題点は何か?」ということに、焦点があてられることもなかったような気がしている。

このような「データ」の取り扱いをしながら、海外からの観光客の受け入れを増やす、という政策は「一体何を根拠に増やすのか?」という、問題指摘がされるようになる。
そのことに対して、返答をすることもなく「決まったことだから」的な、雰囲気で押し切ってきた、というのが現状なのではないだろうか?

しかし考えてみれば、日本は政府だけではなく企業も「データの取り扱い」が、苦手というか軽んじるような傾向があるのかもしれない。
というのも、忘れた頃に社会的問題となる「企業のデータ改ざん」事件。
しかも、同じ企業が繰り返し行っている、ということがある。
「データの重要性を知っているから、都合の悪いデータを改ざんしている」とも考えられるのだが、「都合の悪いデータを改ざん」するコトで、より「都合の悪い状況に追い込まれる」という、認識がないからこのようなことが、平然と名だたる企業で行われるのでは?という、気がしている。

もちろん、日本の社会風土の中にある「失敗」に対する恐怖感のようなものがあり、企業が大きくなればなるだけその「恐怖感」が強くなるのかもしれない。
何故なら、日本の企業は「失敗をする=信頼をなくす」ということに繋がり、出世はもちろん再チャレンジの機会さえ、与えられることなく閑職に追いやられてしまうからだ。

このような独特の社会風土が、今の日本の企業が抱えている様々な問題の一因となっているのでは?という、気がしている。
「データ」そのものは「数字の羅列」でしかない。
その「データ」から何を読み取り、どう考えるのか?ということが、重要なはずなのだ。
「データを改ざん」したところで、問題の解決にはならないし、日本企業の得意な「改善」にもつながらない。

「コロナ対策」に関しては、「怖い」ということばかりが先行し過ぎて、その対策を「個人の気合と根性」に任せたため、生活者が「疑心暗鬼な生活」を余儀なくされたのではないだろうか?
そのことで起きた経済の停滞や、社会の歪みという「負の出来事」も分析をし、社会全体をプラスにもっていくような政策をお願いしたい。


ホンダの電動バイク事業の上場検討

2022-09-14 11:11:40 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、ホンダが「電動バイク事業」の上場を検討している、という記事があった。
WallStreetJournalのスクープの様だ。
Yahoo!(WallStreetJournal):ホンダ電動バイク事業の上場検討 

実は、WallStreetJournalのサイトでは、登録会員向けの記事となっているため、全文を読むことができず、Yahoo!のトピックスで全文を読むことができるので、Yahoo!サイトを紹介させていただく(これって、どうなの?と、疑問に感じるのだが…)。

ご存じの通り、自動車に関して「電動自動車」へシフトし始めている。
例えば、日産のEV車「SAKURA」の登場は、日本国内でのEV車市場を加速させる可能性があるのでは?と、感じている。
バイクに関しては、まだまだという気がしているのだが、自動車のEV化が進めば、バイク等の電動化も進むのではと考えている。
EV車の普及のポイントとなるのは「充電ステーション」の充実であり、「充電ステーション」が進めば、電動バイクのにとっても利用しやすい環境になる、ということでもあるからだ。

もちろん、ホンダが上場を考えている「電動バイク」の主流となるのは、街中で走りやすい「スーパーカブ」のようなタイプなのでは?と、想像するのだが、この電動バイクの市場はこれまでと違う市場も含まれるのでは?という、気がしている。
それは「(高齢者向け)パーソナル・モビリティー」という、分野だ。
分かりやすく言うと「シニアカー」と呼ばれる、電動の四輪車のことだ。
ただし「シニアカー」と大きく違うとすれば、高齢者に限定せず、様々な理由で歩行が難しくなった人達にも使いやすい「電動移動車」という点だ。
歩行が困難になった人には、車いすがあるというご指摘はあると思う。
今までの「電動車いす」の多くは、「外を移動する・外出をする」という視点でつくられてきているのか?という疑問を感じていた。
というのは、20年以上前になるのだが、京都御所を見学に行ったとき私の目の前で電動車いすの方が、砂利で車輪がとられ転倒したからだ。
手動の車いすに比べると、電動車いすは重量があるため、転倒をすると一人で起き上がることができないのだ。
元々身体的ハンディがある、ということもあるのだが、付き添いの方だけではなく周囲にいた方々も手伝って、電動車いすを起こした、という場面を見たコトがあったからだ。

それに対して、いわゆるシニアカーと呼ば絵る移動四輪車は、外で使うことを前提としているため、砂利道のような悪路や多少の段差があっても乗り越えられるようになっている。
何より、この「シニアカー」市場へは、既に「セニアカー」という名前で市場の中心となっているスズキの他に、フランスベッドのような寝具メーカーで介護向け製品を作っている企業、電動製品をつくる小さな企業、市販はしていないがコンセプトモデルを発表しているヤマハ発動機等、企業規模の大小を問わずに参入をしている、という状況になっているようだ。
このような市場があるのは、高齢者社会となっている日本が中心であり、海外での市場はまだ無いようだ。
ただし、ヤマハ発動機のコンセプトモデル以外は「高齢者向け」を強く打ち出している。

今回の記事とは、直接的には関係は無いが「電動バイク事業」の上場検討により、ホンダが電動バイクの技術を使って、二輪と四輪の中間的な位置づけとなりそうな「パーソナルモビリティー」を出してくるのだろう?という期待をしている。






「倍速消費」・・・時間の使い方が変わったのか?

2022-09-13 19:30:15 | マーケティング

日経新聞のWebサイトに、「倍速消費」という話題の記事があった。
日経新聞:ヒット曲「サビまで待てない」倍速消費、企業も走る 
有料会員向けの記事なので、全文を読むことはできないのだが、「イントロがない楽曲が、ヒットする」という話は、数年前からあったような気がする。
理由として挙げられているのが、サブスクリプションを利用してストリーミング再生で音楽を聴くようになったから、という内容がほとんどだったように記憶している。
1ヵ月の定額で、より数多くの楽曲を聴き倒そうと思えば、サビと呼ばれる「楽曲の一番盛り上がるパート」だけ聞けば良い、ということになるのかもしれない。
逆に、自分の好きなミュージシャンの楽曲だけをフルで繰り返し聴き続けたい、というユーザーもいるはずだ。
そう考えると、「イントロ0秒」の楽曲だけがヒットしているのか?というと、決してそうではない、ということに気づくはずだ。
実際2021年のヒット曲を分析したデータがあるのだが、「イントロ0秒」という楽曲も多いが、10秒以上の楽曲もそれなりの数があり、ヒットをしている。
note 藤田太郎:『2021年ヒットソングTOP100』のイントロ秒数を調べてみました 

ではなぜ「イントロ0秒」という点に注目されるのか?というと、それが「倍速消費」の象徴のように扱われているからだろう。
あくまでも個人的な考えとして、「イントロ0秒」と「倍速消費」は、別だと考えている。
例えば、「登録後3か月間無料」というサブスクリプションサービスがあるとする。
この「無料期間」により数多くの利用を考えれば、「倍速消費」をする必要がある。
以前、FM番組のMCの方が「ネットの漫画サイトの登録をして、大ヒット漫画を読み始めたのですが、連載から時間が経っているので、無料サービスの間で読み切れそうもない」という趣旨の話をされていたことがあった。
「倍速で読む」理由が「無料期間中に読み切りたい」という、動機があるということなのだ。

そして記事中で指摘されている、「無駄な時間を過ごしたくない」ということにも、注目してみる必要があると考えている。
「無駄な時間」と考えて、倍速消費をしているとすれば、「無駄な時間」と感じているものは何だろう?ということなのだ。
何等かの目的があり、それらのサービスを受けているはずだ。
ニュースサイトをネットで見た時、「倍速消費」の中心となっているのは、中高校生~20代前半(=Z世代)が多く、彼らは「友達と話しを合わせるため」という理由で、倍速消費をしているというインタビュー内容だったと記憶している。
とすれば、ポイントとなるのは「Z世代」、ということだろう。

ご存じの方も多いと思うのだが、今の消費の中心として多くの企業が「Z世代」に注目をしている(らしい)。
「Z世代」に限らず、中高校生~20代前半という年代は、友人との関係性が生活の中心となる傾向がある。
それはいつの時代でも同じだろう。
ただ彼らがそれ以前の世代と大きく違うのは、「デジタル・ネイティブ」と呼ばれる、生まれた時からスマホやインターネットがあり、それらをコミュニケーションツールとして使ってきている、という点だ。

「デジタル」の世界は、情報等の伝播が秒速だ。
遠い海外の出来事であっても、数秒後には日本でその情報を知ることができる、そんな社会が当たり前となった時代に、生まれ・育ってきている世代、ということなのだ。
そのような社会背景があるからこそ、ことさら「倍速消費」ということに注目してしまうのではないだろうか?
むしろ、彼らが「倍速消費」をした結果、生み出された「余った時間を、何に使っているのか?」という点に、注目すべきなのでは?
彼らが「倍速消費」をする動機が、そこにあるからだ。


「エリザベス女王Ⅱ世」というロールモデル

2022-09-12 13:06:07 | アラカルト

英国のエリザベス女王が、崩御された。
在位70年という長き間、英国連邦の君主としての生涯だった。
そして、エリザベス女王Ⅱ世が生きられた時代は、政治的にも経済的にも社会的にも大きく変わる時代でもあった。

第二次世界大戦によって、英国をはじめ欧州各国は焼け野原のような状態になった。
それは国土だけではなく、経済や文化そのものも、大きなダメージを受けた。
その後、英国の植民地が次々と独立することで、世界的な英国の政治的力は徐々に小さくなっていく。
いくら王族として生まれ・育ち・教育を受けてきたとはいえ、25歳という若い女性が、激動する時代の中で、女王として国を担うことになったのだ。
NHK国際ニュース:イギリス エリザベス女王とは?その生涯と国民にとっての存在

そのような責任と立場である「女王」としての姿は、英国民だけではなく「英国連邦」という枠組みの国々の人たちはもちろん、世界中の人たちから尊敬と親しみを感じるものであった。
それは、どのような立場の人と会っても、常に威厳がありながらも、公平でチャーミングな笑顔とユーモアがあったからだろう。
と同時に、エリザベス女王という存在は、第二次世界大戦で疲弊した英国そのものの価値を高めることにもなったはずだ。
Reuters コラム:エリザベス女王、英国の脱工業化を支えた「ブランド力」

「価値」とか「ブランド力」という言葉を使うと、どこか金儲けの言葉のようで批判を受ける気がするのだが、違う言葉に置き換えるのであれば「英国という国の信頼の象徴」であった、ということになるのだと思う。
そして、今の欧州では「女王の時代が来る」ことになっている。
理由はご存じの通り、欧州王室では、直系長子が「国王」となることが決まっており、「次世代の国王」のほとんどが女性だからだ。
世代的に言えば、日本の天皇家・敬宮愛子内親王殿下と同じ世代の女性たちだ。
そんな彼女たちにとって、エリザベス女王の存在は「ロールモデル」になるのではないだろうか?

プライベートでは、結婚・出産を経験し「家族」を持つことの大変さ。
国王として一挙手一投足まで注目され続ける生活。
数々のスキャンダルやゴシップ・・・それこそ「誹謗中傷」を受ける事も度々あったはずだが、そのようなことに対しても適切に対応できる状況判断や行動力等、次世代の女王たちにとって学ぶべきことは多いのではないだろうか?

次世代の女王たちだけではなく、仕事と家事・育児に追われる今の女性たち全ての「ロールモデル」であったのかもしれない。


 


「自然」と「放置」

2022-09-09 22:47:48 | 徒然

今月末に予定している、父の眼の手術の術前検査の為に、帰省していた。
「眼の手術」と言っても、「下眼瞼内反症」という加齢に伴う逆まつげの手術で、決して大袈裟なものではないのだが90歳を超えるとなると、医師の説明等の理解が十分とは言えず、付き添うこととなった。
これが「老親介護」の一つなのだろう。

その実家から帰ってくる道すがら、高速バスの車窓から見える光景をボンヤリと眺め「自然と放置」の違い、というものを考えていた。
9月上旬に帰省する、ということが今までなかったので、気づかなかったのだが8月のお盆の頃とは違い、山々の風景もやや寂しいものへと変わっていた。
緑濃く生い茂る木々が、徐々に枯れ始めると見えてくるのは、朽ち果てた老木や勢いがなくなってきた竹林の姿だ。
特に竹林等は、山林の問題として言われている「竹害」と言われるように、今まで広葉樹等が生い茂っていた場所を侵食し、竹林になっている。
その竹の勢いがなくなったことで、より一層山々の木々が減っているということを目の当たりにすることとなったのだ。

「耕作放棄地」ならぬ「放置山林」という言葉をイメージさせるような山々の間をぬうようにして、自動車専用道路が整備されているのが、日本の一つの姿なのだ。
そのような光景を車窓から眺めていると「自然」というものは、「手入れを何もしない」のではなく、適切な人が手入れをすることで維持されるのでは?という気がしてきたのだ。
それは、林業における間伐であったりするのだが、これまで言われていたような「人が作った雑木林」とは違う、「山の手入れ」をしないことが「自然」にかえすことではなく、山々に生息する様々な生き物や植物がのびのびと育つように「手入れをする」ことが「自然」にかえすということなのでは?ということなのだ。

人の手が入らず「放置」されることで、「竹害」と言われていた竹林は、蔓系の植物に巻き付かれ、いつの間にか枯れ果てていた。
その後、再び広葉樹が広がる森となるのか?というと、蔓系の植物が秋から冬に向かうことで枯れは果て、森という姿にはならない。
もしかしたら、50年100年という時間を経る事で、広葉樹が広がる森となるのかもしれないのだが、今日見た風景からは「荒れ果てた山」というイメージしかない。

当然荒れ果てた山となれば、そこに住んでいるはずの猪や鹿等は、人の生活する場所へと餌を求めてやってくる。
人が栽培をしている野菜等の味を覚えた猪や鹿は、当たり前のように人の生活圏を脅かす「獣害」となる。
何となくだが、そんなサイクルが見えたような気がしたのだ。
確かに、人の手が入らずに自然のサイクルが生まれて、その中で人が生活をするようになった。
だが、いったん人の手が入った場所は、人が手を入れ続けなくてはその生態系のようなものが、守られていかないのでは?ということなのだ。
植物が自生しているのであれば、その自生地域に人は踏み込まないようにする。
ただただ、遠くから自生する植物やそれらの植物を目当てにやってくる生き物を見守る、ということが重要であり「見守る」という、手入れをするという感覚が重要なのだろう。

高速バスの車窓を眺め、「自然と放置」の違いについて考えさせられる光景を数多く見る事になった、帰省だった。