願いは叶う、というお話。
でも、願い方次第でラッキーにもアンラッキーにもなるというお話である。
娘が長期で外国へ行くことになった。
で、一番の問題は“ミドリフグ”である。
4年前の冬、酔った勢いで
ユーホーキャッチャーから救出してきた(娘はそういう表現をした)ミドリフグの“きなこ”
きなこ一人では可哀そうだということでペットショップで買ってきた“あんこ”
「寿命はだいたい三年」
という、どこで得たのかわからない彼女の情報を信じ
飼うことを許してしまった私。
ところが彼らはいまだ健在なのである。
しかも、結構、意思疎通ができたりして可愛い。
大きさも、我が家に来たときの5倍以上にはなっているだろう。
水は汽水。
専用の塩を使って作る。
冷暖房完備の機械が取り付けられている。
メダカでさえまともに飼育できなかった私とは違い、
娘は、とてもこまめに愛情を持って彼らの世話をしてきた。
その甲斐あっての今日の“健在”なのである。
私にはとてもそのまねはできないし、する気もない。
というわけで。ここ一か月ほど
私はことあるごとに
「はやく、フグの貰い手を見つけなさいよ。
何とかしなさいよ」
と言っていた。
すると彼女はいつも
「だいじょうぶだよ。
なんとかなるよ」
と答えていた。
そのくせ、真剣には引き取り手を探してはいない。
この「「なんとかしなさいよ」「なんとかなるよ」の繰り返し。
「なんとかなる」という曖昧な言葉。
これがどうも、宇宙のエネルギーに響いてしまった。
一昨日
新鮮な魚の並ぶ店頭で
塩もみ済みの生の蛸を見つけた私たち。
今夜のおかずにしようと即購入。
ゆで上げてアツアツを食べようとしたのだが、
そのまえに、フグたちの分だけ
ほんの少し取り分けた。
「ゆでたものより生の方が喜ぶわよね」
と、私から言い出して、わざわざ生のまま彼らに与えた。
フグたちは喜んで食べた。
細かくちぎった生の蛸を三切れ、四切れと食らいつく。
が、突然きなこの様子がおかしくなった。
まるで、餅がのどに詰まった様な状態になった。
しかし、相手はわずか5センチほどの小さな魚。
どうしようもない。
心配しながらも放っておいた。
それから2時間ほどが経過した。
「おかん!!きなこが死んでる。
あんこも変!!」
娘の悲痛な叫びが走った。
急いで駆け付けると
フグたちはすでに力なく水面に浮かびヒレさえ動かしていない。
きなこはもう死んだような状態だった。
あんこはまだ、かろうじて動いている。
水からあげてみると
きなこもまだ生きてはいた。
でも、だからといって手の施しようもない。
やはり、そのままにしておくしかないのだ。
私たちは後悔した。
蛸を生でやるんじゃなかった。
せめて茹でていたら・・・
蛸なんか買ってくるんじゃなかった。
娘を一緒に買い物に連れて行くんじゃなかった。
・・・後悔しても始まらないことを悔やみさえした。
その時、思ったのだ。
これって
もしかして
「何とかなる」
ということ?!
娘が外国に行く前にフグたちがいなくなって
「なんとかなった」
ということ?!
えっ~~~~~?!
それはないでしょう?!
だれも、死んでくれ、殺してくれなどと願った覚えはないよ~~~~
と、言い訳してももう遅かった。
「なんとかなる」という
曖昧なことばを私たちは何度も繰り返した。
その結果、宇宙のエネルギーは
こういうかたちで「「何とか」してくれたに過ぎないのだ。
ああ、なぜ、もっと、きちんと願わなかったのだろう。
「娘が外国に行く前に
とてもいいフグの引き取り手が見つかりました。
おかげさまです、ありがとうございました。
フグたちは大切にされ、寿命を全うすることができました」
と、なぜ、祈らなかったのだろう。
ああ、そういえば、
宇宙ののエネルギーは善悪の判断はできない
んだった。
良いも悪いも願われたことを実現してくれるのだった。
だから、願うときには具体的に誤解のないように願いなさい
と、何かの本に書いてあったではないか。
それは、こういう事だったのだ。
思いもよらぬ悲惨な方法で
宇宙は願いをかなえてくれたことになるのだ。
自分たちの浅はかさが招いた家族(?)の“死”に面し
後悔と懺悔の念で気持ちは重くなる一方だった。
「ああ、神様ごめんなさい。
あやふやな願いを送ってしまってごめんなさい。
彼らに罪はありません。
どうか、蛸を吐き出させて下さい。
彼らを助けてください」
翌日、6時。
気になってすぐに見に行った。
二匹は水槽の隅にかたまって浮いていた。
すでにヒレは動いていない。
体色もまるで腐ったようにきたないし
目の玉もどんよりしていた。
昨日替えたばかりの水もなんだか白濁して気持ち悪く見える。
「ねえ、あの子たち死んでるよ。
おまけに、腐りかけてるみたいだよ。
気が悪くなるから
早く起きて、始末しなさいな。
放っておいたら可哀そうだよ」
そんな私の言葉を受けて
娘はきなこを埋めてやろうと
網ですくった。
と!!
きなこが動いた!!
娘曰く
「わしゃぁ、まだ死んではおらんぞ・・・
埋めてくれるな」
そう
必死で叫んでいた、・・・らしい。
よくよく見ると
蛸の小さなかけらが
水底にいくつも沈んでいる。
「蛸、自力で吐いたんだ!!
ということは、もしかしたら
水を変えれば助かるかもしれないよ。
だってこの水、すごく気持ち悪いもの。
とにかく早く新しい汽水を作って
そこへ移したあげたら?!」
「ここまで、憔悴してるんだもの。
もう駄目だよ」
そう言いながらも、娘はバケツに汽水を作り
彼らを移した。
30分後
ふぐたちは見事に蘇った。
半日後。
体色も、元のきれいな黄緑色に戻り
まるで何もなかったかのように泳いでいた。
さすが
ユーホーキャッチャーから救い出されただけのことはある。
素晴らしい生命力だ。
神様、願いを聞き届けてくださってありがとうございます。
今度はちゃんと
「出発までに良い貰い手が見つかりました。
ありがとうございました」
と祈ることにしよう。
でも、願い方次第でラッキーにもアンラッキーにもなるというお話である。
娘が長期で外国へ行くことになった。
で、一番の問題は“ミドリフグ”である。
4年前の冬、酔った勢いで
ユーホーキャッチャーから救出してきた(娘はそういう表現をした)ミドリフグの“きなこ”
きなこ一人では可哀そうだということでペットショップで買ってきた“あんこ”
「寿命はだいたい三年」
という、どこで得たのかわからない彼女の情報を信じ
飼うことを許してしまった私。
ところが彼らはいまだ健在なのである。
しかも、結構、意思疎通ができたりして可愛い。
大きさも、我が家に来たときの5倍以上にはなっているだろう。
水は汽水。
専用の塩を使って作る。
冷暖房完備の機械が取り付けられている。
メダカでさえまともに飼育できなかった私とは違い、
娘は、とてもこまめに愛情を持って彼らの世話をしてきた。
その甲斐あっての今日の“健在”なのである。
私にはとてもそのまねはできないし、する気もない。
というわけで。ここ一か月ほど
私はことあるごとに
「はやく、フグの貰い手を見つけなさいよ。
何とかしなさいよ」
と言っていた。
すると彼女はいつも
「だいじょうぶだよ。
なんとかなるよ」
と答えていた。
そのくせ、真剣には引き取り手を探してはいない。
この「「なんとかしなさいよ」「なんとかなるよ」の繰り返し。
「なんとかなる」という曖昧な言葉。
これがどうも、宇宙のエネルギーに響いてしまった。
一昨日
新鮮な魚の並ぶ店頭で
塩もみ済みの生の蛸を見つけた私たち。
今夜のおかずにしようと即購入。
ゆで上げてアツアツを食べようとしたのだが、
そのまえに、フグたちの分だけ
ほんの少し取り分けた。
「ゆでたものより生の方が喜ぶわよね」
と、私から言い出して、わざわざ生のまま彼らに与えた。
フグたちは喜んで食べた。
細かくちぎった生の蛸を三切れ、四切れと食らいつく。
が、突然きなこの様子がおかしくなった。
まるで、餅がのどに詰まった様な状態になった。
しかし、相手はわずか5センチほどの小さな魚。
どうしようもない。
心配しながらも放っておいた。
それから2時間ほどが経過した。
「おかん!!きなこが死んでる。
あんこも変!!」
娘の悲痛な叫びが走った。
急いで駆け付けると
フグたちはすでに力なく水面に浮かびヒレさえ動かしていない。
きなこはもう死んだような状態だった。
あんこはまだ、かろうじて動いている。
水からあげてみると
きなこもまだ生きてはいた。
でも、だからといって手の施しようもない。
やはり、そのままにしておくしかないのだ。
私たちは後悔した。
蛸を生でやるんじゃなかった。
せめて茹でていたら・・・
蛸なんか買ってくるんじゃなかった。
娘を一緒に買い物に連れて行くんじゃなかった。
・・・後悔しても始まらないことを悔やみさえした。
その時、思ったのだ。
これって
もしかして
「何とかなる」
ということ?!
娘が外国に行く前にフグたちがいなくなって
「なんとかなった」
ということ?!
えっ~~~~~?!
それはないでしょう?!
だれも、死んでくれ、殺してくれなどと願った覚えはないよ~~~~
と、言い訳してももう遅かった。
「なんとかなる」という
曖昧なことばを私たちは何度も繰り返した。
その結果、宇宙のエネルギーは
こういうかたちで「「何とか」してくれたに過ぎないのだ。
ああ、なぜ、もっと、きちんと願わなかったのだろう。
「娘が外国に行く前に
とてもいいフグの引き取り手が見つかりました。
おかげさまです、ありがとうございました。
フグたちは大切にされ、寿命を全うすることができました」
と、なぜ、祈らなかったのだろう。
ああ、そういえば、
宇宙ののエネルギーは善悪の判断はできない
んだった。
良いも悪いも願われたことを実現してくれるのだった。
だから、願うときには具体的に誤解のないように願いなさい
と、何かの本に書いてあったではないか。
それは、こういう事だったのだ。
思いもよらぬ悲惨な方法で
宇宙は願いをかなえてくれたことになるのだ。
自分たちの浅はかさが招いた家族(?)の“死”に面し
後悔と懺悔の念で気持ちは重くなる一方だった。
「ああ、神様ごめんなさい。
あやふやな願いを送ってしまってごめんなさい。
彼らに罪はありません。
どうか、蛸を吐き出させて下さい。
彼らを助けてください」
翌日、6時。
気になってすぐに見に行った。
二匹は水槽の隅にかたまって浮いていた。
すでにヒレは動いていない。
体色もまるで腐ったようにきたないし
目の玉もどんよりしていた。
昨日替えたばかりの水もなんだか白濁して気持ち悪く見える。
「ねえ、あの子たち死んでるよ。
おまけに、腐りかけてるみたいだよ。
気が悪くなるから
早く起きて、始末しなさいな。
放っておいたら可哀そうだよ」
そんな私の言葉を受けて
娘はきなこを埋めてやろうと
網ですくった。
と!!
きなこが動いた!!
娘曰く
「わしゃぁ、まだ死んではおらんぞ・・・
埋めてくれるな」
そう
必死で叫んでいた、・・・らしい。
よくよく見ると
蛸の小さなかけらが
水底にいくつも沈んでいる。
「蛸、自力で吐いたんだ!!
ということは、もしかしたら
水を変えれば助かるかもしれないよ。
だってこの水、すごく気持ち悪いもの。
とにかく早く新しい汽水を作って
そこへ移したあげたら?!」
「ここまで、憔悴してるんだもの。
もう駄目だよ」
そう言いながらも、娘はバケツに汽水を作り
彼らを移した。
30分後
ふぐたちは見事に蘇った。
半日後。
体色も、元のきれいな黄緑色に戻り
まるで何もなかったかのように泳いでいた。
さすが
ユーホーキャッチャーから救い出されただけのことはある。
素晴らしい生命力だ。
神様、願いを聞き届けてくださってありがとうございます。
今度はちゃんと
「出発までに良い貰い手が見つかりました。
ありがとうございました」
と祈ることにしよう。