写真は“折符”の“厄除符”です。
折上がりがなかなか綺麗な“折符”です。書籍によると『平穏無事だと安心していると、突然、様々な災難、不幸などが降りかかってくることがある。そのような時にこの符を肌身離さず所持することによって、災厄を回避することが出来る』と書かれてあります。
“折符”については、これから詳しく書いていきたいと思います。
ねずみさん、コメントありがとうございました。まったく、ねずみさんのコメントに賛成でして・・・。僕は、現在の日本が“日本総不平不満社会”もしくは“日本総不幸社会”になっていると思っております。
これはマスコミが、「格差、格差」と騒ぎ、なんでもかんでも“不平不満”を煽るのも大きな要因だと思います。
さて今回の本題ですが・・・
日本の或る新興宗教が、政治団体を立ち上げたと報じられました。新興宗教が政治団体や政党を作るのは、よくありがちなことですが、僕はそれを、『新興宗教の宗教的挫折』だと考えています。
宗教団体は、宗教で人類を救済するのが本来の姿ではないですか!(本当に救済できるかどうかは別にして)
それなのに、そんな宗教団体が、現世的な政治団体や政党を作ってしまうというのは、『我々は、我々の宗教だけでは人類の救済が出来ない』と宣言したも同じだと思うのです。
自ら宗教の限界を感じるからこそ、現世的な方法に訴えようとするのではないでしょうか?
“幸福”の定義は何でしょう? “幸福”の感じ方は、本能欲求が満たされていることが最低条件でしょうが、それ以上のことについては“人それぞれ”ですよね。
“愛”の定義は何でしょう? “愛”の感じ方も、本能欲求を満たすものが最低条件かもしれません・・・。でも“愛”って“心地良いだけ”で良いのでしょうか?“耳障りの良い言葉”だけで良いのでしょうか?
僕は“愛”というのは『愛し難い人を愛せること』ではないかと思っています。
僕らのまわり、僕らの日常には、“愛し難い人”が必ずいますよね。“愛”ってそんな“愛し難い人”を愛することが出来て初めて判るものなのだと思います。
僕はまだ『愛し難い人を愛すること』が出来ません。だから僕は“愛”を語れません。語る資格が無いと思うからです。
僕は、キリストやマザーテレサが、“愛し難い人達”に施した“愛”を実践することが出来ません。
Sさんは、自分の体を痛めながら、相談者の“霊の浄化”を行なっています。場合によっては相当なダメージを受けることもあります。
そのダメージは、面談の相談でも、電話相談でも同じです。Sさんの自宅には時間にお構いなく、ドンドン電話が掛かってきます。
その一件一件にSさんはキチンと対応するのです。(一件一件の相談でダメージを受けながらです)Sさんの家に一日居れば、電話を受ける方の大変さが判ります。
好き好んで、そのようなことを引き受ける人がいまでしょうか? 現世的な見返りはほとんどありません。
僕はSさんがしていることを“無償の愛”だと思っています。僕にはそれが出来ないから、せめてSさんに協力することで“無償の愛”の一端をお手伝い出来ればいいな・・・と思っています。
折上がりがなかなか綺麗な“折符”です。書籍によると『平穏無事だと安心していると、突然、様々な災難、不幸などが降りかかってくることがある。そのような時にこの符を肌身離さず所持することによって、災厄を回避することが出来る』と書かれてあります。
“折符”については、これから詳しく書いていきたいと思います。
ねずみさん、コメントありがとうございました。まったく、ねずみさんのコメントに賛成でして・・・。僕は、現在の日本が“日本総不平不満社会”もしくは“日本総不幸社会”になっていると思っております。
これはマスコミが、「格差、格差」と騒ぎ、なんでもかんでも“不平不満”を煽るのも大きな要因だと思います。
さて今回の本題ですが・・・
日本の或る新興宗教が、政治団体を立ち上げたと報じられました。新興宗教が政治団体や政党を作るのは、よくありがちなことですが、僕はそれを、『新興宗教の宗教的挫折』だと考えています。
宗教団体は、宗教で人類を救済するのが本来の姿ではないですか!(本当に救済できるかどうかは別にして)
それなのに、そんな宗教団体が、現世的な政治団体や政党を作ってしまうというのは、『我々は、我々の宗教だけでは人類の救済が出来ない』と宣言したも同じだと思うのです。
自ら宗教の限界を感じるからこそ、現世的な方法に訴えようとするのではないでしょうか?
“幸福”の定義は何でしょう? “幸福”の感じ方は、本能欲求が満たされていることが最低条件でしょうが、それ以上のことについては“人それぞれ”ですよね。
“愛”の定義は何でしょう? “愛”の感じ方も、本能欲求を満たすものが最低条件かもしれません・・・。でも“愛”って“心地良いだけ”で良いのでしょうか?“耳障りの良い言葉”だけで良いのでしょうか?
僕は“愛”というのは『愛し難い人を愛せること』ではないかと思っています。
僕らのまわり、僕らの日常には、“愛し難い人”が必ずいますよね。“愛”ってそんな“愛し難い人”を愛することが出来て初めて判るものなのだと思います。
僕はまだ『愛し難い人を愛すること』が出来ません。だから僕は“愛”を語れません。語る資格が無いと思うからです。
僕は、キリストやマザーテレサが、“愛し難い人達”に施した“愛”を実践することが出来ません。
Sさんは、自分の体を痛めながら、相談者の“霊の浄化”を行なっています。場合によっては相当なダメージを受けることもあります。
そのダメージは、面談の相談でも、電話相談でも同じです。Sさんの自宅には時間にお構いなく、ドンドン電話が掛かってきます。
その一件一件にSさんはキチンと対応するのです。(一件一件の相談でダメージを受けながらです)Sさんの家に一日居れば、電話を受ける方の大変さが判ります。
好き好んで、そのようなことを引き受ける人がいまでしょうか? 現世的な見返りはほとんどありません。
僕はSさんがしていることを“無償の愛”だと思っています。僕にはそれが出来ないから、せめてSさんに協力することで“無償の愛”の一端をお手伝い出来ればいいな・・・と思っています。
折符を紹介していただきありがとうございます。
反響の大きさに、百聞は一見に如かずを地で行って下さったのでしょうか?
稲ラーな私には、これが狐眷属さんに見えてしまいマスター(爆)
『愛し難い人を愛すること』
それはキリスト教の精神そのものですね。
汝の敵を愛せよとありますから。
私も愛し難い方は愛せませんが(笑)、視点を相手に持って行って色々と考えてみるだけはします。
私がSさんが凄いと思うのは、行いなんですよね。
自分の人生を他人の為に使っていらっしゃる。
だから本当に困っている人の為にも、下らない事(自分探しとか)でSさんを煩わしてはいけないなぁ…と、思うのですよ。
こういった世界は大半が不平不満や愚痴の相談で、緊急を要する霊的問題はごく僅かなのでは、と思います。それでも親身になって親切に対応して下さる優しさ。お客さんによっては理不尽な人もいらっしゃるでしょうし、本当に、大変な仕事だなぁと思います。
口先だけは優しいが何もしない人と、口では少々厳しいことを言うが(笑)私の霊障を解決するために激痛を感じるにも関わらず自らの身体で霊的浄化をしてくれて私に未来の希望をくれたS先生のどちらが本当の愛を持っている人かは言うまでもなく明らかだと思っています。
私は私と両親を助けてくれたS先生への恩義は生涯忘れないでしょうね。