龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

目についたこと気になることをブツブツと語っていきます。たまぁ~に神霊的情報も有り。更新はかなり気ままですので悪しからず。

修理固成(つくりかため)

2011-02-27 23:05:16 | 神々さまと神界・幽界の基礎知識
キジさん、Rさん、YMさん、コメントありがとうございます。

ブログを始めて2年以上になり、記事も相曾氏からは遠く離れたものが多くなった今でも、YMさんのように、相曾氏を検索しながら、このブログを訪問してくださる方がいらっしゃるのことのお導きには驚くばかりです。

これは一重に生前の相曾氏の高潔さと徳の高さが、神道への志を持った方々の心を打つからなのでしょう。

TT氏などは、相曾氏を暗示して、『周囲や本人の意に反して、死後は高い世界には行かなかった』と書いています。
相曾氏の講演録を読むと、確かに記憶違いのことを話したり、質疑応答では、少し強引に思えるような返答をしています。
しかし、だからと言って、そのことが、相曾氏が神道に捧げた人生と、志のある人間に与えた感動を、いささかも傷つけるものではありません。

聖書を読めばよくわかりますが、生前のキリストの言動は凡人から見れば矛盾だらけに見えます。
しかし、神の子としてのキリストの言動は首尾一貫しています。

神は一重に修理固成に専心されています。
神の修理固成の前には、人間の現世的な感情や願いごとなどは一顧だにされないでしょう。
神に手を合わせる者は、それを承知で手を合わせるべきです。

また、神の修理固成の御業の真理を人間が理解出来る訳がありません。
人がそれを理解出来るレベルにないからです。

人間が神に近づこうと、技を修得しようとしたり知識を得ようとすることも、神から見れば小賢しいことのように見えるのではないでしょうか?

人間がすべきこととして神から命じられていることは、現世において人間としてより良く生きることであって、それが神に仕えることであり、ひいては人として修理固成に仕えることになるのだと思います。

人は現世で何をすればいいのか?
それは、『身をつつしみ、業(わざ)にはげみ』だと思います。
身をつつしんで、与えられた仕事を通して人々に奉仕することが、人間の神への仕え方なのだと思います。

2011年2月3日から2012年2月2日の一年間は、judgmentの期間だそうです。
私見ですが、judgmentの基準は『身をつつしみ、業(わざ)にはげみ』だと思っています。

これも私見ですが、今年がjudgmentの年なら、来年は…?(ちなみに来年は相曾氏の十三回忌です)
それを経て、再来年のお伊勢様の式年遷宮をお迎えし、新しい正歴を迎えることとなるのではないでしょうか?

かなり重要なお知らせ

2011-02-26 19:41:33 | 神々さまと神界・幽界の基礎知識

 みなさん、ごぶさたしています。 現在、趣味の創作活動に没頭していましてブログの方がおろそかになっておりましたが、昨日、僕が聞いたことについて、核心部分は無理としても、その一端でも、みなさんにお知らせしないといけないのではないかと思い、今回投稿することにしました。

 昨日、Rさんと電話でお話させていただく機会を得ました。Rさんは、かなりの霊能を持った方です。

 以前、『2月3日を境に流れが変わる』ということをブログに書きました。その時点では、僕個人のことなのか、社会全般のことなのか、毎年旧暦の正月を過ぎれば流れが変わるのか、その点がいまひとつわかりませんでした。

 今回、Rさんと話させていただいてその疑問点が理解できました。Rさんによれば、2011年2月3日から2012年2月2日の、まさにこの一年間が、社会にとっても個人にとっても極めて重要な一年なのだそうで、それも例年のことではなくて、この一年限りのことなのだそうです。

 2011年2月3日以降の一年間が極めて重要な年であることは、その前日の2月2日に「しるし」が現れていたそうです。僕はそれを知りませんでしたが、それについて記事が出ていました。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110202/trd11020219340015-n1.htm

 2011年2月3日以前に、自身の身の周りに「禊」のような出来事のあった方、そのような出来事に心当たりのあった方は、その出来事に感謝した方が良いようです。それは、「禊」によって、2011年2月3日から始まる重要な一年を0からスタート出来るからとのことです。

 ちなみに僕の「禊」は、10月・11月・12月・1月と4ヵ月もかかりました。それだけ、これまでの業が深かったということなのでしょうが、僕の場合、2月1日から、流れがガラッと変わったことを実感しています。僕自身の気持ちも変わりましたし、お客さんにしても、長らく音信のなかった方が来店されたり、新患の方では霊縁によって来店される方が多いような感じになりました。 

 昨年後半からは膿の出る時期とのことで、そう考えれば、宗教法人のKKの内紛、民主党の内紛、小沢問題などはそのような流れから表面化したものだと思われます。それらの団体ですが、自身のそうした問題を2011年2月3日以降も引きずっている点が、もうアウトらしいです。

 個人についても、昨年後半からは「禊」や「試され」が発生しており、それに対して「恨み・つらみ・ねたみ」を持ったり、それを2011年2月3日以降まで引きずっているのはいけませんよ・・・、ということのようなのです。 

 2012年2月2日までは、まだ時間がありますので、僕も、さらに心を静めて心安らかにこの重要な一年を暮らして生きたいと思います。


お返事(2/15)

2011-02-15 21:17:33 | お返事や連絡版
ねずみさん、コメントありがとうございました。

ねずみさんのお話、かなり興味深いです。
ドイツの民話で、笛を吹いて子供たちを連れ去ってしまう乙子の話がありますが、その笛の音は子供の心だけに響く音なのかもしれません。

お母さんが治療している間に待っているお子さんには、『トムとジェリー』が、かなり効果的です。
ほとんどの子供が一心不乱に食い入るように画面をみつめています。
愚考するに、『トムとジェリー』のテンポが、子供の心拍数(大人より早目)とシンクロしているからではないかと思われます。

しかし、子供には理解できない方言や古い言い回しに反応するのは、やはり言霊の力だと思います。

ちなみに、今回書いた童話の題名は、『きせつのかみさまと、じゅうににんのようせい』です。

お返事(2/14-2)

2011-02-14 17:12:58 | お返事や連絡版
micaさん、コメントありがとうございました。

「執着が強くて道に乗れなかった」と、反省点を自覚されているのですから、三度目は、必ず来ると思います!

苦しいときやピンチのときに、「まっ、いいや。なんとかなるさ」と思えるようになるのが、人生の達人だそうです。
しかし、なかなかそうは思えません。

僕は、苦しいときやピンチのとき、「神様の思し召し」と唱えるようにしています。
そうすると、不思議と気が楽になってきます。

童話は、物語だけで絵はありません。
童話も書いてみると、韻を踏む言葉を選びながら、子供にわかるような表現を探すことや、音読して面白いように工夫するのが、なかなか難しかったです。

お返事(2/14)

2011-02-14 08:43:35 | お返事や連絡版
ねずみさん、キジさん、はるちんさん、コメントありがとうございました。

サインは、あらゆる形で示されているのですが、人はたいていその多くを見逃しているのでしょう。

また、他人を見ていると、「ああ、サインを示されているのに、わからないんだな」と思うことがありますが、自分に示されているサインには、ほとんど気づかないことが多いものです。

また、思い込みが強かったり、教養や知識が豊富すぎることによって、霊的サインを見逃してしまうことも多々あるようです。

本来の霊的サインは微弱ですし、普通の形で示されます。
人はそれを見逃しておきながら、「しるしが欲しい。確証が欲しい。知りたい。知りたい」と思いがちですが、知るより感じることの方が重要です。

『ハンドルから手を離して流れに身を任せる』
頭ではわかっていても、なかなか実行には移せませんが、その感覚がようやく感じられてきた今日この頃です。

一週間のご無沙汰でした

2011-02-13 09:04:18 | 雑感
今週は、童話を書きました。
師匠に見てもらって、明日までに出したいと思っています。

最近、トルストイの評伝と短篇を読んでいます。
トルストイに導かれたのも、シンクロニシニシティでした。
トルストイに気づいたことで、僕の疑問が解け、すべての事柄がつながりました。
僕にとって、トルストイが、ミッシングリングだったのです。

『如月忌』を再構成するべく、昨日からとりかかりました。

『願えば叶う』とは言い切れませんが、『願えば導かれる』のは確実だなと思っている今日この頃です。

まんどろだお月様

2011-02-07 08:45:34 | 雑感
煌々と輝く満月のことを、津軽弁で『まんどろだお月様』といいます。
この『まんどろ』は、萬灯籠が語源だとされています。
荒くきたないと評されがちな津軽弁としては、雅な方言といえます。

なぜ、この言葉を思い出したかというと、おととい、春日大社様の萬灯籠の話題をラジオで聞いたからです。

津軽には、鎌倉時代の武家言葉が語源ではないかと思われる言葉が、たくさん残っています。
津軽では、飢饉のことをケガヂといいますが、これは飢渇(キカツ)が語源で、方丈記にも、記載されている言葉です。

津軽弁も、現在使われている言葉と、古語になっている言葉があります。
冒頭の『まんどろ』もそうですか、その他、『おにゃ』、『ちゅはめ』、『やめと』などは、若い人は知らない津軽弁古語です。

『ちゅはめ』と『おにゃ』を使ってを作ると、例えば…『わ、ちゅはめまんで、おにゃであそぶ』となります。

読者のみなさんには、全くなんのことか判らないと思いますが、漢字表記すれば一目瞭然となるのです。

『我、中飯前まで御庭で遊ぶ』
直訳すれば、『僕は午前中まで庭で遊ぶ』ということです。
『ちゅはめ』は、中飯前・昼飯前、つまり、午前中のことです。
『おにゃ』は御庭で、庭の丁寧語です。

庭を御庭というところが、武家言葉のなんとも格調高いところです。
しかし、鎌倉時代の人間が昼食をとっていたかどうかは不明なところです。
江戸時代までは、一日二色だったと云われていますから。
ただ、朝食と夕食の間に、軽食をとっていた可能性は十分にあります。

ちなみに『やめと』は病人のことですが、漢字で書くと『病め人』です。
おそらく、中世以前は、『病人』と書いて、『びょうにん』とは読まず、『やめと』と読んでいたのではないでしょうか?

方言というのは、『古語の真空パック』のようなものですね。

お返事(2/6)

2011-02-06 09:49:09 | お返事や連絡版
キジさん、示唆に富んだコメントありがとうございました。

いろいろと伝えられている呼吸法やブレスワークも、清浄な空気を体内に取り入れ、循環させた後、体内の邪気を吐き出すものですよね。

日拝も同様に、太陽の正気&精気を身体に取り込み、身体の邪気を清めて吐き出すものなのでしょう。

僕は、朝の散歩の際に、『正気を吸って』と念じて鼻から息を深く吸い、『邪気を吐く』と念じて口から息を吐いています。
眼を患っていたとき、息を深く吸い身体に巡らせると、眼が楽になりました。
腸を丈夫にするためにも、背筋を伸ばして、その呼吸をするようにしています。

人間が誕生する際、オギャアと泣いて、初めて空気を吸った場所の神様が産土神様ですし、四柱推命の年月日時も、産まれおちた、その年、その月、その日、その時間の空気を吸うことで、その人間の運命が決まるという考え方ですから、呼吸という行為は、人間にとって生命維持活動以上の意味があるのだと思われます。

お返事(2/4)

2011-02-04 08:19:59 | お返事や連絡版
ねずみさん、コメントありがとうございました。

インフルエンザの罹患は、大変でしたねぇ。
新年早々に、一年の厄落としをされたのではないでしょうか?

邪気は、やはり形があるのではないかと思われます。
おそらく、流行り病(はやりやまい)というものは、国民全体の邪気が凝縮され、ある形となり、それが放散されるものではないかと思われます。

昨日は、工藤の氏神である蕪島神社に、旧正月の初詣をしてまいりました。

360度眺望出来る境内に立って、太平洋を眺めていると、「ご先祖様も、800年前に同じ景色を見ていたんだろうなぁ~」などと感慨されます。

三碧木星は、今年あまり運勢がよろしくないのですが、境内に設置されていた運勢表を見たら、『案外、芸術は良し』と書いてありました(笑)

おめでとうございます

2011-02-03 07:16:31 | 神々さまと神界・幽界の基礎知識

旧暦にて、新年明けましておめでとうございます。

新しい『神の正歴』の胎動は、既に始まっているようです。
それは相撲界最大の問題に対する禊が始まったことにも現れていると思います。
私の禊は、10月~12月は身体の禊、1月は精神の禊をさせていただけたように感じています。

本日、旧暦元旦は、まことに清々しくありがたいご来光です。