ブログを始めて2年以上になり、記事も相曾氏からは遠く離れたものが多くなった今でも、YMさんのように、相曾氏を検索しながら、このブログを訪問してくださる方がいらっしゃるのことのお導きには驚くばかりです。
これは一重に生前の相曾氏の高潔さと徳の高さが、神道への志を持った方々の心を打つからなのでしょう。
TT氏などは、相曾氏を暗示して、『周囲や本人の意に反して、死後は高い世界には行かなかった』と書いています。
相曾氏の講演録を読むと、確かに記憶違いのことを話したり、質疑応答では、少し強引に思えるような返答をしています。
しかし、だからと言って、そのことが、相曾氏が神道に捧げた人生と、志のある人間に与えた感動を、いささかも傷つけるものではありません。
聖書を読めばよくわかりますが、生前のキリストの言動は凡人から見れば矛盾だらけに見えます。
しかし、神の子としてのキリストの言動は首尾一貫しています。
神は一重に修理固成に専心されています。
神の修理固成の前には、人間の現世的な感情や願いごとなどは一顧だにされないでしょう。
神に手を合わせる者は、それを承知で手を合わせるべきです。
また、神の修理固成の御業の真理を人間が理解出来る訳がありません。
人がそれを理解出来るレベルにないからです。
人間が神に近づこうと、技を修得しようとしたり知識を得ようとすることも、神から見れば小賢しいことのように見えるのではないでしょうか?
人間がすべきこととして神から命じられていることは、現世において人間としてより良く生きることであって、それが神に仕えることであり、ひいては人として修理固成に仕えることになるのだと思います。
人は現世で何をすればいいのか?
それは、『身をつつしみ、業(わざ)にはげみ』だと思います。
身をつつしんで、与えられた仕事を通して人々に奉仕することが、人間の神への仕え方なのだと思います。
2011年2月3日から2012年2月2日の一年間は、judgmentの期間だそうです。
私見ですが、judgmentの基準は『身をつつしみ、業(わざ)にはげみ』だと思っています。
これも私見ですが、今年がjudgmentの年なら、来年は…?(ちなみに来年は相曾氏の十三回忌です)
それを経て、再来年のお伊勢様の式年遷宮をお迎えし、新しい正歴を迎えることとなるのではないでしょうか?