龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

目についたこと気になることをブツブツと語っていきます。たまぁ~に神霊的情報も有り。更新はかなり気ままですので悪しからず。

sign(その1)

2009-06-30 13:58:48 | “スピ”コラム
【夢で見た神社を実際に発見してしまった】

 久々のスピコラムです。
 
 先週、22日(月)の早朝に見た夢の内容を、23日のブログにアップしていました。(再度ご確認下さい)
 その日は父の施療のため実家に行く日で、その日、実家の町で夢で見た場所を実際に見てきたことはブログに書きました。(見てきましたが別に取り立ててどうってことなかったんですよ)

 実家に向かう途中にA市のA温泉というところを通るのですが、そのA温泉を通る国道脇の山の斜面の入り口に鳥居があることは以前から知っていて気になっていました。
 その日はたまたま信号待ちでその鳥居の前に車が止まったので、社名を確認しようと右手に見えるその鳥居の上の額に目を凝らしてみると・・・額には『八大龍王神宮』という文字が・・・。僕は思わず「おおっ!」と声を上げてしまいました。
 と言うのも、Sさんから“八大龍王”のことを聞いてから、県内で“八大龍王”を祀る神社を探していたのですが、まったく見つけられずにいたからです。

 その日は出発の時間が遅れて、実家に着く時間も遅くなりそうだったので、「ここの参拝は、次の機会にしよう」と思い通り過ぎて、その日は真っ直ぐ実家に向かい、実家の町では産土社二社をお参りし、更に夢で見た“小川の小径”を見に行き、帰りは夕方遅くなったので、家まで直行したのです。

 翌週の28日(日)は、協会の講習会がA市で開催され、それに参加するため早朝A市に向かいました。朝早くバタバタと出発したため、先週A温泉で見た“鳥居”のことはすっかり忘れていました。
 途中A温泉に入り、右手の赤い鳥居が目に入って初めて「あっ!そうだ!」と思い出したのです。そして「講習会は途中でエスケープして、早めにこちらを参拝しよう」と計画しました。
 
 そして、講習会を早めに切り上げ、僕はその神社へと急ぎました。これがその神社の第一の鳥居です。山の急斜面に延びた階段の急なことと言ったら・・・傾斜角45°はありそうな感じでした。


 実際に昇ってみたら、なんだか45°よりも急な感じがしました。とても手すりにつかまってしか昇れない急勾配でした。しかも50段くらいはありそうで、途中下を見たら脚がすくむ程の高さと急勾配です。
 「こりゃ降りるのが一苦労だな」と思いつつ昇りましたが、すでに脚が疲れてきました。その階段を昇り終わると、未舗装の上り坂が続いていました。その坂道を登っていくと第二の鳥居がありました。 
 その第二の鳥居には“八大龍王”の文字がくっきり彫りこまれていました。なんだか期待に胸がドキドキします。その鳥居の先にも未舗装の上り坂が続いていました。目の当たりにする光景に「これは参拝と言うよりも探検みたいだな」と思いました。



 第二の鳥居をくぐり、坂道を登って行くと峠の頂上に着いたようで、一気に眺望が開けました。そして・・・僕はそこでデジャブを見たのです。「これって・・・こないだ見た夢の景色だ・・・」
 左手に急斜面。生い茂る樹木。夢では僕は杉林の杉の枝の上にいましたが、実際に立っている峠の高さと左手の急斜面は、夢で感じた感覚と一緒でした・・・。写真では急斜面や道の険しさが判りませんが、結構な急斜面で眩暈を感じるようでした。


 鳥肌を立てながら道を進むと、道は下り坂になって行きます。そして足元に第三の鳥居と・・・お社が見えてきたのです。
 その姿は、夢で見た左手の足元に見えたお宮にそっくりでした・・・。(僕はその時点で総毛立っていました) 夢のお宮は高床で、実際のお宮はもちろん高床ではありませんが・・・な、なんと断崖絶壁の崖っぷちに立っていて、まるで高床のような感じなのです(汗)


 その“八大龍王”のお社は、断崖絶壁の岩肌に建てられていました。横の外壁の縁は、岩肌の形に添ってトリミングされているのです。つまり断崖絶壁の一部分をお宮の外壁が取り囲んでいるのです。
 「うわ~。とてつもないところに着ちゃったな~。しかも夢そっくりだしさぁ~。しかし、こんなお宮の形今まで見たこと無いな~」と思いつつ、僕は期待と不安を胸にお社の正面へと向かったのです。(次回に続く)

テレビ怖いわ~

2009-06-29 13:09:19 | “時事”コラム
さっきのブログ書いてたら、ちょうどテレビのワイドショーで東国原知事の発言を取り上げていました。

番組のフリップには、東国原知事の発言として『自民党さんは、私を総裁として選挙を戦われる覚悟がおありですか?』と書かれていました。
しかし、これは明らかに間違いです。正しくは『自民党さんは、私を総裁候補として選挙を戦われる覚悟がおありですか?』であり、“候補”と言う言葉が、意図的なのか、間違いなのか抜けているのです。
これはテレビで繰り返し流されている東国原知事のインタビューのビデオでも彼は“候補”と言っています

事実6月25日付けの新聞には東国原知事の談話として「麻生首相の次に自分が総裁になるのではない。総裁候補の1人として衆院選の顔になることだ」と書かれています。
どうぞ皆さんも新聞を確認してみて下さい。

スポーツ新聞には「東国原知事、総理の椅子要求」みたいな見出しが出ていますが、そんなヨタ新聞ならまだしも、テレビの報道まで、興味本意の論調になっているようです。

今朝のその番組では、そのフリップを元に小倉さんらが『知事ちょっと天狗になってんじゃね~?』みたいな論調を展開していました。
東国原知事、すっかりテレビにハメられているようです。

昨夜はNHKの“ジャパンデビュー”という番組の第4回目を見ましたが、昨日の番組は『戦前の日本がいかに欧米列強に利用されて来たか』というもので今回は史実的にクレームは来ないだろうと思われる内容でした。

と言うのも、この番組の第1回目は、その内容が史実と違うと言うことで大騒ぎになっているからです。

第1回目は、戦前の日本の台湾統治を取り上げていたのですが、台湾人の70~80歳代の方々のインタビューで、本当は台湾人の方々は日本統治時代を懐かしんだり擁護する発言をしているのに、それは全てカットされ、台湾の日本統治は侵略的であったという論調になっており、放送後NHKには抗議の電話が殺到、その後東京でNHKに対する抗議の大規模なデモが発生したのです。

上記は店のお客さんが2週間前に僕に教えてくれたのですが、テレビにはそのデモ行進のニュースは一切報道されていませんでしたので、ネットで調べてみたらやはり事実でした。
そして最近、その騒動が裁判沙汰になったことが報道されました。

この事件には、一つには『テレビはどのようにでも番組を作れる』、もう一つには『テレビには全く報道されない事実がある』と言う教訓が含まれていると思います。

地方分権

2009-06-29 09:33:48 | “時事”コラム
以前のエントリーで、フランチャイズシステムの本部とその加盟店の関係について書きましたが、その関係って、我が国の“国と地方の関係”に大変似ているように思えてなりません。

国と地方の関係が、今次第に明らかになって来ていますが、それについて思うのは、国の地方に対する姿勢は『地方は生かさず殺さず、絞り取るのぢゃ~』なんだなと言うことです。

東国原知事の“総裁候補発言”が物疑を醸していますが、彼が本気で“地方分権”を考えていれば、やはり国政との対決は避けて通れないわけで、それを前提に考えれば、政党を問わず、既特権益を持った既存勢力とも対決していかなければいけないわけです。

各省庁の官僚支配を変え、国と地方の立場を対等にする政治の仕組みを作ることは生半可なことではないと思います。
なにしろ、明治維新から続く、幕藩体制を下敷にした“県”による中央集権体制を根底からひっくり返すことになるからです。
(中央集権による現在の国と地方の関係は、江戸時代の幕府と藩の関係と基本的に同じです)

そういう100年に一度とも言える大仕事をするのが自分の使命だと思うなら、総理大臣にならなければ出来ないと思うでしょうね。
逆に言えばそれ以外の方法論は無いでしょう。

確かに彼は政治経験が明らかに少なすぎますし、国政経験は皆無です。また彼が唱える“地方分権”によって、現在の日本が抱える難問が全て解決されるわけでもありません。

東国原知事の発言について、自民党のベテラン議員からは“アホらし”とか“顔洗ってこい”等と言われていますが、安倍、福田、麻生という最近の総理総裁の流れを見ていれば、今や自民党の総裁の椅子の価値は、彼等が考えている以上に軽くなっていると思います。

東国原知事は“総裁にしろ”とは言っていません。“総裁候補にしろ”と言っているわけですが、自民党員であるならば、誰でも自民党の総裁候補なのであって、東国原氏にそのようなことを言われたなら、自民党側は「基本的にどなたにもチャンスはありますから、どうぞ総裁選に出て下さい」と返事すれば良いだけの話です。
総裁選で東国原氏が勝つかどうかはまた別の話ですからね。
自民党はあくまでも大人の対応をすれば良いだけの話です。
今回自民党が、東国原氏のブチカマシに自民党がアタフタしたのは不意打ちを食らったからです。
自民党側は『駆け出しの知事なら国政をチラつかせれば有り難たがってホイホイ乗ってくるだろう』ぐらいの気持ちだったのでしょう。
自民党は東国原氏に政治的に何かを期待している訳ではないでしょう。自民党には彼の“人気”だけが必要なのですから。
用が無くなればポイ捨てするくせに、そんな安易な気持ちでノコノコ出かけて行くから足元を見られて足をすくわれる訳です(笑×2)

小泉さんは、確か4回目の総裁選で総裁になったんじゃなかったでしたっけ?
当初は、奇人変人で非主流で派閥の長でもない小泉さんが、総裁になれるとは誰も思っていない雰囲気でしたよね。
実際の選挙結果も、あまりの大敗に「あいつ何で出るんだ」みたいな雰囲気でした。
それが何度か総裁選に出馬しているうちに、次第に存在感が増して来て、とうとう総裁になってしまいました。(僕は小泉シンパではありませんので誤解無きよう)

要は…本人の“本気度”の問題なんですよね。
本人が本気ならば、とうてい無理に思えるようなことでも実現してしまうことがあるのだと思います。
その点で言えば東国原氏の“本気度”はまさしく本物でしょう。
だからこそ誤解されることやバッシングを承知の上で、世間に正々堂々と公言したのだと思います。
(陰でチョコマカやってる橋下知事よりよっぽど立派ですわ)
東国原氏がもし自民党の総裁選に出馬したなら、「アホらし」とか「顔洗ってこい」と言った自民党議員にも是非出馬して欲しいものです。
(行動をせず批判するのは誰にも出来るんですわ)

もうすでに風向きは変わっています。
我が国でも千葉市、横須賀市に最年少の市長が誕生しています。今回の横須賀市長選の結果で小泉さんの神通力も完全に無くなりました。

もはや政党政治の時代ではなくなっているような気がします。
国民はもう政党に期待していないような気がします。

僕もだんだん“道州制”による地方分権の日本の姿をこの目で見たくなって来ました。
あと20年で実現するでしょうか? なんて受動的なこと言ってないで、少しは能動的なことをしていかないといけないですね(笑)

お返事いろいろ(6/28)

2009-06-28 08:23:22 | お返事や連絡版
ねずみさん、ニワさん、コメントありがとうございました。

ねずみさん、僕もその点はかなり興味津々です(笑)
多分、やばい箇所はスッ飛ばしちゃうんでしょうねぇ。
だって、行為をあまりにもハッキリと書いていて、誤魔化しようのない箇所もありますからねぇ。
例えば…興味のある方は、創世紀19章30節『ロトの娘たち』を参照下さいませ。

ニワさん、おっしゃる通りマイケルも、これで波乱万丈の生涯をやっと終わることが出来るのでしょうね。
もし彼が今亡くなっていなかったとしても、るこれから20年もの間、彼が自分の心を満たすために彷徨するのは辛すぎるでしょう。
彼の突然の死に嘆き悲しみ涙を流すファンの人達とマイケルの心は多分すれ違っているはずです。

あ、それから“特高”特別高等警察の件ですが、調べてみたら、成立は“大逆事件”の翌年、明治最後の年にあたる明治44年ですね。
明治維新期の“廃仏毀釈”と“特高”には直接的には関係が無いようですね。

Michael

2009-06-27 14:48:24 | 雑感
 マイケルは大天使ミカエルにちなむ名前です。(“Michael”は英語読みではマイケルですが、ローマ字読みするとミカエルです)
 はたしてマイケルは大天使ミカエルに迎えに来てもらったでしょうかねぇ?

 テレビで、マイケル・ジャクソンのトラウマについてやってました。彼には父親のDVによるトラウマがあったそうですが、後年の彼の奇行の数々を見ると、それもさもありなん、という気がします。

 “Jackson5”は彼らの父親が発案して生まれた“兄弟R&Bグループ”ですが、ステージパパってのは大抵が暴力親父なんですかね。
 と言うのも・・・“Beach Boys”の実質的リーダーだったブライアン・ウィルソンの父親も、グループの“陰のマネジャー”として暴君的に君臨し支配していたことは有名な話でして、マイケルの父親のDVの話を聞いてそのことを思い出したのです。
 ブライアン・ウィルソンも当時、レコード会社の飽くこと無き新譜要求、過酷なツアーの繰り返しの中で64年には精神的破綻をきたしてしまい、その後一切コンサートツアーに参加しなくなるのですが、その大きな要因は破壊的な父親の存在があったのです。
 マイケルの後年の奇行は、父親によって傷付けられた精神を回復させる為の“代償行為”だったと思えば納得がいきます。前にブログに書きましたが、やっぱ幼少時の親の愛情不足による子供の“愛情飢餓”のトラウマには限りがないのですなあ。

 僕は、大人になって大成功したマイケルには音楽的に全然興味が無くて、“Jackson5”の方が断然好きです。モータウンレーベルのアーティストの中では“Jackson5”は決して上手いグループとは言えませんが、他の大人のグループには無い、“pure”な輝きがあります。

 “Jackson5”のナンバーの中では、僕は“I'll Be There”が一番好きです。このミディアムテンポのバラードのリードヴォーカルは当時11歳のマイケルですが、特にメンバーのコーラスが重なっていくエンディングが聞きどころで、コーラスとしては荒削りながら、その一生懸命さには何度聞いても聞き入ってしまいます。
 昨日は店までの通勤の道すがら、“I'll Be There”を聞いてマイケルを偲びました。
 今日朝のテレビを見ていたら、アメリカのファンが追悼集会で、その“I'll Be There”を歌っていました。これまた泣ける曲で追悼にはピッタリの曲なんですわ。東西問わず同じように思うものです・・・。

 ちなみに、“Jackson5”に刺激され我が国で結成されたのが、ご存知“フィンガー5”です。
 この“Jackson5”と“フィンガー5”は、真似しただけでは済まされないほど似ている点が満載でして・・・。まあこれは機会があったら書きたいと思います。

 またまたちなみに“Jackson5”のマイケルのすぐ上のお兄ちゃんマーロン君は、清水翔太君によく似ておりますね(笑)
(写真を参照下さい。一番手前がマイケル君。わお! その後が清水翔太君似のおマーロン兄ちゃん)

The Bible (その1)

2009-06-26 17:39:22 | “スピ”コラム
 先日、“聖書”を購入しました。決して宗旨替えしたわけではありませんよ(笑)

 僕のキリスト教話には種本があるのですが、その種本がかなり面白いんですよ。きちんと聖書の原文を引用しているのですが、その解釈がキリスト教信者が読んだら噴飯ものの面白さで、あまり面白すぎて、その解釈が本当にそうなのか前後の脈絡を読んで確かめたくなったのです。
(その著者は由緒正しいクリスチャンなのですが・・・)

 実家には、僕が子供の頃“エホバの証人”からもらった聖書があって、当時パラパラと開いて見たり、サラリーマン時代の出張の際にホテルの備え付けのものをナイトキャップ代わりに読んだりしていましたが、僕にとっては、聖書は決してお金を出して買うものではありませんでした。
(ちなみに“エホバの証人”と僕は無関係でございますよ(笑)ただ小学生の頃に自宅に4・5回くらい神様のお話をしに来て、その時にプレゼントとして貰ったのですわ。くれる物はとりあえず貰っとこういうことで・・・)

 本屋で聖書を手にとって値段を見てみると、2980円とか3980円とか・・・「うわっ高けっ!」と驚きました。「やっぱ止めよっかな~」と挫けつつ中をパラパラと開いてみると、ななんと訳が口語体になっているではありませんか。他の物も確認しましたが、全部口語体で、昔の文語体のものは無いようです。
 「これじゃ、あんまり有り難味がねぇなぁ~」と一瞬思いましたが、「読み物として読むならこっちの方が読みやすいよな~」とも思い直して・・・更にパラパラと読んでみると、「お~本家本元も結構面白いな~」と思いまして、購入することに致しました。

 “聖書”は・・・“聖なる書”である割には、かなり人間臭い人間の物語がテンコ盛りでありまして、かなり面白い人間ドラマがこれでもかと展開されています。
 旧約の方には、そんな人間ドラマに加えて近親○○や近親○○のドラマがやたらと出てきたりして、さぞエホバさんは、未熟な人間どもに手を焼いていたのではないかと思われますな。

 さて今日は、そんな中から発見した興味深い一節をあげてみたいと思います。

 創世記第6章第3節
『主は言われた。「私の霊は人の中に永遠にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして人の一生は百二十年となった。』

 これをなぜ僕が興味深いと思ったのかは次回に。もうピンと来た方もいっらしゃるでしょう(笑)
 

お返事いろいろ(6/25)

2009-06-26 00:34:27 | お返事や連絡版
ニューカネコさん、arisyaさん、ニワさん、コメントありがとうございました。

ニューカネコさん、勝手に大学としてしまい大変失礼致しましたぁ~(汗×2)
ともあれ、ニューカネコさんのコメントには今回も激しく著しく同感でございます。
師匠の教えの“真理”も解らずに、“してはいけない”と言われたことを“ついうっかりやっちゃった~。善意だからいいよね~”ってのは、慢心であり不悟であります。

実はこれ、キリスト教の成立も似たような経緯でして。
イエスが捕縛され磔刑にされるまでの間に3度も“イエスなど知らぬ”とシラを切りスタコラ逃げちゃった第一の使徒ペテロですが、後に彼を中心に原始キリスト教団が出来上がります。
そしてその後、原始教団に参加し、教団の論理的支柱となり、ヨーロッパ世界にキリスト教を精力的に普教したのがパウロですが、彼はイエスの処刑の時期には、反キリストの立場にありまして、イエスの死後も、ペテロの原始キリスト教団を迫害していたのです。
果たして彼等はイエスの“真理”を理解していたんでしょうか?

キリスト教を成立させているのは“三位一体”という教義ですが、イエスはそんな教義を一言も唱えていないし、自らを神だとは一言も言っていません。
な・の・に…『“エホバとイエスと聖霊”は本来同一のものであり、時と場合によって現れ方が違うだけ』という教義がひねくり出され、イエスは預言者から神へ仕立て上げられてしまいました。
これをイエスはどう思っているでしょうかねぇ?


arisyaさん、セブンイレブンをやられているご親戚も、いろいろとご苦労されているかもしれませんね。
どんなチェーンであっても『加盟店は生かさず殺さず絞り上げるのぢゃ~』ってのフランチャイズ本部の基本姿勢ですからねぇ。
今回の公正取引委員会の判断は、少なからずフランチャイズチェーン本部にショックを与えたものと思います。


ニワさん、今回は歴史的見地からのコメントありがとうございました。
古今東西に関わらず、新体制は旧体制を完全否定からスタートしますですからねぇ。

少し視点は変わりますが…。
明治維新の立役者は薩摩藩と長州藩から成る薩長連合ですが、薩摩藩士は、『自分達こそ天皇の側近』たる意識があったと思われますし、徳川幕府時代から、反幕府姿勢だったのは、『いつの日か倒幕し天皇を擁立。その時は我らが側近に』という意識が根底にあったのではないかと思われます。
このことは、日本書紀にそれとなく書いていますので、今度取りあげてみたいと思います。
“特高”と言えば悪名高い“治安維持法”の番人ですが、明治時代からその組織があったとは認識しておりませんでした。
(勉強になりました)

そろそろ…

2009-06-24 00:10:05 | “時事”コラム
いい加減、そろそろアメリカ型のビジネスモデルから脱却しないといけないと思う。

最近のセブンイレブン騒動の件だけれど、一店舗一ヶ月の、弁当・惣菜・パン等のデイリー品の廃棄量が金額にして30万円~40万円だそうですな。
セブンは1万店以上あるそうだから、全店では一ヶ月で30億円~40億円もの廃棄を出している訳です。(30億円40億円をゴミにして棄ててるってどうよ?ですね)

これって、今のエコの時代においては、一種の犯罪ですわな。

コンビニエンスストアもファストフードも、ビジネスモデルをアメリカから持って来たもので、その根底にあるのは“大量生産大量販売”です。

賞味期限の過ぎた商品や原材料、それによって売れ残った商品は、すべて廃棄するという思想やシステムはアメリカから輸入されたものです。

僕は21年間のサラリーマン生活の全てをファストフードのフランチャイズシステムの中で過ごしましたから、そのマニュアルが骨身に染みていましたが…いい歳になって、いい加減キャリアを積んで来ると「食糧自給率が40%しかない日本がこんなことしてていいのかな?」とか「食材廃棄のリスクは加盟店ばかりが負い、本部は儲けるだけでいいのかな?」なんて当然思うわけです。

今回のセブンイレブン騒動は、そのような疑問を持った加盟店側の一部が、賞味期限が近くなった商品を“見切り品”として、本部に無断で値引販売を行い始め、それに対してセブンイレブン本部が加盟店に圧力をかけたことに端を発しているようです。
それに対して加盟店側も黙っておらず、本部の行いを、公正取引委に訴えたものです。

僕が独立して、なぜ飲食のフランチャイズをやらなかったかと言うと…まずフランチャイズシステムの本部と加盟店の関係に嫌気がさしていたからです。
本部と加盟店の関係は、江戸時代の士農工商の士農の関係、『生かさず殺さず絞り取るのじゃ~』さながらです。
フランチャイズシステムの本部とは、加盟店にとって、『原材料や商品はどんどん売りつける。経営には口を出すが、経営のリスクは一切背負わない』と言う存在です。

本部は『ロスや売れ残りが出るのは、あなたの店のやり方が悪いから』の一言で片付けますが、加盟店にとっては死活問題です。
廃棄ロスが一ヶ月40万円もあったらさ…しかもそれが自分の月収と同等かそれ以上だとしたら…棄てるよりは“見切り品”として売りたくもなりますわ。
実際やってみたら、ロス金額が10分の1になって利益も出たケースもあったようです。
自分が自分の資金で仕入れた商品を、小売業の一般常識の範囲内で販売されることに対して、本部がいかなる存在であろうが、それを邪魔することは出来ないハズです。
当たり前の話ですが、本部から購入した商品の所有権は加盟店にあるのですから。

それに対して本部は“商品管理”や“運営管理”と称してアメリカ型のオペレーションマニュアルを押し付けて来ます。
本部の言うことを聞かないと“契約解除する”と脅します。
そして本部は、加盟店に売りつける商品や原材料からマージンを取り、加えて売上の数パーセントをロイヤリティと称して上納金も巻きあげるのですな。

とてもとても本部と加盟店は対等だなんてとんでもありません。

本家本元のアメリカが駄目になって、アメリカ型の大量消費経済がこの地球をおかしくしていることが明白なんだから、いつまでも馬鹿みたいにアメリカ型のオペレーションマニュアルを遵守してる必要は全く無いと思うのですが。

繰り返していいますが、コンビやファストフードから大量に排出される食材ロスは、そのチェーン本部がいかなる理由をつけようとも、絶対に社会悪だと思います。

ローソンは普通に、パンなんかは“見切り品”やってますよね。
僕なんかそれやってたら「ラッキー!」とこれ幸いに、あるだけ購入することもあります(笑)

加盟店も顧客も喜び、さらに環境に良く、食糧問題に良いことに対して、本部がなぜ横槍を入れるのか?
僕には、チェーン本部の独善と傲慢のように思われてなりません。

記者会見でのセブンイレブンジャパンの社長の、「一部社員に行きすぎた言動があったかもしれない」と発言は組織的関与を否定するかのような意図が見え見えですが、嘘つけ!って感じです。
SV(スーパーバイザー)会議には必ず、営業本部長と営業担当役員は出席しているはずですし、セブンなら社長も出席している可能性も十分にあります。
“見切り販売の阻止”は絶対に会社方針である筈です。
会社ってのは姑息ですよね~。

しかし、こんなこと書けるなんて、会社辞めてホント良かったぁ(笑)

お返事いろいろ

2009-06-23 17:52:14 | お返事や連絡版
 ニワさん、おっじさん、明さん、ねずみさん、昼行燈さん、ニューカネコさん、コメントありがとうございました。
 “誤解された仏教シリーズ”にまでコメント頂きましてありがとうございます。なんかコメントをおねだりしちゃった書き方でしたか?(笑)

 ニワさん、SF中編はまだ未発表にしときます。まだ投稿に未練があって、手を入れて機会があれば投稿しようかな~と思ってまして。
 バンドにおける僕の役割は・・・ニワさんご名答で、ジョンです。リッケンバッカー(もどき)を抱えて唄っておりましたですよ。ちなみに僕のもう一個のハンネは“慈庵礼音”です(笑)

 おっじさん、“朗読者”読了のご報告ありがとうございます。お二人から見れば、“訳”についてはご不満なんだろうな~と思います。ぶっきらぼうと言うか稚拙と言うか・・・でもその稚拙さは意外にドキュメンタリー的な迫真性を生んでたりして・・・。対象を突き放した表現が良かったのかもしれないな~なんて思ったりします。

 明さん、『仏教は純水、神道は清流』のご意見は卓見だと思います。『極めて汚濁き事も滞り無ければ穢濁きはあらじ内外の玉垣清し浄しと白す』とは“神道の一切成就祓”ですが、まさに神道では“滞りなく流れる”ことが清めの原点であります。
 仏教は純水ながら、その教義があまりにも複雑化して、現代において滞っているのかもしれませんね。

 ねずみさん、僕もねずみさんのご意見に激しく著しく同感です。古神道は自然の中に神を見出しました。神道は現在においても自然と密接に結びついており、それは神事においても不可分です。
 僕が神道は信仰するのは、それが日本の風土から生まれた日本古来の日本固有の宗教だからです。僕達は日本の国土に生を受け、日本の国土に生かされています。それならばやはり日本の神々を信仰するのが自然だと思ったのです。
 それにやっぱ神社が好きです。自然の息吹を感じられる清浄な神社が好きなのです。
 
 それから、さっそく夢のエントリーのコメントありがとうございました。“霊夢”の大家であるねずみさんにご意見頂きたかったのですよ。
 なんとなく薄々感じてはいるんですよ。脱魂後、○○界に連れて行かれたんじゃないかと思ったりしてて。ひょえ~~~。
 ちなみに、昨日実家に行ったついでにその小径を通ってみました。左カーブの直前から草ぼうぼうになって行き止まりになっていました。(そこから○○界の入り口になってたりして・・・) 

 昼行燈さん、僕があの書籍のことを取り上げているのは、仏教界の基本体質と混乱を少しでも白日の元に晒したいからなんです。それには、仏教界の人間が、仏教界の混乱を提示しているものが一番いいですからね。
 以前、あるコミュニティで、『明治期における廃仏毀釈は神道の横暴だ』みたいな論調のコメントがあって、明治政府と神道が槍玉に上がっていたことがあるんですが、僕はその時、果たしてそうなんだろうか?と疑問を持った訳です。それを解明したいという理由もあります。
 昼行燈さんの、『仏教の教えが難しすぎる点が真理と遠いところなのではないか?』というご意見は、私激しく著しく賛成でございます。“真理”は極めてシンプルなものだと思っております。

 ニューカネコさん、仏教系の大学をご卒業とはつゆとも存じませんで、大変失礼致しました(汗)
 ニューカネコさんの『じゃあ、現在の仏教はオールダメダメじゃん』の声には、この健龍、あ 激しく著しく賛成でござるぅぅぅ~です。
 日本の仏教は変容しています。この書籍の著者は“変容”の理由を仏教界のなかに求めず、神道や民衆のせいだと言わんばかりの論調に僕はムカッと来るのです。
 僕は、仏教が変容したのは、仏教界と仏教徒に問題があるのであって、対機説法(人を見て法を説く)にて、民衆に誤解させるような布教をして来たからだと思っています。
 個人的には、“本地垂迹説”をひねくり出して、時の権力と結びつき神道を従属させた仏教は、その時点で“廃仏毀釈”と同様のことをしたのだと思っています。
 あっ!すいません。ついついマジになってしましました。ニューカネコさんのコメントがあまりにも的を得てるんで、つい力が入ってしまいました(笑)
  
 

無題

2009-06-23 08:30:28 | 雑感
『小川に沿って続く公園の土手下の小径。
気が付くと僕はその入り口に立っていた。

左手には見覚えのある古びた民家があり、右が公園下の土手と小川。
そこは子供の頃のお気に入りの場所だ。
以前から気になっていて、機会があったら一度行っておきたいと思っていた。

「ああ、やっと来れた」嬉しさが込み上げて来て、僕は歩き始めた。
「この道は左手に少しカーブするハズだ」と思いながら進むと、その通り目の前の小径は左手に弛くカブーしている。

カーブにさし掛った途端、光景が暗転し、僕の足場は杉の木の枝に変わっていた。

どうやら僕は鬱蒼と繁る杉林の中にいて、高い杉の大木の中程の枝に立っていて、枝につかまりながら枝から枝へと歩いているらしい。
杉の木はかなりの大木なのだが、僕がつかまりながら歩くとゆさゆさと揺れて足元がかなり危なっかしい。

左手の下の方に、清水寺の様な高床のお宮が見えた。
高床を支える柱の上には龍の台座があり、その上にお宮の床が乗っている。

最初、その台座の形がよく分からなくて、少し下に降りてみて確認し「やっぱり龍だ」と思った。
このまま下に降りて行って、お宮を見てみたいと思ったが、杉の木づたいに枝から枝に下に降りて行くのは自信がないので止めて、前に進むことにした。

顔を挙げると、左手の眼前に大きな神社があった。
正面は前の方にあるらしく、目の前にあるのは側面のようだ。
古色蒼然とした感じで外壁は古びて白茶けている。
杉の大木の中程までの高さにあるのだから、余程の高床らしい。

僕が枝から枝へと歩くと杉の木はゆさゆさと揺れるのだが、それにつれて目の前の神社も揺れているようだ。
「この神社、土台は大丈夫なのか?」と思い、神社の外壁に手を当てて揺すってみたら神社はグラグラと揺れた』

今朝の朝方見た夢です。やたらリアルだったので書いてみました。
俺、もしかして良くない所に連れて行かれちゃったかな(笑)

今日実家に行くので、その小径に行ってみようかと思っています。