ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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「天タマ」第27号

2006年10月12日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第27号(1999年12月6日発行)

           市立看護専門学校 哲学の教科通信

 11月25日は「学生版アンケート」の準備が主たる目的でした。そ
こで「公正な評価とは」というテーマを用意したのですが、その前
の回のレポートで「先生が『看護過程で疲れているから眠い人は寝
ててもいい』と言ったのはおかしい」という問題提起がありました
ので、これもテーマとしました。

 休憩は特に設けませんでした。VTRとしては、横河電機の成績
評価システムを見ました。

      寝ている生徒を教師は起こすべきか

 授業中に寝ることは他人の迷惑になるわけではないが、先生に対
して失礼である。自分も損である。寝ない方がいいに決まっている
のだが、無意識の内に寝てしまっている。眠い時は5分でも10分で
も寝てしまった方が、かえってその後、頭がすっきりする。先生は
起こす必要はない。試験等との関係で特に重要な時は起こしてくれ
るとありがたい。眠くなる授業のやり方にも問題がある。・・こう
いった考えが多数意見のようです。

   「寝る要因」を詳しく分析して考えてみましょう。

 ★ 生徒の内部の要因(主体的要因)

 (1) 生徒の自覚の欠如。
一般的な事情としてはこれも考えられますが、本校の場合はそう
いう生徒は少ないと思います。高校などではあるかもしれません。


(2) 疲れている。
本校の勉強は学年が上になればなるほど大変になるようです。2
年の後半は看護過程というのが始まり(?)、これがとても大変な
ようです。その上、多くの学生がバイトをしています。これも仕方
ない面もあると思います。

ある人は「バイトのあとで勉強をするので、どうしても11時頃か
らになってしまい、寝るのも遅くなってしまう」と書いています。
当日、他の科目で試験があり、徹夜に近い勉強をした場合などもそ
うです。本校では部活で疲れているという場合は少ないと思います


(3) 血の巡りの悪化。
これも少しはあると思います。授業開始前に外で深呼吸するとか
、柔軟体操みたいなことをして血の巡りをよくしておくというのも
、眠気撃退に役立つと思います。NHKの番組「ためしてガッテン
」によると、飛行機の中でもトイレに立った時などに関節を動かし
たりすると疲れが小さくなるそうです。

 ★ 授業の性格、教師や環境の要因(客体的要因)

 (1) 国家試験に無関係な科目
その授業が国家試験に関係があるかないかについては、言及した
人はほとんど「無関係」としていましたが、私は関係があると思い
ます。国家試験に関係する科目のテストがあれば徹夜したりすると
思います。

本校の授業科目は、看護専門のこととその他とに分けられます。
両者の重要性の比重は、国家試験に合格するまでは8対2か9対1
くらいでしょう。しかし、看護婦になり社会人になった後では、半
々だと思います。これは既に書きました。しかし、現在は皆さんは
国家試験に受かる前なのです。ですから、試験に関係のない科目は
、関係のある科目よりはやはり、眠らない動機は小さくなると思い
ます。

(2) 授業に刺激や魅力がない
多くの人が「授業にも問題がある」として、具体的には、教科書
を読むだけの授業、先生が一方的に話すだけの授業、声の小さい先
生の授業、を挙げていました。これはやはり一番大きい要素だと思
います。授業は先生で8割決まるのです。先生がその8割の責任を
果たしていないとき生徒が眠ったら、先生の方が悪いと思います。
生徒は先生の姿を写す鏡なのです。生徒参加型の授業にし、いろい
ろな工夫をして授業が単調にならないようにすることは教師の大切
な仕事だと思います。

(3) 先生が生徒の顔と名前を覚えていない場合も、そうでない場
合より眠りやすい。中学や高校では怖くない先生の場合は怖い先生
の場合よりも眠りやすいと思います。

(4) 教室の物理的な事情
換気が不十分で教室の空気が濁っているとか、暖房がききすぎて
いる場合、それは眠気を誘う方向に働くと思います。私はこの要因
も結構あると思っていますので、換気をお願いしているのです。冷
暖房という反対の仕事を一つの機械でまかなっているため、暖房時
は頭の上の方が温くなり、寝る方向に働くと思います。暖房を弱め
にして膝掛けを使うというのはどうでしょうか。

       考え方

 世の中の多くの事柄がそうですが、この問題も寝る方向に働くベ
クトルと寝ない方向に働くベクトルとが全体として一つのベクトル
になるのだと考えるべきだと思います。授業の責任は8割は先生に
ありますから、まず先生が生徒を引きつける工夫のある授業をする
ことが先決だと思います。皆さんの考えは生徒に厳しすぎると思い
ます。ある人は「『授業中に寝る』のは良くないけれど『授業中に
寝てしまう』のは仕方ない、と思う」と書いていました。言いえて
妙です。

 哲学の授業の場合も、最近は少し寝る生徒が出てきました。それ
は講師の話が長くなった時とVTRが長くなった時とのようです。
しかし、寝る人はごく少数のようですから、まだ教師の責任という
より、生徒の疲れの要因の方が大きいと思います。

 本校の3年間のカリキュラムに改善の余地はないのか、2年後期
の看護過程ももう少し他に回せないのか、分かりません。週に2回
の授業ではベストの授業が出来なくて辛いですが、来年はS大の方
がH校舎勤務になりますので、少し助かります。

        その他

──(牧野)先生も自分で「寝てもいい」と言ったのに、生徒に矛
盾すると言われて、それを問題提起するのは、少し納得がいきませ
ん。「寝てもいい」と言う以上、その言葉にも意味があったのでは
ないかと思うのです。

 ★ 何が問題なのか、理解できません。授業のあり方について生
徒から問題提起があった場合には、それを取り上げて話し合うこと
はぜひ必要な事だと思います。まして、哲学のように、(思考の)
形式についての反省をしつつ内容(テーマ)について考えていくと
いう学問ないし授業の場合には、そうすることこそが哲学であって
、生徒から疑問が出ているのにそれを無視して進むのは哲学ではな
くなると思います。

 なお、私は「寝てもいい」と言ったのではなくて、「看護過程で
疲れているから、寝るのは仕方がないと思う」と言ったのです。こ
の発言はかなり支持されています。私は自分の授業に最大の工夫と
努力をしており、従って自分の授業にそれなりの自信を持っていま
すから、私の授業で寝るのはよほどの理由があるのだと推測するの
です。

 また、こういう問題を考える時の多くの人の間違いは、「生徒に
矛盾すると言われて」という考え方です。これは、その生徒が「矛
盾すると思った」ことだけを意味しています。その「思い」は間違
っている(客観的には矛盾していない)かもしれないし、正しいか
もしれません。ですから話し合う必要があるのです。矛盾すること
を認めたから話し合うのではありません。

      公正な評価の前提

 S大の教科通信に今年、次のような文を書きました。

──前回と今回のアンケートの中に、教科通信(ユーゲント)を毎
回出して欲しいとか、もっと多く出して欲しいという要望がありま
した。これは大切な問題を含んでいると思います。

 まず、アンケートを取ることと教科通信を出すことは良い事であ
る、あるいは「先生はそうあるべきである」ということは前提しま
す。すると、それを例えば月に1回のペースで行っている先生に向
かって「毎回やって欲しい」と言うのは正しいでしょうか。

 私は正しくないと思います。なぜなら、その前にまず、それを行
っていない先生に「アンケートを取って欲しい」とか、「教科通信
を出して欲しい」と要求する方が先だと思うからです。あるいは学
長に要望書を出して「アンケートや教科通信を制度にして欲しい」
と言うのが正しい態度だと思います。

 しかし、多くの人はそうは言わないで、既に行っている先生に「
毎回出して欲しい」といった要求をします。何故でしょうか。人間
の中には「言いやすい人に言う」という傾向があるからだと思いま
す。しかし、これでは世の中はよくならないと思います。「言うべ
き人に言う」というのが公正な態度ではないでしょうか。ちなみに
、フレセミ(1年生の大半が受ける少人数のゼミナール)について
の文の中で、「ここで教科通信が出ていたら、もっと充実したと思
う」という趣旨の事を書いている人は一人もいませんでした。少し
想像力に欠けるのではないでしょうか。(引用終わり)

 私はこれは「人間のずるさ」だと思っています。もちろん私にも
あります。しかし、だからといって、それを放任しておいてよいと
いうことにはなりません。それでは世の中はよくならないからで
す。

 ここで考えるべきもう1つの問題は、オリックスのイチロー選手
には4割を打ってほしいと言うが、他の選手には言わないのはなぜ
か、これも不公正か、という問題です。力のある人は他の人より大
きい責任を持たされます。これは不公正でしょうか。考えてみて下
さい。

      主観的な言葉を卒業して下さい

 今回の授業中のいねむりについての問題提起は、「先生は受講態
度を成績の中に含めると言ったのに、『看護過程で疲れているから
、寝るのは仕方ない』と言ったのは悲しかった」という文でした。


 今年は特にこういう「悲しかった」とか、「傷ついた」とか、「
~と聞こえる」とか、「ショックだった」という主観的な言葉が多
いようです。こういう主観的な印象は出発点ですが、そのまま出す
のは原則としてしないで下さい。

 社会的な発言ではその主観的な印象の原因を客観的に追求して、
 (1) どの言動を問題にしているのか、
 (2) それを判断するための尺度となる法律や社会通念は何なのか
 ということを考えて、「これこれはこういう社会通念に反するか
ら間違っているのではないか」とか、今の場合なら「先生の今回の
発言は授業要綱と矛盾しているのではないか」とか、そういう客観
的な言い方をマスターして下さい。

そして、その発言の際には、自分の判断も間違っているかもしれ
ないから、相手の話も聞くという姿勢を持って下さい。これが大人
になるということだと思います。もっとも大人でもこれの出来てい
ない人は沢山いますので困ります。だからこそこうして皆さんと哲
学をしているのですが。

自分で石に躓いて転んだら、転んだ人が悪いのです。本人が傷つ
いたとしても、相手が悪いとは限らないと思います。気づきにくく
、従って躓きやすいように石をおいていたというなら、その時はそ
う言えばよいのです。

根拠を挙げて冷静に話し合いたいものです。